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性懲りもない、私と欲と愛と。

喧しいドライヤーの音が室内に響き渡る。
髪を乾かしながら鏡越しに部屋を見渡すと、ピンクに照らされた照明の中を下着姿の男がウロウロと歩いていた。

「ねえ、服着てよ。」「え?なんか言った?」「だから、服着てって。」

私の声はやむなくドライヤーにかき消され、彼の元へは届いていない。まあいいや、と諦めてため息をつく。スキンケアまで終えてベッドに行くと、そこにはいつの間にかもう支度を終えた彼が腰かけていた。「ネクタイ、締めて。」と、甘えた声を出して私を見上げる。紺色のありきたりなそのネクタイは、よく見るとワンポイントで蛇の刺繍がされている。


自動精算機にお札を入れている姿は、なんとも滑稽だ。お釣りを払い出すジャラジャラとした音も、なんかダサい。その小銭を掬い取って財布に仕舞う、左手の、薬指についた邪魔くさい指輪も、すごく、すごくみっともない。


彼の高そうな腕時計は21時過ぎを差している。露骨に「やばい」という表情をした彼は、「俺、先に出るから。気を付けて帰って。」と言うと、私の返事も聞かずに走り出した。ジャケットの左の襟が内側に折れてしまっている。電車の中で気づけばいいけど。

彼が出たのとは逆の出口から出て、街灯のない道をゆっくり歩く。通行人はみんな早足で、12月の街並みはどこか忙しない。私だけがのんびり過ごしているように感じる。置いて行かれるようで、少し焦る。


「東京はまだ暖かいの?」一人暮らしの部屋に着いてすぐかかってきた母からの電話は、近況を確認するだけのものだった。「うん、まだ暖房は使ってないよ。そっちはもう寒い?」「雪こそ降らないけど、もうコタツとガスストーブだよ。」東京から新幹線で3時間ちょっとかかる地元には、もう2年は帰っていない。何かやましいことでもあるのか、と母は訝しげにしているが、全くもってその通りである。母に伝えたらひっくり返ってしまうのだろうか。娘がもう2年も、不倫をしているなんて。



「わあ、愛妻弁当ですか?」「いや、これは自分で作ったやつ。弁当作りは俺の仕事だから。」「課長って何でもできますよね。奥さんとお子さんが羨ましいです。」「そんなことないよ、家じゃ怒られてばっかりだもん。」

彼の周りにはいつも人がいる。ニコニコして、キラキラして、まるでアイドルみたいに完璧だ。

元は彼の奥さんが務めていた営業補佐の役職に、寿退社と代わる形で私が配属になったのはもう5年も前。この5年の間で、彼はいつの間にか営業課長になっていたし、1児のパパにもなっていた。この5年で婚約破棄まで経験した私とはえらい違いだ。
みんなに囲まれている彼を眺めていたらなんだかバカバカしくなって、弁当を片手にオフィスを後にした。やっと1人になれた、とベンチに座って深呼吸。どうせ5分後には彼がここへ来て、1人の時間は終わってしまうのだけど。


「なんか機嫌悪い顔してる?」「元々こういう顔です。」「あ、そ。」
会社から少し離れた公園は私の隠れ休憩スポット。そこの真裏に彼がこっそり煙草を吸いに来ていたのを知ったのは、2年と1ヶ月前の話だ。それから平日は毎日、彼とここで2人きりになる。

「昨日は、バレなかった?」「毎回それ聞くのな。」「だって、慰謝料とか請求されたらシャレにならないし。」「大丈夫だよ、誰も俺が不倫するなんて思ってない。」

それを言うなら、誰も彼が加熱式とはいえ煙草を吸うなんて思っていないだろう。ニコニコして、キラキラしてる、アイドルなのだから。

「煙草、匂いで奥さんに気づかれたりしないの。」と副流煙を吐き出す彼を見上げると、「ん?俺から煙草の匂い、したことある?」と当たり前のように近づいてくるから鬱陶しい。「やめて。ここ外。」「真面目だなあ。」なんてヘラヘラ笑う彼は、何を考えているのか全く分からない。限定デザインだというその加熱式たばこは無駄にオシャレで、誰にも見せないくせにそんなところまで拘っているのが理解できなかった。


