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不健康な私を、お腹いっぱい召し上がれ

「おかけになった電話番号への通話は、お繋ぎすることができません。」


馴染みのあるお姉さんの声と、そのあとに鳴るツー、ツー、という電子音。

このアナウンスが着信拒否を意味するということを分かったうえで、私はそんなに落ち込んでいなかった。いや、1週間の激務を終えたせっかくの金曜日という今日に、ぼっち飯が確定したことはもちろん悲しいのだけど。


職場からアパートまでは徒歩圏内で、ラブホ街を突っ切るとさらに半分の時間で帰宅できる。
その道は、まるでみんなが良くないことをしているみたいに静かで、ネオンだけが煌びやかに光っているのがアンバランスだ。
1人で歩いてる人は、どうやら見渡す限り私しかいない。いいな、ここにいるみんなはこれから気持ち良いことをするのか。私は1人でシャワーを浴びて、ご飯を食べて、誰から触られることもなく眠りにつくだけなのに。


アパートの真向かいにあるコンビニで、缶チューハイが3本と生ハム、じゃがりこ、カップ麺、そして84番をひとつ。「700円以上の方は1枚引いていただけます。」と差し出された箱で、当たったのは玉露たっぷりのお茶だった。

部屋がある3階まではエレベーターがない。いつもよりペットボトル1本分重たい袋を下げて階段を上る。部屋の鍵は暗証番号式で、たった6桁の数字だけで守られているセキュリティが安全なのか、私には分からなかった。


パンプスは勢いよく脱いだので、玄関のあちらこちらに散らばっている。揃えるのは後でもいい。誰が見ているわけでもないし。ポツリと発した「ただいま」に返ってくる声はないけれど、私の声に反応して電気をつけてくれるスマートスピーカーがいる。これは本当に便利。

お風呂のスイッチを入れると、廊下の奥にある浴室から水がたまる音が聞こえてきた。買ってきた缶チューハイの1本に口をつけながらビリー・アイリッシュの歌を口ずさむ。取り込んだ洗濯物をソファに投げてから、ベランダで煙草に火をつけた。



ふぅ、と吐き出した白い息が、寒いせいなのか副流煙なのかはわからない。缶チューハイをベランダの縁に置いたまま、スマホでもう一度彼のナンバーを叩く。

「おかけになった電話番号への…」

お姉さんの声はもういいよ、うんざりだ。
デミグラスソースの空き缶で作った簡易灰皿に吸殻を放り投げ、お風呂の準備を始めた。


あの声が聞きたい。
色気を含んだように、低い声。


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あれからひと月ほど経っただろうか。いつものラブホ街には安っぽいイルミネーションが増えて、いつものコンビニではケーキの予約が始まった。
今日は生ハムをやめておでんにしようか。おでんを買う時の、店員さんと話さなければならないあの時間が苦手だ。


結局いつも通りのものを買って、アパートの階段をカツカツと上がる。ドア横にある小窓から電気がついてるのが見えて、「うわ、今朝消し忘れちゃったな。」と溜め息をついた。


ピピッーー

鍵が解除された音。ドアを開けて、パンプスを勢いよく脱ぎ捨てて……


「おかえり。」


ああ、私の聞きたかった声がする。


その声を聞くと、急に脳が重たくなる。背の高い彼の顔を見るためには少し目線を上げないといけなくて、仕事終わりの私にはその動作すら面倒だった。
何も言えず、動くことすら出来ずに止まっている私。「何買ってきたの?酒?」と、能天気にビニール袋を奪っていく男。ついでにコートとマフラーと、それから仕事用のカバンも奪われた。「手洗ってきなよ、部屋暖めといたから。」と言いながらスタスタとリビングに向かう彼は、優しいのか身勝手なのかまったく分からない。


「私、先にシャワー浴びていい?」リビングに入ろうとする彼の背中に声をかける。「え、大胆。」彼はわざとらしく目を見開きながら言う。「そういう事じゃなくて!」「冗談じゃん。風呂沸かしてあるよ。入っておいで。」


衣服を洗濯機に投げ入れて浴室のドアを開けると、ご丁寧に入浴剤が用意されていた。アロマティックハーブの香りは2人のお気に入りで、この入浴剤は少し、いやかなり高い。これを用意する時は、

「あれ、まだ入ってなかったの?」

一緒にお風呂に入ろう、というお誘いの合図。


...


