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どうしようもない私が、どうしようもなく好きな君へ

6連勤の折り返しだというのに、朝からセックスをしてしまった。大変痴女である。

痴女、という言葉の意味を調べてみれば、『色情におぼれ迷う女』という素敵な1文にたどり着いた。色情とか色欲とかいう言葉が、私は好きだ。性的な感情のことを『色』と言い表す、日本語が好きだ。

今朝、行きずりの男の家を出たその景色は文字通り『色』で溢れていた。明け方に降った雨で光る道草、これから暑くなることを予感させる太陽、いくつになってもワクワクする水溜まり。昨日から鞄に入れっぱなしの携帯はとっくに充電切れを起こしていたので、道行く人の後をついていくように駅を探した。いつもは通り過ぎるだけの、初めて降り立つ駅だった。定期圏内でよかった、とケチ臭いことを思いながら、icカードをタッチして改札を抜ける。

運良く座れた電車内には、結婚情報誌のつり革広告。
つい数か月前まで夢見ていた結婚は、恋人と別れたことでどうでもよくなってしまった。ウエディングドレス姿でこちらを見て微笑むそのモデルに、羨ましいとも、憎たらしいとも思えない。何の感情も沸いてこない。
新調したダイアナのパンプスを見て少しだけテンションを上げ、自宅の最寄り駅まであと2駅あることを確認し、目を閉じた。


「おはようございます。」「おはよう。今日もギリギリだな。」

ここ、髪の毛まだ濡れてる。と、私のセミロングの毛先あたりを指さすこの同僚は、多分私のことが好きだ。定時で帰れそうな日は決まって夜の予定を聞いてくるし、社内の飲み会は同じテーブルに座ってくる。
オフィスカジュアルが許可されているこの会社に珍しく毎日スーツで、清潔感のあるワイシャツの下には程よく分厚い胸板のラインが見える。

「なあ、今日の夜って暇?」「んー、暇って言ったらどこに連れて行ってくれるの?」「お前の好きなものでも食いに行こうぜ。」

彼は、夏の太陽に負けず劣らずハキハキと笑う。少し鼻にかかった声は優しくて、恋を覚えたての小学生のように真っ直ぐな目。
恋人と別れた頃から続く彼からの誘いに、応えたことは今のところ1度もない。これで通算7度目のお声がけだ。ふと、彼の下半身に目がいく。応えてみるのも悪くないかもしれない。

「いいよ。私、焼き鳥が食べたいな。」「焼き鳥か、じゃあビールだな。」「うん。美味しいところ連れていってね?」

任せとけ!と笑った後、彼は元気に自分のデスクへ戻っていく。同い年だが、まるで年下のようなその佇まい。彼はどんな形の、どんな色のパンツを履いているのだろう。それが早く確かめたくなって、ぶるり、と身体が震えた。




彼が連れてきてくれたのは、目の前で1本1本焼き上げてくれる少し洒落た居酒屋だった。全席カウンターなので、自ずと横並びに座る形になる。今までの社内の飲み会では考えられないような近さに彼がいて、朝に香った柔軟剤の香りがより一層濃く感じる。もしかしたら、これは彼の体臭なのかもしれない。

「獅子唐とか、食える?」「うん。」「嫌いな食べ物ってあるの?」「食べられないほど苦手なものはないかな。しいて言うなら、カスタードクリーム。」「へえ、甘いものばっかり食ってそうなのに。意外。」「それは偏見じゃん。」

お任せで頼んだ焼き鳥たちはどれも美味しく、ハイボールがよく進む。彼は喉を鳴らしながら生ビールを流し込んでいる。平日ということもあり、店内にはひと組のカップルがいるだけだ。

「連勤の途中に飲むお酒って、悪いことをしているみたいで好き。」私はそんな、思ってもいないことを口にしながらまたハイボールを飲み干す。「普段は休みの前だけ?」「というより、誘われた時だけかな。あんまり強くないし。…でも、今日はとっても楽しい。隣にいる人が楽しそうだからかな。」そう言いながら上目遣いで彼を見ると、彼は少しだけ顔を赤くして「そう。」と目を逸らした。
良いのか悪いのか分からないタイミングで運ばれてきた追加のお酒。食べ終えた串をいじる彼の指先は、きっちり爪が丸く切られていた。


「ありがとう、ご馳走様。」「おう。」

近い距離にいるのも随分と慣れて、あと少しで手と手が触れ合いそうだな、なんて冷静に思う。この辺にホテル街はあっただろうか。それとも彼の家に行くのだろうか。私の家はダメだ、今朝脱ぎ捨ててきたスーツがそのままだし、布団が丸まっている気がする。
時々ぶつかる肩のぬくもりに、この後の『色』を思い浮かべてはニヤけてしまう。その使い込まれたベルトは自分で外すのだろうか。それとも、私が外してあげるのだろうか。

そんな止まらない想像たちは、いとも簡単に裏切られてしまった。

「はい、これ。タクシー代。足りる?」

予想もしていなかった言葉。
有無も言わさず握らされた数枚の札。
そのまま彼は私の元を離れ、道端で通りすがりのタクシーを捕まえた。なかなか乗り込まない私を不思議そうな目で見る。

