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愛しておくれよ、愛してやるから。

言いたくても言えない「愛してる」が増えるごとに、大人になったなと思う。


電車の中は混んではいなかった。
空いている席はちらほらとあったけれど、座る気が起きずにドア付近に寄りかかるように立つ。
ドアガラスで前髪を整えた。家で見たのより少し乱れているのは、駅までの道のりを小走りで来たせいだろう。

取り出したスマートフォンには1件の通知。
【ご予約の30分前になりました。】というご丁寧な自動送信メール。
家から3駅離れたそこにあるお店は、週替わりのパスタが美味しいと有名なイタリアンレストランだった。

「つ、い、た、よ、…っと」
待ち合わせの目印は、駅を降りたところにあるセブン銀行のATM。集合時刻の8分前に到着して、5分前になってからLINEを送った。既読になる様子はない。
顔を上げて道行く人を眺めた。
平日とは違い、乗り換えを急ぐサラリーマンの姿は極端に少ない。代わりに、いつもより華やかな装飾品をつけた人たちが右に左にと横切っていく。例にも漏れず、私もお気に入りのピアスとチェスターコートを身につけていた。

迷子が母親を探し求めるように、ぐるりとあたりを見渡してみる。
電子掲示板の映像が移り変わって、表示されている時計は集合時刻を1分過ぎた。私は一人ぼっちのままだった。

ブブ、と手に持ったままのスマートフォンが震えた。『ごめん、まだ家。』というメッセージが見える。

はぁ、と口から出た溜め息が、連絡が来たという安堵からなのか悲壮からなのかは、自分でも分からなかった。

『どうしたの?都合悪くなった?』
焦らないように、2分の差を開けてから返信をする。数秒で既読になり、『んー、仕事疲れてて寝てただけ。』と間髪入れずに返信が来てしまい、すぐにこちらの既読がついてしまった。

『疲れてるなら、今日やめとく?無理しなくて大丈夫だよ。』

日付も時間も、指定したのは彼のほうだ。
家に直接来てほしいと言われたのを駅集合にしたのは私だが、この駅は彼の住むマンションがある最寄り駅だ。私の歩幅で歩いても、遅くとも10分以内には到着できる。

これだけ怒ってもいい理由が揃っていても、私が彼に自己主張を出来ないのはいつものことだった。

光のない目でトーク画面を見つめていれば『うん、今日はやめとく。』と、なんとも無慈悲な連絡が返ってくる。

はぁ、ともう一度溜め息を吐いた。今度の溜め息は、悲壮からくるものだとハッキリ分かった。


今しがた出てきたばかりの改札口に向かって歩き出す。
交通系ICをかざそうとスマートフォンを持ち上げたところで、はたと止まった。そうだ、今日はレストランを予約してしまっているではないか。

「ああ…もう。」
苛立ちと悲しみが混じった私の声だけが改札を通過していく。いつもは彼に言われるがまま、大人しく彼の家に集合していた。行くついでに私がコンビニで2人分の軽食を買っていくのが恒例だった。
たまには外に食べに行きたいと、一念発起したのが今日だったのだ。

「彼にはお店の場所を伝えただけで、予約したなんて言わなかったもんね。」
私の落ち度。なんて納得のいかないことを呟いて無理やりに納得させた。
とにかく今はそれでころではない。当日も当日、予約の10分前であるレストランを、もちろんキャンセルなんてするわけにもいかないのだ。

LINEを開く。
一番上の憎たらしいメッセージを無視したまま、なんとなく友達リストに指を滑らした。

「あ、もしもし?」

リストの中の1人を選び通話ボタンを押しながら、私は足早にレストランへと向かう。




「えーっと、待ち合わせなんですけど。」

その声が聞こえたのは、私が予約時間ちょうどにお店に着いてからほんの10分後だった。
顔を上げれば、店員さんに案内された男がこちらに気づいて軽く手を振ってくる。
目の前まで案内してくれた店員さんに「ありがとうございます」と笑いかけてから、その男は目の前の椅子に座った。

