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年下の君にリンドウの花束を。

「実は、旦那に内緒で5個下と付き合ってるんだよね」


10か月ぶりに再会した友人は、声を潜めてカミングアウトしてきた。

2年ちょっと前に生まれたという女の子はこの春から短時間だけ保育園に通い始めていて、半年経つ今でもまだ1度も泣いていないのが母親としては少し寂しいらしい。


「なんでまた5個も年下と?」「パート先にいるバイト君。仕事しているうちにいつの間にか、って感じ。」「ふうん。」

不規則な勤務形態で有給も取りやすいとはいえ、わざわざ平日に休みを合わせたのに聞かされるのが不倫話とは。

「パートなんてしてたっけ?」「土日だけね。旦那の稼ぎだけじゃ保育料もカツカツだよ。」「へえ、そういうもんか。」じゃあ保育園に行かせなきゃいいじゃん、なんて思う私の相槌はあまりも興味がなさそうだったかもしれない。



「で、わざわざなんでその話を私に?」「だって!こんな話、結婚してる子に言ったら非難されるだけじゃん。」

分かっているならそんな行動しないでほしい。延々に続けられる惚気話に当たり障りのない相槌を打ちながら、自分の表情がどんどん死んでいくのを感じた。



「あー、疲れた。」

8畳ワンルームのアパートに帰ってきた。社会人になったタイミングで借りたこの部屋も、もう6年目になるらしい。慣れた手つきで冷蔵庫を開けると、冷え切った缶ビールがお出迎えしてくれた。

「不倫、かあ。」

不倫は悪いことだ。友達がそんなことをしているなんて、もちろんいい気分にはならない。かといって、わざわざ止める気も起きないのが正直なところだ。


「だって私たち、もう28だよ」

彼女の甲高い声が耳に残っている。
そうだ。28歳だ。どれだけ少なく見積もったって、アラサー扱いされる。

彼女は「もう28なんだから、自分の判断で不倫している」
私は「もう28なのに、なんでそんな危ない恋なんかするかな」

同い年でも、高校からの友人でも、捉え方はこんなにも違う。

なんだかモヤモヤする気持ちを、泡と苦い液体で流し込んだ。



「ってことがあったんだけど。」

休み明けのオフィスで、横の席の同期にさっそくこの話をした。

「それ、私に言って大丈夫な話なの?」「別に口止めされてないし。それに知らない人の話だもん。」「まあ、こんな単純作業中にはもってこいの話題提供だけどさ。」「でしょ?」


同期とは入社してからずっと違う部署で働いてきたが、1年前にこの(うちの会社では冴えないと言われている)事務職に一緒に異動になった。私は営業成績が鳴かず飛ばずでの部署異動、彼女は受付嬢として取引先に手を出しすぎた結果の部署異動。

事務職は人前に出る機会もほとんどないいわゆる雑用係で、いまは数百枚のはがきのあて名書きを押し付けられている。


「てかさ、その君の友だち何、5歳下って。考えられない。」「あなた根っからの年上好きだもんね?今の彼氏は何個上だっけ?」「いまは3個だからそんなに歳の差ないよ。先月まで付き合ってた人だと11個上だったもん。」「え、また彼氏変わったの?」「そうそう。言ってなかったけ??」「聞いてないよ」

事務職になってからもどこから捕まえてくるのか恋人が絶えない彼女。たしかに、未だに年齢確認をされそうな幼い顔は、28歳には到底見えない。年上のお兄様方に大層モテるのだろう。