同棲する時、この部屋に決めた一番の理由は、ホテルみたいなお風呂だった。足を伸ばしても余裕がありそうな大きめのバスタブは、それでも彼には少し狭かったみたいだけど。


「後ろ、開けて。」「ん、」


先に浸かっていた私の背中側にスペースを作ると、彼は私を抱えるようにして座った。

「ああ、いい匂い。」「入浴剤?」「きみ。」
首元に顔を当てながら喋られると、ダイレクトに声が聞こえるから心臓に悪い。動く度に浴槽から鳴る水の音も、回された腕も、首元に落とされる口付けも。息ができない。逆上せそうだ。


「聞いてもいい?」「ん?」「今度の女は、何がダメだったの?」


首を少しだけ後ろにまわして彼の顔を見ると、彼は「なんだ、そんなことか」とでも言うように、表情ひとつ変えずに私の唇を奪う。

「香水がキツくて。」「香水?」
「なんて言うんだろ、ほら、薔薇。英語のRoseでも、カタカナのバラでもなくて、漢字の薔薇の匂い。伝わる?」「ああ、うん、なんとなく。」「あの匂い、食べ物の味が分からなくなるんだよね。」



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彼は、お風呂上がりに冷たいものを飲むのが嫌いな人だ。

私が髪を乾かしているとき、彼は慣れたように戸棚からマグカップを2つ出す。そのカップを空のまま電子レンジで少し温める。あとは、カウンターに置きっぱなしにされていたウイスキーと、安物のドリップコーヒーを淹れるだけ。

「シナモンって終わったんだっけ。」「先週トーストにかけて使い切っちゃった。」「じゃあ今日はこれでいいか。」


お酒が好きな彼に合わせて作られた、ウイスキーが濃いめのアイリッシュコーヒー。実はこの味がそんなに好きじゃないのだが、それは彼には内緒だ。

色違いのペアマグカップは、共通の友人の結婚式に出た時の引き出物だ。彼とのお揃いのものは後にも先にもこのマグカップしかない。そういえば最近その夫婦のところで、2人目の赤ちゃんが生まれたらしい。

「会ってきてさ、子ども。」「え?」「コイツらのとこの第2子。」「ああ、そうなんだ。」

マグカップを見つめながら話す彼も、どうやら同じことを考えていた。「君は?行かないの?」と聞かれたが、私は幾分も前から連絡を取っていない。


「めずらしいね、お祝いしに行くなんて。」「そう?」
嘘だ。ちっともめずらしくなんかない。彼はとにかく寂しがり屋で、人付き合いが大好きで、フットワークが軽い。夫婦がインスタに赤ちゃんの写真を上げたのを見て、彼はお祝いをしに行くんだろうな、とすぐ思った。


...


「明日は休み?」「うん、土曜だし。」「そっか。」

夜も更けてくると彼は途端にソワソワし出す。いつの間にか彼の飲み物はロックのウイスキーに変わっていて、半分ほど入っていたはずのボトルはもう空になりそうだった。

「泊まっていきなよ。」「ん、いいの?」「最初からそのつもりの癖に。」


いつも終電にギリギリ間に合いそうな時間を見計らって、私は彼にそう言う。敢えて彼に『泊まっていく』という言葉を使う。まるで彼はこの家の住人ではないかのように。


ベッドの壁側はいつも彼。腕を差し出されて、いそいそとそこに頭を乗せる私。ぎゅ、と音がなりそうなくらい強く抱きしめられる。夏はこの動作が少し鬱陶しいが、いまはこの温かさが丁度いい。


彼が私の背中を撫でる。

「なんでブラジャーしてるの?」
「外したいかな、と思って。フロントホック。」

私たちの夜が、やっと始まる。


少し興奮したように私のスウェットに手をかける彼は、私の初恋の人でも、元彼でも、セフレでもない。れっきとした私の旦那で、夫で、主人だ。


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「会ってない間は何していたの。」

たった1度の情事を3時間もかけて終わらせてから、バスタブのお湯を温め直す。温度に応じて色めき立つように入浴剤の香りも復活した。彼はまた私を後ろから抱えながら、耳元で話しかけてくる。

「何もしていないよ、毎日仕事。」「でも、何人かの男には抱かれていた?」「うん、そうだね。少しだけ。」

私がさも当然のようにそう答えると、彼は満足げに笑っていた。そんな彼は今までに何人の女を抱いてきたのだろうか。

「俺の携帯には、電話した?」「するわけないじゃん、どうせ繋がらないのに。」「1度も?」「1度も。」「そう。」


乳白色のお湯の中で、しきりに触られる胸がくすぐったい。「ねえ、もう、しないよ。」と浴室に響く私の声は、たぶん無意味だ。ブラインドの向こうでは朝日が顔を出しているのがなんとなく分かる。寝られるのは、お昼を過ぎてからだろうか。



「じゃあ、私もう行くからね。」「ん、うん。」


結局、ベッドと浴室を往復するような週末だった。たまにソファで冷凍のパスタを食べて、そのままソファで重なることもあった。

いや、1度だけ、手を繋いで外出をした。目の前のコンビニに、避妊具を買いに行くためだけの外出。恐ろしいことに、10個包装されていたはずのそれもまた結局足りなくなって、最後の数回は使うことを諦めたのだけど。


私より2時間遅い出勤時間の彼は、まだベッドから出てこなかった。私は化粧ケースの中から小瓶をカバンに投げ入れ、慌ただしく家を出る。
わざわざ行く必要のない駅に向かうと、大きめのゴミ箱に小瓶を投げ捨て、そのまま会社まで走った。