「ごめんな、待たせて。」

その言葉があまりにも自然で、まるで最初からこの男と来るつもりだったような感覚に陥る。
そんな親しみやすい空気を纏って現れたこの男は、高校卒業から10年経っても変わらない、腐れ縁の友人である。

「前菜のご用意をしますので、お飲み物だけ先にお伺いしてもよろしいですか?」と店員さんに聞かれ、彼はグラスのビールを2つ注文した。
店員さんの背中が見えなくなったのを確認してから、喉を鳴らして笑う。

「突然すぎるんだよ、お前はいつもさあ。」

「ごめん」と素直に謝れば、彼は「いいよ別に、暇してたし。」と何もないふうに温かいお絞りで手を拭いた。間もなくして、グラスのビールが運ばれてくる。
乾杯をするためにグラスを持ちあげれば、私の綺麗にネイルが施された爪がよく見えて「インスタにいる人みたいだなあ」とどこか他人事の気持ちになった。
そんな目一杯に着飾った手で、彼のグラスの少し下にグラスを当てる。「乾杯。」と彼は低く落ち着いた声で言った。

「来るの、早かったね。」
乾杯早々にグラスの半分を飲み干した彼に言う。
「そりゃ、あんな泣きそうな声で電話されたらどんな男でも飛んでくるって。」前菜のハムやチーズが乗ったクラッカーをひょいと放り込みながら彼は真っ直ぐこちらを見て笑った。
「そんな泣きそうな声だったかな。」
「だいぶな。まあ、こんなお洒落な店に焦って誘ってくるなんて、理由は大体察したけれども。」
この店の前の道とかよく通るけど入ったことなかったもん、と彼は続けて言った。
屈託のない彼の笑顔と、くすみがかった私の笑顔が、グラスの中で混ざってじゅわりとビールに溶ける。重たくて、強い苦みを感じた。



来てからのお楽しみ、とメニューが明かされていなかったメインのパスタには、カラスミと柑橘系の果物がふんだんに使われていた。素人には到底思いつかない食べ合わせだが、食べてみると不思議と美味しい。

「これは家じゃ真似できないやつだな。」
と当たり前のことを言いながら、目の前で美味しそうにパスタを頬張る彼。本来一緒に来るはずだった男はこういう洒落たものをあまり好まないので、元から一緒に来るべきではなかったのかもしれないと気付く。

「このフルーツの中なら何が好き?」と私が問えば、「ピンクグレープフルーツ。」と即答された。「ピンク、似合うもんね。」と訳の分からない返しをしてしまう。

「お前も似合うじゃん、ピンク。」「えー、そうかな?」「そのピアス、初めて見たけど似合ってるよ。」




「で、例の彼は今日どこで何してるわけ?」

もうデザートも食べ終えたころになってようやく、彼は今日誘われた原因にもなった男について口に出した。
グラスビールからワインに流れを変えたお酒は、これでお互い5杯目になる。それでも私も彼も、酔っている様子はない。

「さあ、どこだろうね。」
目を伏せて答えた私に、彼はちっとも可哀想とも思ってないふうに「へえ。」と相槌を打った。興味がないなら聞かないでほしい。

「仕事で疲れてるって言ってたから、多分家で寝てるんじゃないかな。」数時間前に送られてきてそれっきりになっているLINEのトーク画面を開いて見せる。
「あー、なるほどな。」それにざっくり目を通した彼は、わざわざ相手のLINEアイコンを開いてから私に返却してきた。

「ん、なに?」「そのアイコン、露骨に女に撮られましたってアングルできっついなーって。」

心から蔑んでいるような、どこか羨んでいるような複雑な表情で彼は笑う。
その顔は同じ28歳とは思えないほどに可愛らしいベビーフェイスだが、口元には夜になって伸び始めた髭の気配。少し乾燥した彼の肌に、年齢を感じて安心する私がいた。

「実際、女の子に撮ってもらったんだろうしね。」「彼女いるんだっけ、この人。」「知らない。いるんじゃないかな。」

おいおい、と呆れた声を出された。
「仕方ないじゃん。何も、聞けないんだもん。」私はグラスの底に残っていたワインを飲み干しながら呟く。葡萄の皮のえぐみだけが舌の上に残った。