「君は、一緒に乗らないの?」「いや、俺まだ終電あるからさ。」

じゃあ、と爽やかに片手を挙げた彼は、その挙げた手で控えめに私の頭をポンと撫で、ドアの向こう側に行ってしまった。こちらを見送る時、少し名残惜しそうな顔をしているのがまた気に食わない。
「お姉さん、どこ向かえばいい?」そう尋ねてくるタクシーの運転手に急かされるように、私は自宅ではない住所を告げた。




目印となるコンビニでタクシーは止まった。ぐしゃぐしゃになったお札を3枚手渡す。お釣りは520円。そのまま握りしめた。
タクシーが出ていくのを見送って、コンビニの中へ。何も持たずにレジに並べば、いつもの店員さんは分かり切ったように1箱の煙草を手渡してくれた。交換するように、520円を手離す。

薄暗い街灯に羽虫が飛んでいるのが見えて、夏だな、と実感する。コンビニからほど近いマンションの3階を見上げると、ベランダで紫煙を燻らす男と目が合った。私は「おーい」と言いながら、買ったばかりの煙草を掲げて見せる。男は呆れたように笑い、手招きをした。

「エアコン快適~!ただいま~!」オートロックの解除番号も、部屋に入るためのキーナンバーも、もうしっかり暗記されている。「お前の部屋ちゃうし。」と呟く男はまだベランダにいた。

「なに。酒飲んできたん。」「ほんのちょっとね。」「こんな平日ど真ん中にえらい珍しいなあ。」「昨日も飲んでたよ?」

そうだ。そういえば、昨日抱かれた行きずりの男は本当に良かった。
テンションが高いだけの兄ちゃんかと思っていたら、行為はとにかく乱暴で、でも愛情深くて。がっしりとした腕に抱かれて眠りについて、朝には耐え切れずにこちらから襲いかかってしまった。

「おい。」「ん?」「なに人の家のベランダでほかの男のこと考えとんねん。」「あら、バレた?」

男は拗ねたように私の腰に手を回し、「酒くさ。」と笑った。

この男こそ、つい数ヶ月前、私に別れを告げた元恋人である。


「なんか旨そうな匂いする。何食うてきたん?」「焼き鳥。」「ええなあ〜、熱々の砂肝にレモンかけて日本酒でキュッと!」「飲めないくせによく言うよ。」「お前だって俺と付き合うてる時は一滴も飲まんかったくせに。」

付き合ってた頃のままのグラスに、ウォーターサーバーから水を注いで手渡してくれる。「ちゃんと水分取らんと、明日後悔すんで。」へにゃりと笑う情けない顔。Tシャツが似合わない狭い肩幅と、お風呂に入ったのだろう、ワックスが取れてフワフワとした髪の毛。

「この煙草、俺がもらっていいん?」「うん。」「いつも買うてくるよな。別に気にせんでええのに。」「うん。でも、タダで抱いてもらうのも気が引けるし。」



使い慣れた浴室でシャワーを浴びる。メイク落としもシャンプーもコンディショナーも、全部あの頃のまま置いてある。

「俺ら、付き合わんほうがうまくいく気がすんねんなあ。」

あの日はちょうどクリスマスイブだった。男が1人で暮らすには少し広すぎるマンションで、私は小さめのクリスマスケーキを2等分しようとしていたところだった。別れる、別れないの選択肢すら与えてもらえなかった。右手に持つ包丁で、彼を刺して私も死んでしまおうかと、ちょっとだけ思った。付き合ってから1年半。私たちはお別れした。

「もう、きっぱり会うのも辞めるべきだったのかなあ。」シャワーの音に紛れてそんなことを呟いてみる。
別れてからひと月ほどは、連絡も逢瀬もなくしていた。連絡を取り始めたのはどちらからだったっけ。確か、私からだったと思う。
別れて半年以上が経過した今、こうやってマンションに来る頻度は、付き合っていた頃より少し少ない程度まで復活してしまっている。

キュ、とシャワーの栓を締める。途端に静かになった浴室のドアを開けると、綺麗に畳まれたバスタオルと部屋着が置かれていた。

「タオル、ありがとう。」
リビングの電気は薄暗く消えており、彼は寝室に移動していた。ベッドの上でスマホを触る彼の元に近づく。
「ええよ、いつものことやし。」「うん。」「髪の毛ほんまに乾かした?まだ毛先濡れてんで。」「うん。」髪の毛に細い指が触れてくる。私は彼によじ登り、その薄い唇にキスをした。

見慣れた部屋着。見るだけで今日が何曜日なのか当てることが出来る下着。私と同じシャンプーの匂い。数えたら増えるからやめろ、と怒られた顔のホクロたち。

今日も、『色』が、鮮やかだ。



「それはホラ、初回のデートで抱いたら遊びやと思われてしまうから帰しただけやろ?」「うーん、」「むしろタクシー代までくれて紳士なんちゃうん?」「うん。」

行為後の独特な脱力感に沈みながら、先ほどの同僚に対する愚痴をこぼした。連れて行ってくれたお店の焼き鳥は頬が落ちるほど美味しかったから今度行こう、と尋ねれば、「なんでお前のデートスポットに俺も行かなアカンねん。」と笑われて終わった。