「でもそろそろ本気で結婚かな、両親からも急かされるようになっちゃったし。」

郵便番号を丁寧に書きながら、同期は言う。受付嬢時代と何も変わらない整った身だしなみにうっとりしてしまう。

「結婚、ねえ。」「しないの?私と違っていい奥さんになりそうなのに。」

お弁当も毎日手作りだしさ~、とそれっぽい理由をあげられるけど、私は笑うことしかできない。



定時ピッタリに退勤し、アパートとは逆方向の電車に乗る。キラキラ光る水族館の入り口を抜け、受付のお姉さんに年間パスポートを提示した。


夜の水族館が好きだ。


元彼がきっかけで水族館に通うようになった、というのは今や黒歴史だが、仕事終わりの時間を充実させられるのは素直に嬉しい。

大水槽から少し離れたベンチソファーに座り、ポケーっと館内を見渡す。平日の夜は人もまばらで、息がしやすい。


「あれ、来てたんですね。」「いま来たところ。」「それはそれは。お仕事お疲れ様です。」

このアルバイトの男の子とは半年くらい前から会話をするようになった。きっかけは、あまりにも私がこのベンチで泣いていたからだったろうか。


「最終面接はどうだった?」「なんとか受かりましたよ~!内定3社目ゲットです。」「お、良かったじゃん。」「お祝い、してくれるんですよね?」

そんな約束したんだっけ、と首をかしげると、忘れるなんてひどいな~なんて笑われる。


「内定3社出たらお姉さんが駅前のコース料理連れて行ってあげる、って言ってたじゃないですか!」「えー、そうか、言ったかも。」「言いました。だから連れて行ってください。」「わかった、わかったよ。」

じゃあ携帯出して、と言うと、彼はキョトンとした顔をする。

「連絡先知らないと連れていけないじゃない。」「ああ、そうか。」


アイコンの犬は実家で飼っている子らしい。いつものアルバイトの制服には苗字しか書いていないから、下の名前はLINEを交換して初めて知った。

「僕、基本19時までで上がれるので。」「じゃあ来週の木曜はどう?次の日休みなの。」「お姉さんのためならいつだって空けておきますよ。」「調子いいなあ」


とんとん拍子で日程も決まり、「お店、予約しておきます!」なんて言うもんだから「それはさすがに私がやるよ、君のお祝いなんだし。」と断った。それもそうか、と彼は笑い、「じゃあ僕これでシフト上がるので。閉館まで楽しんでいってくださいね!」とパタパタ走り去っていく。

思わず「若いな…」と呟いてしまった自分に、老化を感じて悲しくなった。



「ってことがあったんだけど。」

いつも通り雑用をしながら話すと、同期の元受付嬢は目を丸くした。


「ええ?珍しいね、まさか男の話を聞かされるとは思ってなかったよ。」「男の話って…6個も下の学生、息子みたいなもんだよ。」「そんなわけないでしょ、現にあなたの友だちとやらは5個下と不倫してるんだからさ。」「それとこれとは話が違うよ。」


と、言いつつ、レストランの予約をしながらワクワクしている自分はいた。

「…男の人と出かけるの、何年ぶりだろ。」と予約完了メールを眺めながら呟くと、「え!?」と大声をあげる同期。「ちょっと、声大きい。」「あ、ごめんごめん。」


元彼と別れたのが3年前。別れてすぐは合コンとかも行ってたしそれなりに遊んでいたけど、気が付けばここ2年はずっと1人か女友達とばかり出かけていた気がする。

やっと名前を知ったばかりの6歳下の男の子との外食を『デート』なんて呼ぶ気はないけれど、せっかくの機会だ、少しくらい気合を入れなければ。


「やっぱりスキンケアじゃない?レストランならお互いの食べる姿もまじまじと見るわけだし。」「そうだよね…って言ってもあと1週間でどうにかなるのかって感じだけど。」「なるなる!今日帰りにデパート行こうよ、おすすめの美容液あるからさ。」

この強引な同期に乗せられていると、気づいたら初デートの気分になってしまうから怖くなる。「お洋服はネットで探そうね」なんて、いつの間にか服まで買うことになっているから侮れない。



「ほら、せっかくならこのリップも買っていきなよ」

案の定同期はショップの店員さんよりも激しい押し売りを初めて、私はひたすら苦笑いをしている。


「もういいって、この美容液だけ買うから。」「えー、もしキスすることになったらどうするの?」「しないから!」

店員さんからの「デートですか?」という問いにも「そうなんです!しかも数年ぶりの!」なんて余計なことまで答える同期を、一刻も早くデパートから追い出したい気持ちでいっぱいだった。

