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AIの演者が映画に出る日

今日思いついたこと。

AIの演者が映画に出るようになれば、映画の内容はより陰鬱なものになっていくのだろうか。
VOCALOID台頭以後の日本の音楽シーンで陰鬱な曲ばかり流行るようになったように。

映像は人と人の関わりがなければ作ることができないので、最低限のコミュニケーション能力や政治力(?)がないと現場を回すことができない。
結果として、その界隈で発言権や決定権を持つ人は最低限のコミュ力を持っていることになり、恋愛や任侠など人間関係に重きを置いたストーリーが多く制作されてきたように感じる。
映画という媒体がマチズモな側面を持つことは色々な作品を観ていて露骨に感じるところであるし、近年マチズモに批判的な映画も多く作られていることから、映画産業自体がその構造から脱しようとしている過渡期でもあるように感じられる。

VOCALOIDの台頭以降、生身の人間の声を必要としなくなった楽曲製作者が作る陰鬱な曲が、じわじわと平成の陽気な曲たちを押し退けて日本のトップチャートに影響を広げていったように、映画でも同じような現象が起こるとは考えられないか。
今まで現場で大きな声を出せなかった気弱な青年たちが、パソコンの中だけで完結する制作により、思い通りの演出をすることができるなら。
個人での映画の制作が可能になれば、個人がコントロールできる幅がより広がり、漫画や小説のような内省的な作り方になっていくのだろうか。

私自身は映画を作った経験がまだ本当に浅い状況だが、たった一人で制作できない分「コントロールできる範囲が狭い」と感じた。これは決してマイナスな側面だけではなく、撮影の最中に起きる可能性が広がることも含んでいる。
「どうしても事実が写り込んでしまう」という映像の特性がある。監督と演者・演者同士の関係性や、その日の天気・光・コンディションなど。
この「事実の世界を用いて虚構の世界を作る」ということが覆されて「虚構の世界を用いて虚構の世界を作る」ことになったとして、そこから生まれる映画は果たして面白いのだろうか。味気ない気もする。

しかしまた一方で、これまで不十分であった視点が業界にもたらされ、作品の幅を広げていくとしたら、既存の映画に対して「自分のための物語ではない」と感じていた層に射程が広がることになり、映画はそれまで取りこぼしていた層にとっての居場所になる。それはとてもいいことのような気もする。

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