「そんなことよりさ。アイツに会うつもりだったってことは、明日は休みってことでいいんだよな?」
同じようにグラスの中身を空にした彼が言う。
「うん、休み。」「じゃあ付き合え。今日は自分の家なんて帰れないと思って付き合え。」
そう言うと彼は立ち上がろうとするので、私は慌てて財布を取り出す。
「誘ったんだから、私が全部出すよ。」
机の上の伝票を探しても見当たらない。側面や、下を覗き込んで探してみる。
「どうしよう、店員さん呼べばいいのかな。」私が近くの店員さんに声をかけようとして、ようやく彼は私の顔の目の前に手の甲をかざして止めた。

「会計終わってるから。早く行こう。」

壁にかけていたコートを手渡され、彼は私の荷物を持ち颯爽と出口へ歩いていく。出口では店員さんが何やらカードとレシートのようなものを渡しているので、本当にいつの間にか会計は済んでしまったのだろう。
こうならないようにお手洗いにも行かなかったのに。
そんなことをぼんやりと思いながら、ドアを開けて待ってくれている店員さんに急かされるように店を出た。




「ねえ、半分だけでも!払わせて!」「だから良いって!しつこいな!」

店の外は3月特有の冷たいような生温いような風が吹いていた。
彼が着てきたジャケットは少し厚手で、暑かったのかそれは脱いで片腕にかけられている。
先ほどのレストランから道ひとつ離れた住宅街には人の気配がなく、私たちの声だけが響いた。背景には、星空と河津桜のコントラスト。

「じゃあ次に行くお店は絶対に奢らせてね。」と私が言うと、彼は目を丸くしてこちらを見てくる。「え、何?」と聞けば、吹き出すように笑われた。

「なにお前、めずらしく酔ってんの?」
そう言う彼の視線はもう私には向いておらず、すぐ近くの河津桜に向けられていた。
「どうして?」何となく、私も同じ河津桜を見ながら聞く。
「次行く店も何も、これから行く場所は俺の家だから。」
ヒールを履いた私よりも、さらに10cm以上高いところにある彼の綺麗な顔。その顔はこちらを見降ろして、可愛らしくにこりと笑った。



「、―――っ」
「ん、声我慢してお利口。」

月に1度は会っていたくせに、この家にだって何度も来たことがあるくせに、今日だってこの男の家がレストランと同じ最寄り駅だと分かっていて呼んだくせに、なぜか今日はセックスをしないつもりでいた。

高校生の頃から幾度となく彼と身体を重ねているのに、馴れることがなく新鮮によがる私の身体。
それが面白いのか、彼は私とのセックスを気に入ってくれていた。

「ね、もう――」
「うん。一緒に、な。」

左肩に鈍い痛みを感じ、それと同時に頭が真っ白になった。
静まり返ったマンションの一室で、ちょうど2人ぶんの息の音だけが聞こえる。隣に倒れるように寝転んだ彼の額には、3月には似合わない量の汗が滲んでいた。

「あー、息の上がり方がやばいな。」
セミダブルのベッドの上で、私に触れ合わない程度に離れた位置から聞こえる彼の声。
「年取ったね。」触れ合わない距離を保ったまま、天井を見上げる私の声。

「25歳が分岐点だったな。」「なにの分岐点?」「セックスを2回連続で出来るか出来ないかの分岐点。」「あー、言われてみればそうだったかも。」

彼、私、彼、私。
交互に声は聞こえるのに、確かに会話をしているのに、私たちの視線がぶつかることはなかった。

「俺シャワー行くけど、どうする?」「いいよ、行ってきて。」
「たまには一緒に入る?」

嫌だ、と言う前に無理やり身体を起こされた。ようやく目が合う。

「メイク落とし持ってきてないし。」「余計な心配すんな。初めて来た家でもないくせに。」

手を引かれてベッドを降りる。
フローリングの上を、私と彼は裸足のままペタペタと歩いた。大学生、社会人の間に彼の家は3回ほど変わったが、使っているシャンプーだけは変わらなかった。浴室のドアを開けると、ふわりと吸い込まれる匂いにいつも懐かしい気持ちになる。