思ったより高めの金額に倒れそうになりながらも足早に美容液を購入し、同期の腕を引っ張ってデパートを出る。「私とお揃いの美容液だね!」ってどこまでお気楽なんだこの子は、と思いつつ、どこか憎めない。こういうところがモテるんだろうな、と少しうらやましくもあるのだった。





「じゃあ、君の3社内定をお祝いして、乾杯。」「かんぱーい」

初めて使ったデパコスの美容液で肌を誤魔化すように整えた。今日はわざわざ退社後に1度帰宅して化粧直しもしたし、結局ネットで綺麗目なワンピースを新調した。

久々に巻いた髪は変じゃないだろうか。夜景を見るふりをしながら窓ガラスに映る自分を見てしまう。


「カトラリー、って言うんですよね。このナイフとかフォークとか。」「うん。」「僕こういうところ来たの初めてです。なんか緊張しちゃうなあ。」

学生でこういう店に来慣れているほうが嫌だよ、と言いそうになったけどやめておいた。今日は彼が6個も年下の学生であることは忘れたかったから。


「お姉さんはよく来るんですか?こういうお店。」「来ないよ、来る相手がいないもん。」「ああ…いつも水族館も1人ですもんね…」「うるさいな、今日奢らないよ?」「それはいいですよ別に。」「え?」

予想外の返事に固まると、「だって僕、お姉さんとご飯行きたかっただけだし。」と、なんだかズルい笑顔で覗きまれて柄にもなく照れてしまった。


「おばさんをからかわないの。」マッドな口紅を塗った自分の口からそんな言葉が出てきて、(ひと昔前の小説の主人公みたいだ)と思わず笑ってしまったし、(いつの間にかしっかり歳をとってしまったんだな)と切なくなる。
「おばさんって…なんでそう自分を卑下するようなこと言うかな。」目の前の6個下は呆れたようにワイングラスに口をつけている。今日くらい歳の差は感じたくない、って思っていたのは自分なのに、おかしいな。こんなはずじゃなかったんだよ。


「お姉さんって、もう恋人はいないんですか。」

姿勢を正すように座り直した6個下がまっすぐ目を見てくる。アイラインを引いているみたいにくっきりとした2つの目はこちらを品定めするようで、慌てて目をそらした。ワイングラスを傾けながら、こっそり深呼吸をする。所詮相手は学生だ、惑わされることはない。

「どうだろうね?」「ふふ、そうやって強がるところ、僕けっこう好きですよ。」

はい、ノックアウト。お手上げ。

「…正直な話さ。」「はい?」
またまっすぐ私を見てくるから、何を言おうとしていたか忘れてしまう。食べながら聞いてよ、と運ばれてきた魚料理に目線を誘導する。


「男の人と2人で出かけるなんて、2年ぶり。君との年齢差も、これがただの外食なのも理解しているけど、さすがに緊張してる。」


こんなことを言う私の姿なんて見せたくなかった。ただでさえ水族館に頻繁に1人で現れるし、君と初めて話した日もなぜか号泣していて最悪のスタートだったというのに。数少ない異性との関り。君の前では素敵なお姉さんでありたかったんだけど。


「お姉さん、酔ってる?」「…そうかも。変な話をしてごめんね。」「あのさ…今さら着飾らないでくださいよ。お姉さんの弱ってる姿なんて、水族館で数えきれないほど見てきたつもりだよ。」

こいつは本当に6個下なんだろうか。

「ずっと思ってたけど、モテそうだよね。」「え?僕?」「君以外に誰がいるのよ。」「はは、そうか。うーん、まあ。でもお姉さんが思ってるよりは全然モテないですよ。」



「水族館、土日は絶対に来ないですよね。」「混んでるじゃん。いつものベンチも座れないだろうし。」「あの席、土日は土日でまた常連がいるんですよ。」「へえ、じゃあなおさら行けないね。」

