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演じることと、それそのものになることと

外は雨が降っている。パソコンを通して相手とのやり取りを終え、ミーティングルームを閉じた時にはじめて、雨音に気づいた。

洗濯物は、まだ外だ。慌てて窓を開けてゆらゆらとぶら下がる服に触れば、一度乾いた後に何滴か雨粒が染み込み、しっとりとしている。

さっきまで画面越しに相手にアドバイスなんかしていた私は、こんな風によく洗濯物を濡らす。天気予報を見ないからだ。

ミーティングルームで話していた相手は、私の話を熱心に聞いてくれていた。私はその様子に少し得意げな気持ちになっていたが、時を同じくして、ベランダでは洗濯物が雨にさらされていた。
相手は私が洗濯物を濡らしてしまったことを、もちろん知らない。私はみんなが知らない、長年付き添ってきたそういう私に、いつも失望する。

干していた服は湿っているけれど、また洗濯するほどでもない。そのまま室内にぶら下げて、ソファに座った。スマホを取り上げて、その画面に親指を何度か軽やかに滑らせると、通知を知らせる数字が赤く付いている。そろそろ家族が帰ってくる。

冷蔵庫を開けて、いま何があったかを改めて確認する。今日は買い物に行けなかったから、予想通り中途半端な野菜以外、何もない。何もないけど、なんとかそれらを合体させて、名もなき料理を作る。そうやって毎日、家族の腹を満たす。

変わらない、いつもの夕方。ふと、夕食を食べながら我に帰れば、なにか家族の中での役割を果たしている自分自身に不思議な気持ちになる。配偶者として。親として。

洗濯物は濡らすわ、皿は割るわ、スーパーに買い物に行けば買おうと思っていたものを忘れて結局どうでもいいものばかりを買ってくるわの私であるが、毎日(再現性はないけれど)料理を作り、家族に食べさせている。家事をしている。そう客観的に見れば、まあよくやっているような気がしなくもない。

でも。でも、その役割が“私”であるという認識があまりなく、ただ演じているような気がしなくもない。配偶者を演じている。親を演じている。パソコンの前では、できる人を演じているのかもしれない。私自身とそれらとは、完全に同じではないような気がする。だから、客観的に毎日家事をする自分に気付けば、少し滑稽なのだ。現にうまく演じられずに、色々なヘマをするのだし。

ただ、一生こうやって演じていれば、それはもはや本物なのかもしれない、とも思わなくもない。演じることと、それそのものになること。そこにある違いはなんなのだろうか?自分自身の覚悟や納得、そういうものなのだろうか?どんなに完璧であっても、それが自分でないと思う限り、それそのものになることはないのだろうか?

夕飯の片付けをしている時、中学生の息子が明日遅くなる、とぽつりと言った。友だちと川で泳いでくるから、と、都会育ちの私には信じられぬ遊びをしてくると言う。

その意外性とおもしろさにかまけて快諾する一方で、流されては困ると、すぐにライフジャケットをネットで注文する。もちろん、明日には間に合わないのだが。

布団に入り、どうか明日だけは流されずに帰ってきますように、と何かに対して願う。その滑稽さにもまた、自ずと笑えてくる。まるで、親みたいだ。

私はとても、“親”に不適合な人間だと思う。こうやってなんとかかんとかやっていることに、自分でも驚く。(私がダメな分、息子はとても自立している子なのだ)

でも、下手ながらにも演じ続けていたら。本物になれるかもしれない。私は、本物になりたいのだろうか?そもそも、本物とはなんだろうか?

それそのものになること。

目を瞑り、明日の仕事の予定を頭の中で反芻する。きっとまた、私はパソコンの前で何者かを演じるのだろう。相手はそれを本物と思う。でも私は、また洗濯物を濡らすのだろうし、買い物も下手くそだ。

私は長年そんな自分と生きてきたから知っている。でも、相手にとってはパソコン越しの私が、私なのだ。私はこんなにも、とんでもない人間なのに。

堂々巡りをしていたら、知らぬ間に眠りについていた。そうだ。眠っている時の、私。小さい時からずっと変わらずに、ここにいる、私。

朝起きた時に、掴みかける感じがあるものの、何分か経つと消え去ってしまう、あの、なんとも言えない感触。

何者でもない。いや、もしかしたら、演じている私さえも、すでに。すでに、それそのものなのかもしれない。

次の夕方、パソコンを閉じたら玄関のドアが開いて、息子は流されずに帰ってきた。その様子を見て、私は胸を撫で下ろすのであった。


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