シャワーヘッドから容赦なく出てくるお湯は少し熱めで、明るい浴室から私の身体を隠すように湯気が立った。

「先、化粧落としな。」「うん。」

広いとは言えない浴室で、場所を譲り合いながら過ごす。
化粧を落とそうと曇った鏡を拭きとって見つめると、私の左肩にくっきりと彼の歯形がついていた。つい先ほどベッドの上で感じたあの鈍い痛みを思い出す。

「ねえ、噛んだでしょ。」

そう言いながら彼を睨んでみたが、どうやらシャワーの水音で聞こえていないらしい。
わき腹をトンと突いてやる。

「うわ!何?」「だから、ここ、噛んだでしょって。」

彼は顔回りの泡を綺麗に流してから、不思議そうに私の肩を見つめて言った。「え、俺、噛んだ?」
こんなにくっきりと跡が残っていて、どうしてそんな顔が出来るのか。
「噛んだよ。さっき。」「え、あ、うわあ。ごめん!」
ボディソープを2回プッシュした彼の手によって、左肩だけが洗われる。
「いや、別に大丈夫だよ。」洗ったって跡が消えるわけでもないし、と彼の手を掴んで止めた。それでも彼は、泣きそうな顔で私の肩を見つめている。

「ごめん。今日の俺、ダメだわ。」




彼のスウェットはショート丈のワンピースみたいに大きかった。下はあまりに大きくて転びそうなので、ダル着の短パンを借りた。上はグレーで下は黒という、ちぐはぐな格好である。
そんな私は今、黒いロンTとグレーのスウェットで同じくちぐはぐになっている男の手を引いて、彼の家の近所のコンビニまで散歩をしている。

その道中は、お互いに無言だった。

『年齢確認を、お願いする場合があります』

コンビニのセルフレジが話しかけてくることにも随分と慣れた。9%の缶チューハイは正直美味しさなんて感じなくて、ただ手軽に酔いたい大人のクスリみたいなものだと思っている。2缶買ったそれの、1つを彼に手渡した。

「この時間になると、意外と寒いね。」コンビニを出てすぐプルタブをカシュ、と開けながら彼に話しかける。彼は無言のまま頷いて、ゴクリと喉を鳴らしながらアルコールを流し込んだ。

マンションの前にある土手を駆け上がって、車両の進入を止めるためのガードレールに寄りかかる。隣に座る彼の横顔を眺めていると、彼はこちらを覗き込んでゆっくりとキスをした。


「あの人に、結婚するって、言われてさあ。」

浴室から出てキスをする今まで、ずっと無言だった彼はようやく言葉を発する。【あの人】が彼が長年恋い焦がれていた女性のことだと理解するのに、時間はかからなかった。

「へえ、また急だね。」なるべく感情の邪魔をしないような相槌を打って応える。
「いや、別にさ、急ではなかったんだよ。」彼はまた缶を傾けてゴクリとアルコールを口に含んでから言う。

「そうなんだ?」「うん。ずっと彼氏と同棲してるって言ってたし。それにもう、むこうは30歳になるタイミングだったし。」「ああ、そう。」

大学生の頃の先輩だと言っていただろうか。彼にとっては、随分と長い片思いだったと思う。それはまあ、同じタイミングでバイトの先輩だった人に恋をし続けている私が言えた話ではないのだけれど。