レストランを出て外の空気を思い切り吸って吐くと、なんだか肩の力が抜けた。慣れないレストランの空気に緊張していたようだ。冬が近づき冷たくなってきた風が気持ちいい。


「お姉さんは、来ないでください。土日。」


わざわざ立ち止まって、改まった空気の中で言われる。

「え?なんで?」「カップル多いもん。虚しくなるよ。」


「絶対許さない!!」
拳を振り上げて追いかけまわすと、ケラケラ笑いながら逃げる6個下。「ごめんごめん!ジョーダンだって!」と言いながらまだ爆笑しているので、作った拳で腕を軽く小突く。その手は気づいたら6個下の手と繋がれていて、「家どっち?」「水族館とは逆のほう」「ん、送るよ」とあっという間に空気に飲まれてしまう。


「上がってく?」

私のアパートの前に着いて、どちらからともなく手を離した。なにも名残惜しくなさそうに「じゃあ帰ります。」と立ち去ろうとする6個下を引き留めたのは、紛れもなく私だ。
彼は一瞬戸惑ったような表情をしたあとに笑顔を作り、目の前まで戻ってくる。さっきまで繋いでいたのとは逆の手で私の頬を触る。「そんなに酔うほど飲みましたっけ。」「酔ってないよ。」「いや、そのほうが問題なんだけど。」22歳の学生男子は、28歳の独身の女に向かってしっかりとため息を吐いた。やめてくれ、なんで私のほうが必死にならなきゃいけないんだ。


「お姉さん、年下のこと舐めてます?」「君が年上を舐めてるんじゃない。」「僕は年上を舐めてるんじゃなくて、お姉さんの警戒心のなさを!…まあいいや。家には上がりません。セックスもしません。」「セッ!?」「また平日の水族館で。今日はごちそうさまでした。」


私の巻いた髪をさらさらと触って、唇に触れるだけのキスをして、6個下は何もなかったように帰っていった。かっこつけて渡そうと思っていたタクシー代は渡しそびれたし、そもそもどこに住んでいるかも知らないままだ。



いつもより少し片付いている部屋に座ると、余計に虚しくなった。久々の異性とのお出かけに、普段の私では信じられないくらい舞い上がってしまっていたらしい。

いつものように冷蔵庫から缶ビールを出してプルタブを開ける。オシャレなレストランのコース料理はぶっちゃけ食べた気がしなかった。ああ、カップ麺とか食べたい。と思いながら、帰宅したまま転がったカバンを片付けようと立ち上がった。


ふとカバンからスケジュール帳を出してみる。

「あ、私、今週の日曜休みじゃん。」


頑なに「土日に水族館は来るな」と釘をされたことに腹が立ったし、それ以前に私ばかりがモヤモヤしたまま解散したことがムカつく。

『こちら無事に帰宅しました。今日はごちそうさまでした。今度は僕が出すので、また何か食べに行きましょう!』タイミングよくLINEの通知が鳴る。解散してまだ30分くらい。そこそこ家は近いのかもしれない。

『こちらこそありがとう。またしばらくはバイト?』『そうですね~、次は火水が休みですけど!』『そっか。またご飯行こうね。』『ぜひ!』



日曜って世の中にこんなに人がいるのか。

普段の外出は平日の夜ばかりなので、久しぶりの人ごみに若干酔っている。平日の夜だと閑散としているチケットブースも日曜の昼間だと行列で、入り口付近も売店で買ったソフトクリームを持つ子どもたちで溢れていた。

「帰ろうかな…」と弱々しい考えも出たが、すぐに6個下の顔が思い浮かんで「帰っちゃだめだ」と気持ちを切り替える。

チケットブースの行列を尻目に入り口を抜け、いつものように年間パスポートを提示した。イルカショーのタイムスケジュールが書いてあるホワイトボードをなんとなく確認し、なんとなく順路を進む。もう何人ものスタッフとすれ違っているのに、6個下の彼の姿はない。


「まあ、いつも会えてるわけじゃないしね。」そもそもなんでこんな混雑している日曜に会いに来ようと思ってしまったのか。いつも通り夜に来ればよかったし、なんなら連絡先も知っているというのに。
「恋?いや、まさかね。」やっぱり今日は帰ろう。明日の仕事終わりにまた来よう。ソフトクリームおいしそうだったな、どうせ外に出たんだしコンビニでアイス買って帰ろうかな。