「今夜も、会いたい。」

そう言う彼の顔は、会えることが分かり切っているかのように余裕そうだ。まん丸の目と、人懐っこい困り眉がより一層腹立たしい。

「2日連続では会わない約束のはずだけど。」「それはそうだけど、でも、今日は俺たちの2年記念日なわけだし、」「はあ?」


驚いた。呆れた。何を言っているんだこの男。


「不倫に、記念日も何もないと思うけど。」「そう?」「そう。」「じゃあ、会わない?」

私の座るベンチの目の前にしゃがみこんで上目遣いをするのは、きっとわざとだろう。真っ直ぐとした彼の目を見ていると、この2年分の情事が思い出されるようで、ぶるりと身体が震える。

「会う、けど。」「うん、楽しみにしてる。」


彼は再び過熱された水蒸気を口に含むと、「先にオフィス戻りな。」と後ろ手に左手を軽く上げた。ちょうど真上に来つつある太陽に反射して、指輪がきらりと光っている。





彼が指定したのはいつもと同じラブホテルだった。いつもと同じグレードの部屋、いつもと同じ【Rest】の滞在時間。

記念日、なんてまるで特別感のあるような言葉を出したのは彼なのに、何ひとつ変わらない行動に少し腹が立つ。それでも彼は私の機嫌なんて伺う素振りも見せず「お湯ためる?シャワーでいい?」とジャケットをハンガーにかけながら聞いてくる。


彼がサッと浴びるだけのシャワーに向かっている間に、タッチパネルから生ビールを注文。5分もしないうちに到着したそれを一気に流し込む。しばらくすればバタバタと浴室のドアが開く音がして、下着とタオルだけを身に纏った男が戻ってくる。

「あ、旨そうなもん飲んでる。」「上がるの早いね。」「はやく、抱きたいから。」「バカみたい。」

彼とすれ違うようにシャワーに向かう。髪の毛は濡らさずに身体だけを洗い、下着姿に備え付けのバスローブを羽織る。鏡に映る自分は、我ながらエロい。今日は会わないと思って少し気を抜いていたこの下着を、彼は気に入ってくれるだろうか。


浴室を出ると彼の前には空のジョッキが3つ。そのうち1つはさっき私が空けたやつ。

「飲んでよかったの?」「今日は1杯飲んでから帰るって言った。」「ふうん。」

ソファで手を広げる彼の胸に近づくと、「見たことない下着、可愛い。」とひと言。うん、合格。アルコールの匂いが混じったキスを交わせば、まずはソファで1回目の情事が始まる。時間ばかりに追われる、忙しなくて、余裕のないセックス。



「身体痛い…」「俺らももう歳だな。」「30代と一緒にしないで。」「お前もあと1年でこっちの仲間だろ。」

ソファの無理な体勢が腰に来た。その後のベッドの1回のせいで、肩と腕、お尻にも鈍い疲れを感じている。何も纏っていないお互いの肌のぬくもりの中で、チラリと彼が時間を気にするのが見えた。90分はあっという間に過ぎるようだ。「そろそろ帰るか、」と言いかける彼の唇を奪って、私は彼に告げる。


「ねえ、もう終わりにしようか。」



その後はもう地獄の時間だった。

「あ、」とか、「う、」とか、目を泳がせながら言葉を探していた彼は、スマホの時計を確認してから観念したように「わかった。」と返事をした。

2人は黙ったままスーツに着替え、ドアに向かう。テーブルの上のグラスにはまだ若干ビールの泡が残っているように見えた。
自動精算機に1000円札を1枚ずつ入れる彼に、いつもは渡さない割り勘分のお札を差し出す。彼はひどく寂しそうな顔をする。私は、こんなに笑顔なのに。

「俺に嫁がいなかったら、こんな結末にはならなかった?」部屋を出たところで彼はそんなことを言う。「貴方に奥さんがいなかったら、そもそも私たちの不倫は始まってもいないよ。」「今聞きたいのはそういうことじゃなくて、」「ダサいなあ、早く奥さんの所に帰りなよ。」「ああ、うん。」


奥さんに疑われないギリギリの時間であろうタイミングで、彼は小走りで帰って行った。私もまた、逆の出口に向かってゆっくり歩き始める。





2週間と1日が過ぎた。
元々会社では仕事の話しかしない私たちの変化に、気づく人なんてもちろんいない。今日も彼の周りにはたくさんの人が集まっているし、私は1人でお昼を食べている。

「今日の飲み会、来る?」「うん、行くよ。」話しかけてきたのは、隣のデスクに座る同期の男。早々に弁当を食べ終えたのか、つまらなそうにペン回しをしながら彼は言う。「おまえ香水変えた?」「残念でした、変えたのは柔軟剤。」「ふうん。どっちでもいいけど、俺はこの匂いの方が好き。」「それはどうも。」