「それでもさ。」と彼は続けた。

「あの人の彼氏はフリーターで金がないって散々愚痴られたし、帰れば暴力受けるからって泣かれればうちで匿ったりしてさ。」

彼の気持ちとは反比例するように、下を流れる川はやけに穏やかだ。

「求められれば何度だって抱きしめて、キスして、…そりゃ、セックスだってして。」

彼の言葉を飲み込むようにアルコールを口に入れる。苦い。

「俺の何がダメだったんだろうな。」

きっと、何もかもがダメだった。
私も、貴方も。

そんなことを言えるはずもなく、私はグイっと缶の中身を空にした。負けじと彼も、全てを飲み干した。

「なあ。」「ん?」「帰ってセックスしよう。」

空き缶を持っていないほうの手を繋がれる。

「2回は出来なくなったんじゃなかったの?」
「連続で、って言っただろ。」「そうだったね。」

転ばないようにゆっくり土手を駆け下りて、私たちは深い夜に消えた。




『家来れる?』

そんなLINEが来たのは、河津桜が終わりに近づいた頃だった。
すでに寝間着で布団に潜り込んでいた身体をたたき起こして、見た目を精いっぱい整えてからギリギリの終電に飛び乗る。
すっかり春になった気温のせいで、走った身体に汗が少し滲む。

交通系ICをタッチして改札を出た。
最終電車が走り去った駅のホームは静まり返っていて、居酒屋のネオンライトもちらほらと消え始めていた。

「つ、い、た、よ、…っと。」
何度も何度も通い続けたマンションのエントランスでLINEを打つ。返ってくるまでの3分が途方もなく長く感じる。
『鍵開いてる。』という返信を見てすぐ、エレベーターで5階のボタンを押した。

「お邪魔します。」
玄関のドアを開けると、立てかけられていた傘がこちらに倒れてきた。それを拾い上げて靴棚に引っ掛ける。廊下の奥に続く部屋は暗く、テレビのような光だけがゆらゆらと漏れてきていた。

ドアを開けると、ソファに深く横たわるスーツ姿の大好きな男。目を閉じている顔も綺麗だ。
見惚れていると、彼はゆっくりと目を開けて言った。
「早かったじゃん。」
柔らかくて、甘ったるい声。

「あ、うん、終電間に合ったから…」「そっか。」

それだけ会話をすると彼は再び目を閉じて、ゴロリとソファの上で寝がえりを打った。

「今日も遅くまでお仕事してたの?」
「うん。いまさっき帰ってきたところ。」
「じゃあ夜ご飯食べてない?」
「いや、会社で仕事しながらおにぎり食ってきたよ。」

そっか、と言いながら、念のため買ってきておいた軽食はカバンの中に隠した。
ソファから少し離れた床に腰を下ろす。

時計の音だけの響くシンとした部屋で、ベランダの外に見える電波塔を眺めた。
私がまだ大学生の頃、一足早く社会人になった彼がこの家に引っ越してすぐ、連れてきてもらった。あの頃から、この電波塔が見える景色がどこか大人に見えて好きだった。

「ん、ああ、寝てた。」

30分くらい経ってから、彼が動く音がしてそちらを見る。

「俺、シャワー浴びてくるわ。」「うん。いってらっしゃい。」

ワイシャツのボタンを片手で外しながら、大きな欠伸をしている。
背が高いわけではないが、胸板や腰回りがしっかりしていてスーツがよく似合う。

シャワーの音が遠くから聞こえてきて、再び部屋には静かな時間が訪れた。
大学に入学してすぐバイト先で出会ったこの彼は、当時すぐ隣の大学に通う4年生だった。いつもニコニコと笑っていて、私のようなパッとしない後輩の面倒見も良くて、みんなに好かれていた。
バイトの歓迎会で一目惚れをした。
夏休みにみんなで行った花火大会の帰りに、初めてセックスをした。
「君の隣が一番落ち着く。」そう言って笑ってくれたとき、左だけにできる笑窪が可愛かった。


「あれから10年か。長いなあ。」
私のスマートフォンにはまだ、彼と初めて見た花火の写真が残っている。



「腰、痛くない?」「うん。大丈夫。」

お風呂上がりの彼は、前会ったときと違うシャンプーの匂いがした。
ずっと同じ家に住んでいるくせに、身に纏う匂いがコロコロと変わる人だ。
そんな彼とのセックスはいつも淡白だ。今日もほんの30分ですべてが終わってしまった。それでも、飽きないセックスというのは本来こういうものなのかもしれないと思う。