ボーっと考えながら、ロクに動物を見ないで出口まで歩く。そういえばいつものベンチには土日の常連がいるって言っていたな。せっかくならベンチの前を通りながら帰ろう。


大賑わいの大水槽を抜けいつものベンチを見やると、確かに1人の人影がある。通行人のフリをしてかなり近くまで行ってみる。


「え、」「え、あれ、嘘」


通り過ぎる寸前に目が合ったのは、すこし老けたように見える元彼だった。


「お姉さん!!」


元彼と無言のまま見つめ合って数秒、聞き馴染みのある声がした。私が今日探し求めていた声。

「あ、やっほ~。」「やっほ~じゃないですよ、日曜の昼間に何してるんですか。」「何してるって…普通に遊びに来ただけだよ」「土日は来るなって言ったじゃん。」「それ言われたから、逆に来たくなっちゃった。」「なにその天邪鬼…。」


まわりのお客さんにチラチラと見られながら言い争いをして、「てかそんなことより!」と元のベンチに目を戻すと、そこはもう違う親子が座っていた。

「…あれ、お姉さんの元彼ですよね」「何で知ってるの!?」「僕、大学1年のころからここでバイトしてるんで。お姉さんたち毎週のように来てたし、有名カップルでしたもん。」「うわ、恥ずかしい…」「あ、ちょっと待って」

話の途中で6個下の彼はインカムで何かを喋っていて、そのあと私の耳元に顔を寄せて「後で話そう。今日の仕事終わり、お姉さんのお家に迎えに行くので。」と言っていたずらっ子のように笑った。




「もしもし?着いたよ」「あ、うん」

彼は20時前に本当に迎えに来た。1度しか来ていないアパートに本当にたどり着けるのかと疑っていたが、迷子にならずに来れたようだ。


「バイトお疲れ」「うん」「お腹空いてる?」「空いてない。…ねえ、お姉さんち、入れてよ。」


念のため片付けておいてよかった、と安心する私はこの先の何を期待しているというのだろう。

「なんか飲む?ビールしかないけど。」「じゃあビール、いただきます。」

いつもの余裕はあまりなく、急にどこかソワソワし始めた6個下に可愛さを覚える。「なに、聞きたいことあるなら何でも聞いて?」

「あの人と、どうして別れたんですか。」「ありきたりだよ。ほかの人を好きになってしまいましたってフラれたの。」「お姉さんがフラれたんですね…。」「そう、しかもさ、相手誰だと思う?私の友だち!って言っても友だちは私たちが付き合っていたことすら知らないんだけどさ。」「その2人はどうなったんですか?」


何でも聞いて、とは言ったけど、あまりにグイグイくるから驚いた。そしてずっと思いつめたような真面目な表情をしてこちらを見てくる。この話をするときはいつもみんなに面白がられるだけなので、こんなに真剣に聞かれるのは新鮮だった。


「私と別れてすぐその2人は付き合ったし、それから間もなく結婚したよ。授かり婚。」

ねえ、そんな切なそうな顔しないでよ。もう3年も前の話なのに。


「私からも質問してもいい?」
沈黙に耐え切れず声をかける。「あ、はい」と返ってくるか細い声。

「前に言ってた土日の常連って、彼のこと?」「はい」「いつから?まさかこの3年ずっとってわけじゃないでしょ?」「ここ最近ですよ。3、4ヶ月くらいかな。でも来たときすぐ分かりました、お姉さんの元彼さんだって。」「よく覚えてたね。」「はい。…あのベンチ、まわりに水槽があるわけでもなくて、わざわざ座る人も少ないので。お2人の特等席だったというか。」

あのエリアの担当じゃないスタッフならベンチの存在すら知らないかもですよ、なんて言っているがそれは言いすぎな気もする。ただ、たしかにあのベンチはそれくらい謎な場所に配置されていた。