同期をさらりとあしらいながら、出入口に目を向ける。ひとりでに事務所を出ていく男の背中をそっと見送る。喫煙の時間だ。彼のポケットにはきっと、無駄にオシャレなあの煙草が隠されているのだろう。

「課長のこと、好きなの?」「どうして?」「最近やけに課長のことを見つめてるから。」「見つめてません。」「やっとお前も恋に目覚めたかと思ったのにな。」「課長、既婚者だけど。」「あ、そうか。」「馬鹿じゃないの。」「怒るなって!」

楽しそうにおちょくって来る同期の左手にも指輪が光っていて、幸せ太りのせいかそれは少し窮屈そうだ。私は少し目線を落として、シュレッダー行きの書類の中に捨てられている【忘年会のお知らせ】を眺める。やっと、今年の仕事が終わる。




「1年間お疲れ様でした!乾杯!」

部長の掛け声とともに大広間に響くワイワイとした声。瞬く間に空になる瓶ビールと、慌ただしそうな新入社員たち。部署ごとに固められたテーブルは、あと1時間もすればごちゃ混ぜになっているのだろう。

目の前の大皿をそれなりに取り分けつつ、自分の居場所を探す。話を盛り下げなくて済むような、それでいて、一次会だけですんなり帰れるようなテーブルはどこだろう。


周りの様子を伺っていると、隣のテーブルから聞こえてくる声。

「え!?課長、飲まないんですか?」「ちょっと色々あってさ、今日は辞めておくよ。」「課長が飲まなきゃ始まらないのに!」

へえ、珍しい。体に染み付いた営業魂で、いつだって盛り上げ役を買って出る彼なのに。無意識に彼を見つめてしまっていたのだろう、人混みの隙間からしっかり目が合ってしまい、慌てて逸らす。


「ねえ、聞いてる?」いつの間にか隣に来ていた先程の同期は、何やら私に話しかけていたようだ。「聞いてなかった、何?」「だから、やっぱり課長が好きなのかって。」「好きじゃないよ。」「ふうん。じゃあ、どんな人がタイプなの?」「え?」

タイプ、タイプか。婚約者とお別れをしてから、そんな事は考えたこともなかったな、と考え込んでしまう。優しい人、面白い人、背が高い人、頭がいい人、かけっこが早い人。昔はこんなふうにスラスラと理想が出てきたというのに。


散々考え込んでから、静かに話し出す。「私のことを、好きでいてくれる人。」「え、それだけ?」「何年経っても大事にしてほしいじゃん。テキトーに扱われたり、キープにされたりするなんて、耐えられないし。」「そんな酷いことをする男、漫画の中にしかいないと思うけど。」「だとしたら君は周りの人に恵まれてるよ。」

目の前のグラスをグイッと傾ける。すかさず新入社員の女の子が瓶ビールを持って駆けつけてきた。並々注がれたそれに、思わず苦笑いをする。同期は、急に興味が薄れたかのようにどこかのテーブルに行ってしまった。


ぬるくなったビールをちびちびと飲む。ようやく無礼講になってきた各テーブルはどこも楽しそうで、端っこの時計はあと40分で一次会の終わりを迎えるところを刺している。

「はい、これ。」「え?」「ウーロンハイ。持ってくるの遅くなってごめんな。」

こちらを覗き込むように隣に座ってきた、アルコールの匂いが一切しない、困り眉の男。「あの集団みんな酔わせて、やっと抜け出してきたわ。」と肩を竦める様子はすごく幼くて、可愛らしい。「課長、今日は飲まないんですね。」「やめてよ、その呼び方は調子狂う。」一次会で帰りたいんだ、なんて柄にもない事を言いながら、彼はクスリと笑う。
たった2週間だから当たり前なのだが、変わらない髪型や腕時計、治りかけのささくれも、すべてが懐かしい。
少しの無言の後、口を開いたのは彼だった。


「今夜は、空いてる?」





気持ちばかりお洒落な雰囲気がある駅近くのビジネスホテル。戸惑う私と、まっすぐ歩いていく彼。いつものラブホテルのようなタッチパネルはもちろんなく、ロビーにはちゃんとホテルマンがいる。年末のこんな日にはどうせ満室だろうと高を括っていたのに、どうやら私たちの部屋はしっかり予約されているようだった。
「お部屋は15階、最上階のラウンジもご用意できております。」「うん、ありがとう。」カードキーを受け取ると、そのままエレベーターへ。「ねえ、どういうこと。」と彼のスーツの裾を引っ張ってみても、彼は振り返ってすらくれない。