「煙草吸ってくる。シャワー使うなら使って。」

バイト先で出会ったときの彼は、好青年の代名詞みたいな人だった。Instagramを見ていれば、きっと今の職場でも同じような印象なのだろう。
あの頃から、彼の喫煙姿を知っているのは私だけだった。

下着だけを纏い、ベッドから出る。
ベランダに立つ彼は、先ほど私が眺めていた電波塔のある空にフワッと白い息を吐いていた。
私が大好きだったあのニコニコな笑顔も、平等な優しさもそこにはない。
それでもどこか寂しそうで、触れたら消えてしまいそうな儚い横顔に、私は何度だって惚れ直すのだ。

3回、吸って吐かれる煙を眺めてから、私は浴室に向かう。

洗面台の下の戸を開けた。私のスキンケアキットは小さなポーチに入って仕舞いこまれている。
暖色の優しい電気の下で鏡に映る私は、10年前より少しやつれたと思う。でも、鎖骨が綺麗に浮き出たこのデコルテ周りが、実は好きだったりする。

鏡を見つめたまま、左の肩を右手で撫でた。
色濃くついていたはずの歯形は、もうとっくの昔に消えていた。


「肩、なに見てんの。」

プチン、とブラジャーのホックが外されてようやく、彼がいつの間にか後ろに立っていることに気付いた。

「あ、ううん。」「ほかの男のこと考えるなら帰らせるよ。」

鏡越しに見る彼は真正面を向いている。
向いているはずなのに、目が合わないから不気味だ。
そのまま彼は、私の耳元で囁いた。

「やっぱシャワー浴びないで。」「どうして?」「もう1回するから。」

ブラジャーの肩紐を片側ずつ外され、パサリと床に落ちる。
まだショーツを纏ったままのお尻に、彼の腰が押し付けられた。

くるりと振り返って彼と向き合う。
今度はちゃんと目が合っていることを確認してから、私は言う。

「2回連続、出来るの?」

「はあ?」

「なんでもない。」




今日のパスタは、たっぷりのパクチーに大きな蒸し海老が乗っていた。
半分ほど食べたところで、カットレモンを絞る。思わず笑ってしまうほど美味しい。

「次、何飲む?」
目の前に座る男は相変わらずのベビーフェイス。昨日美容院に行ってきたばかりらしく、より幼くなった気がする。
「同じのもう一杯飲みたいな。」「んー、じゃあ俺もそうしよ。」

春はあっという間のスピードで進み、いつの間にかGWが目の前に迫ってきていた。
デザートまで平らげた私たちは今回はしっかりと割り勘をして、32円のお釣りは私の財布に仕舞われる。
美味しいものでお腹を一杯にした私たちは、相変わらず酔ってる様子はない。

店を出て右に曲がる。
彼は柔らかそうな生地のブラウンシャツの腕を捲りながらこちらを振り返って言った。

「なあ、そろそろ俺引っ越そうと思ってさあ。」「えー、また?」「ここももう3年住んだもん。」

店から彼の家までの道をのんびりとしたペースで歩きながら、彼は途中のコンビニで3%の缶チューハイを2本買った。
示し合わせたように、2人であの時みたいに土手を駆け上がる。
昨日降った雨のせいで、川は茶色く濁っていた。

「今度はどこに引っ越すの?」「決めてないけど、明日不動産でも行こうかなって。」

ガードレールを椅子にして並んで座り、桃味の缶チューハイを飲む。甘い。

湿気を含むようになってきた風が、彼の前髪をふわりと浮かせた。

「九段下がよくない?カレー屋たくさんあるし。」「お前は他人事だと思ってテキトーなこと言うなよ。」

二の腕を摘ままれた。見上げた顔は楽しそうに笑っている。

「なあ、一緒に住む?」

「それだけは勘弁。」

「だよなあ。」


彼は土手を降りて行く。
私はそのままぐるりと景色を眺める。


電波塔は今日も綺麗に光っていた。


「おーい、帰るぞ。」
「うん、今行く。」


風に舞って、いつもと同じシャンプーの匂いがした。

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