「なんで今さらまた通い始めたんだろう。何か知ってる?」「知ってます。話しかけたので。…けど、お姉さんにしていいのか分かりません。」「え、ここまで来て教えてくれないの?」「教えたくなかったから土日は来るなって言ったのに。」

6個下は目元を抑えながら深呼吸をしている。きっと感情を落ち着けたり、何から話そうか整理しようとしていたりするのだろう。


「浮気。」「なるほど。うわき。…え?」「うわき、調査です。」


この年下男、頭の中を整理しすぎだ。そんなに短縮して話をされてもさすがに何が何だか理解できない。魚と浮気をしてるとでもいうのか。


「水族館で浮気調査ってどういうこと?意味が分からないんだけど。」「あ、そうですよね。えっと。まあ、奥様が、浮気をされているらしくて。」「うん」「それで、相手は絶対にパート先にいるはず。それを突き止めるために妻のパート先にコッソリ来てるんです、って。」

ああ、思い立ったら行動しないと気が済まないところとか、ねちっこくてしつこいところとか、何も変わっていないんだな。

「奥様は同い年か年の近い人が好きなはずで、盗み見たメールの文章も大人びていた。思い当たる人はいませんか?って、もう尋問ですよ。ちょうどその世代の社員って結構な数いるし、力になれませんとは伝えたんですけど。」

それでも毎週末きているし、日に日にやつれていくし、なんか見ているだけでしんどくて。という6個下の言葉通り、今日久々に見た元彼は負のオーラに包まれていた。結婚式の時はあんなに幸せそうだったというのに。

「てか、そんなに毎週末来ているのに奥さん気づかないの?」「だから言ったじゃないですか、あのベンチ、エリア外のスタッフは知らないこともあるって。それに土日はあの人混みだもん。なおさら気づかないですよ。」「そういうものか…。え、子どもはどうしてるの?」「そこまではさすがに知りません。」「ああ、そうだよね。」


ざっくり話すとこんな感じです、と話を締め、6個下は苦い顔をしたままビールを流し込んだ。おつまみ代わりに出しておいたベビーチーズには2人とも手をつけていない。

せっかく異性が家に来ているというのに、甘酸っぱい展開が何もない。早く酔いがまわればいいのに。なんて考えているあたり私は元彼夫婦にまったく興味がないし、はじめてキスをした木曜日からこの6個下に触れたくてたまらなくなっているのだろう。まるで麻薬のように、気を抜くと理性が壊れそうになる。この男は危険だ。



「本当に見当もつかないの?浮気相手。」理性が壊れる前にもう1度話を続ける。「いや、そういうわけじゃないんですけど。」「なんだ、知っているなら教えてあげればいいのに。」「うん。でも、もう別れたから。」「え?」


「先週末、奥さんと浮気相手は4時間にも及ぶ話し合いの末別れました。奥さんはそれはそれはゴネて、でもご主人が調べに来てることを知って、泣く泣く別れを選びました。」

「そう、」

「浮気相手側はご主人にバレる前に関係が解消できたことに、それはそれは安堵の表情を浮かべたそうです。」

「詳しいのね、」

「そもそも、浮気相手にとっての奥さんは、水族館を辞める3月末までの遊び相手のつもりだったからね。」

「…ねえ」



「お姉さん、僕の元カノの写真、見ます?」


ああ、この子、1年休学して留学してたって言ってたな。じゃあ今年で23歳か。5個下か。なんで今まで忘れていたんだろう。


「でも、お姉さんには本気ですよ。」


そういえばあの子の話を興味ない相槌を打ちながら聞いていた時に、水族館でパートがどうとか言っていたかもしれない。なんでしっかり聞いておかなかったんだろう。


「僕、社会人になったら結構稼ぐ優良物件だと思うんですけどね。年下とか興味ないですか?」


そもそも、人の彼氏に色目使ってデキ婚して奪われた時点で縁切っておけばよかった。付き合ってるなんて知らなかった、なんて絶対に嘘だってわかっていたのに。


「ねえ、お姉さん。」


ていうか。


「ねえ、なんでもいいから抱いてよ。」


そんな縋るような目で見られたら、私の理性が限界なの。

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