まだ少し痛む腰を誤魔化しながら、定時に退社。
めずらしくラブホ街を避けて帰路に着くと、アパートの電気はしっかりと消えていた。

「ただいま」と呟くと、いつも通り勝手に電気が灯る。部屋の中に人影はない。

綺麗に掃除された浴室からはまだ入浴剤の香りがして、今朝までのことが現実味を帯びていく。寝室のシーツは誰も寝たことがないみたいにピンと伸ばされているが、枕に顔を埋めれば彼のいた気配がした。


リビングの机の上には小さな紙切れと、紙袋がひとつ。


紙切れには『愛してるよ。』という角張った文字。期待して覗いた紙袋の中身は、アフターピルが2錠入っているだけだった。


「わたしも、愛してる。」


紙切れだけを鍵のかかった小箱に仕舞うと、錠剤はキッチンのゴミ箱に捨てる。シンクの横には彼が洗ったマグカップが逆さに置かれていて、彼の声がまだすぐ近くから降ってくるようで、鼻の奥がツンとした。



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大学を卒業する直前に、酔った勢いで同い年の彼と付き合うことになった。それから3年、私たちの関係は順風満帆とは言えなかった。

社会人になっても、私の浮気癖は治らなかった。

執拗いくらいに私のことが好きで、何をするにも私の気持ちを優先して、私でしか興奮しない男は、私にはとってもつまらなかった。


彼は、私と少しでも一緒にいたいと同棲を始めた。

それでも私は彼を一途に愛することが出来なかった。仕事だとか、飲み会だとか、そんなちっぽけな嘘をつくこともなく、堂々と別の男と出かけては明け方に帰宅した。


「ねえ、愛してるよ。」「うん、私も。」


たまに私が家にいる休日、彼は嬉しそうに私を抱いた。私の気持ちよさが優先された、丁寧で、ゆっくりとした、私よがりのセックス。


私はそれに、甘えていた。


...


入籍したのは今からもう4年も前になる。
付き合って3年記念日にされたプロポーズに指輪は用意されておらず、レストランの予約も、花束も、ロマンチックなものは何ひとつなかった。

「スーツを着て、跪いてされるものだと思ってたけど。」「君はそういうの、嫌いだから。」



役所に行けばもらえる無料の紙切れ1枚だけで、私たちは夫婦になった。それはつまり、浮気は、不倫になることを指していた。



この関係が変わったのはいつからだったんだろう。
私が気づいていなかっただけで、彼はとうの昔に変わってしまっていたのかもしれない。

結婚したからなのか年齢を重ねたからなのか、浮気というものをきっぱりしなくなった私と反比例するかのように、彼は家に寄り付かなくなった。


電話をすれば繋がらず、SNSのログイン履歴を見て生存確認をする。最初の頃は、1日。それから3日、1週間、10日、ここ最近は1ヶ月近く帰ってこないこともある。


きっと仕返しをされているのだ。

ずっと彼を大切にせず、彼好みの女になろうともせず、のうのうと愛だけを得ようとしていた私を、彼は許してはくれないのだろう。許さないために、婚姻という鎖で私を縛ったのだろう。

もしくは、彼は壊れてしまったのかもしれない。3年もの間、浮気性の女を愛し続けたのだ。正気ではいられるはずもない。


それが酷く、興奮した。


着信拒否をされている私は、何度携帯を鳴らしても彼と連絡をとることが出来ない。

指輪も、ドレスも、結婚式の思い出もない私は、頭の中で一生懸命プロポーズの言葉を反芻する。

毎日ひとりベッドの中で、彼が今日どこに居て、どんな女と寝ているのかを考える。

彼がその女に飽きる頃、彼は1度私の元へ帰宅する。その度に私は、彼がなんでその女に飽きてしまったのかを確認するのだ。


 
【裾にフリルが纏われたワンピース】は、【年齢を考えると痛々しい】ので捨てた。
【パーマをかけたロングヘア】は、【キスをする時に邪魔】なので切った。
【冷蔵庫に賞味期限切れのものがある】のは【自堕落な証拠】なのでしっかり毎日確認するし、【パンプスが汚れている】のは【だらしがない】ので毎朝靴磨きをしている。


【職場の人からもらったキツめの香水】は、【食べ物の味がしなくなる】ので、駅のゴミ箱に捨てた。


たまに帰ってきた彼は言う。

「他の誰かといる度に、君のことが1番好きだと思えるんだよ。」

彫りの深い目を優しく細めて、私の頬をねっとり撫でながら、あの低い声で。



そんな彼は気づいているのだろうか。


私がもう誰にも抱かれていないことを。

私が貴方好みの女になろうとしていることを。

私が、貴方に何度も何度も電話をかけていることを。



どうか貴方が、気づいていますように。


どうか貴方が、一生、私だけを好きになることがありませんように。



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