「どうぞ、お嬢様。」カードキーをかざして、ドアを開けてくれる彼。部屋はありきたりなビジネスホテルより少しだけ広くて、真正面には大きな窓が広がっていた。「中、入らないの?」動かない私に彼が戸惑ったような顔を向ける。「入って、いいの?」「なにそれ。君のために取った部屋なんだけど。」背中をトンと押されて部屋に入れば、窓の外にはクリスマスの名残のような夜景が広がっていた。「気に入った?」「え、ああ、うん、とっても。」「それは良かった。」軽く落とされたキス。敢えて鳴らしたリップ音。電気も点いていないまま、私たちは静かに見つめ合って、それから少し笑った。


「よっしゃ、飲み行こう!」「今から?」「ラウンジ予約した。」「もう、私が来なかったらどうするつもりだったの?」「そんなの考えてもいないよ。」

だって君は来るじゃないか、とでも言うような顔で、彼は鞄とジャケットを椅子に投げて準備を始める。私も真似をしてスーツのジャケットを脱いだ。椅子に丸まる彼のものとあわせて、丁寧にハンガーにかけておく。財布とカードキーだけを持った彼と、何も持たない私。当然のように腕を組んで歩く、スーツ姿の男女。「なんか匂い変わった?」「うん、柔軟剤。」「そう。…俺、元の匂いの方が好き。」「そう。」最上階のラウンジまで、あと少し。



テキトーに頼んだカクテルとおつまみで乾杯をする。グラスに口をつけた彼は「甘。」と露骨に嫌そうな顔をして、タップからクラフトビールを追加で注文した。「それ、飲まないなら頂戴。」「ん。」彼から横取りしたグラスの、あえて同じところに口をつける。途端に広がるミルクの味は、ベイリーズかアマルーラか。どちらにせよ、彼の苦手そうな味だ。焼きアーモンドを丸々1粒かみ砕きながら、まずは自分のマリブサーフを飲み干した。

「ネクタイも外してくれば良かった。」「もっと緩めれば?」「嫌だよ、だらしなくなる。」そういう彼の今日のネクタイは珍しく色物だ。「そのネクタイ、買ったの?」「ん?うん。」あ、嘘をついた。少しだけ動いた彼の黒目を見逃せない自分が嫌になる。「先週はクリスマスだったもんね。」と脈絡のない言葉を発せば、彼は観念したように「子どもと嫁からもらったよ。」と白状した。「ふうん。」とつまらなそうに言う私をまた困り眉で見つめながら、決して謝ってはこないのが彼らしい。


「やっぱり、終わりたくない。」

少しの無言のあと、彼がポツリと言う。俯いたまま、少し深刻そうなのが演技っぽくて笑える。「うん、いいよ。」「いいの?」「でも、条件がある。」「なに?」


「今日は、一緒にお泊りしよう。」



彼の口元に、楽しみに取っておいた生ハムを運ぶ。まるでフォークが溶けてしまうんじゃないかと思うくらい熱を帯びた顔で、彼はそれを口に含んだ。「最初からそのつもりだよ。」と私の頭を撫でるその左手には、いつもの邪魔くさい飾りは見当たらなかった。




ベッドの中で、乱れる彼を見上げるのが好きだった。暑がりの彼はびっしょりと汗をかいて、それをうざったそうに拭う姿はいつも私を欲情させた。

太めの二の腕に抱きしめられると、実はちょっと苦しい。その苦しさが好きなのを彼は知っていて、たまに私の首を絞めるような素振りをした。「興奮してる?」と敢えて聞いてくる意地悪な所だって、私だけが知っている特別な姿だった。

眠りにつくとき、彼は私に背を向ける。寝顔を見られるのが嫌いらしい。寂しくて背中に抱き着くと、手を繋いでくれた。そんな甘えたがりな私を、彼が実はちょっと面倒だと思っていることには、とうの昔から気づいていた。

彼が1番セクシーなのは、朝だ。
少しハネた前髪と、口周りの無精髭。「おはよ」とこちらを振り向きながら出す嗄れた声はいかにもおじさんで、よく馬鹿にしていた。休みの日の朝はなかなか布団から出られなくて、「目を覚ますために運動しよう。」を合図に始まってしまうセックスが、何度も、何度もあった。

多趣味な彼に影響を受けて、ガーデニングを始めたのはいつのことだっただろう。枯れにくいはずの多肉植物を枯らしてしまい途方に暮れた私を、彼はケタケタと笑い飛ばした。DIYの得意な彼の作ったガーデンラックには、今年もたくさんの野菜が実った。あれ以来、多肉植物は一切育てていないけれど。

アウトドアな彼は、私を引っ張っていろいろな所に出かけてくれた。海に山に、いつだって目的地は屋外だったから、あっという間に日に焼けてしまって喧嘩になった。「将来シミになったらどうするの!」と涙目の私に「いいじゃん別に、可愛いんだから。」なんてサラリと言い放つもんだから、5分も経たずに仲直りをしたのが懐かしい。

彼の作る料理は、そこらのファミレスより何倍も美味しかった。私の食べている姿を嬉しそうに眺める彼の顔が好きで、ついつい食べ過ぎてしまうのが私の悩みだった。「私、ここから1年かけてダイエットするから。」「急にどうしたの。」「着たいウエディングドレスがあるの。一生に一度だし、絶対に綺麗に着たくて。」「俺もタキシードのボタン止まらなかったら困るなあ。」「だから一緒にダイエットしよ!」そんな会話をしつつ、結局お風呂上がりにアイスを食べてしまう毎日だったな。




珍しく酔いつぶれた彼が、子どものように泣きべそをかいて土下座をしてきたあの日を、今でも鮮明に覚えている。

「ほかの女を抱いてしまった」

途切れ途切れの言葉をつなぎ合わせれば、確かにそう聞こえた。


営業部の飲み会で吐くまで飲んで、意識が戻ったときには知らない部屋にいた。自分も相手の女も裸で、部屋を見渡せば何が行われていたかなんて一目瞭然だったそうだ。

慌てて着替えたのかボタンがちぐはぐなYシャツも、鞄に詰め込まれたネクタイも、全然抜けていないアルコールの匂いも、あまりにもリアルで。


それから2か月。許そうと思った私に告げられたのは、「相手の女性が妊娠した」という事実。

産まないでくれ、なんて言えなかった。私たちは、まだ会社に報告すらしていないくらい、婚約してほやほやだった。付き合っていることだって必死にひた隠しにしていた。「彼と結婚することになった」と当たり前のように言いふらす彼女を、私は眺めることしかできなかった。


手元に残ったのは婚約破棄という現実と、心ばかりの慰謝料、寿退社をする彼女からの「ごめんね」という言葉。それだけ。



いまから2年前のある日、彼は酔っ払って、私を抱いた。それはまるで彼が彼女と、初めて過ちを犯した、あの日のように。

相変わらずびっしょりと汗をかく彼の背中に、私は必死に手をまわした。もう、貴方がどこへも行きませんようにと願いを込めて。


...



「泣いてる。」

ビジネスホテルの一室で、彼が私の頬に触れる。私は慌てて、誤魔化すように彼の手にキスをする。

「ねえ、好きだよ。」

この5年間、もう絶対に言わないと決めていた台詞。彼は驚いたように目を見開くと、途端にふにゃふにゃとした泣き顔になる。

「おれも、すき、」

泣かないで。泣かせたい訳じゃなかったんだ。困ったな、私はこの男の涙にめっぽう弱い。

「好き」「すき」

まるで青春ドラマみたいだ。裸の男女が、ベッドの上で重なっているだけだけど。しっかりと目が合っているのに、どこか遠くにいるように、私たちの台詞は虚しく消えていく。



もう若くない私たちは、このままいつか眠りにつくだろう。

彼は私に背を向けるし、私はその背に腕を回す。

数時間もすれば朝を迎える。2人で迎える、5年ぶりの朝だ。

彼はまだ嗄れた声を出すのだろうか。運動だ、なんて馬鹿みたいな言い訳をして、私を誘ってくれるだろうか。

寝起きの彼が大好きだ。私はきっと、また彼に惚れて、欲情して、溺れてしまうんだろうな。

そんな私と正反対に、彼は時計を見て、「そろそろ帰ろう」なんてロマンチックの欠片もないような言葉を吐く。私は笑顔で「そうだね」と受け入れるのだ。


ああ、早く朝が来て、セクシーな彼が見れますように。


このままもうずっと、朝が来ませんように。

全額をセブンイレブンの冷凍クレープに充てます。