「でもさあ、ホンマに真面目に口説こうとしてると思うよ、その同僚くん。」「うん。」「もう~。お嬢ちゃんは何が不服なん!」

やけに同僚の肩を持つ彼に頷きだけで対応していたら、彼はまたへにゃりと笑って私の頭を撫でた。

「私は別に、その同僚と付き合いたいとか、そういうんじゃない。」「じゃあなんでデートの誘い受けたん?」「抱いてくれると思ったから。それだけ。」「んん、そうか。」

それなら不完全燃焼やったなあ、と彼は呟きながら、寝室の間接照明を明るくした。
「俺、煙草吸うてくるからさあ。」「ん?」「明日着ていく服とか準備しいや。クローゼットに置いてあるやつ、皺になってるかもしらん。」

下着と短パンだけを履いて、彼は寝室を後にする。背中には私の爪痕が薄っすら見えた。相変わらず、綺麗な背筋をしている。

クローゼットを開けるとフワッと彼の匂いが飛び出してきた。意外と整頓されている洋服たちの中に、私のブラウスが紛れ込んでいる。皺になっていた裾をパンパンと叩いて直す。知らないベルトが1本増えているのを見つけて、少しだけ悔しくてクローゼットを閉じた。
ベランダまで彼を追っていくようなことはしない。それでも、彼の煙草を咥える姿がどうしても見たくて、水を飲みに行くふりをしてリビングに足を進めた。

リビングに響く冷蔵庫の機械音。

さっき洗ったばかりのグラスを持ってウォーターサーバーに向かう途中、ベランダの彼を眺めて目を細めた。彼と、彼の奥に広がる夜景が、余りにも綺麗だった。



「ねえ」「ん?」「お盆休み、いつ?」
「11からやけど、今年は兵庫帰ろうと思ってるから家にはおらへんよ。」

彼の予定を聞くとき、彼はいつも先手を打つように会えないことを伝えてくる。「会いたくない」と言われた方がよっぽどマシだ。こうやって突然マンションを訪ねてくることでしか、私は彼の時間をもらうことが出来ない。当たり前だ。私たちはもう、終わった関係なのだから。

「勝手にこの家入っててもいい?」「アカンに決まっとるやろ、アホか。」「ジョーダンじゃん。」「気に入らんの?あの家。」「ううん、そういうわけじゃない。」

私もお盆は実家帰ろうかな、と言いながら、ベッドの中でとりあえず背伸び。
「お母ちゃん、元気か。」「うん。」「そうか。」
寝室から私たちの会話は消え、数分もすれば隣から聞こえてくる寝息。

この無防備なくせに隙を作らない元恋人のことが、私は好きだ。




「おはようございます。」「おはよう。今日は早いじゃん。」

私がオフィスに姿を見せるや否や近寄ってくる同僚。やはりこの男は、私のことが好きである。

「今日は車で送ってもらったから。」「ふーん。ていうかさ、昨日ちゃんと家帰れた?LINE返って来ないからめっちゃ心配した。」「あ、そういえば、」

鞄からただの箱と化したスマートフォンを取り出す。
「もう3日くらい充電してないや。」「は!?」「普段あんまり使わないんだよね。ごめんごめん。昨日はありがとう。」
さすがに奢ってもらっておいてお礼の連絡すらしなかったのはまずかった。素直に頭を下げる。

「Androidだっけ、それ。」「え?うん。」「ほら。」

彼のデスクから出てきたそれは、充電コードだった。
「帰り道とか、何があるか分からないんだから、せめて充電はしておきな。」
今日も彼は太陽みたいに笑う。困った。ここまで底抜けに優しさをくれる人に、どんな対応をすればいいのか分からない。

ありがたく頂戴したそのコードにスマートフォンを繋げる。しばらくして浮かび上がる画面の光。無音にいているので音こそ鳴らなくても、喧しく動く通知の数々。
3日ぶりに見たこの画面ってやつは、どうにも好きになれなかった。



「昼飯、どうするの?」

同僚にコードを返しに行ったのは、お昼休みに入ってすぐのことだった。「下のコンビニでテキトーに買おうかなって思ってるよ。」「それならどっか食いに行こう、奢るしさ。」「んー。」

正直、気乗りはしない。お酒の入らない状態で、誰かと会話をするのは苦手だ。断る理由を探しながら、でも、昨日お礼も言わなかったことへの罪悪感がどうしても消えない。

「うん。行こうか。でも今日は私がご馳走するよ。」「え?なんで?」「昨日迷惑かけちゃったしさ。それに私たち同い年だから、そんなに毎回奢られてても申し訳ないよ。」私の言葉に彼は拍子抜けしたような顔をして、その後に「じゃあ割り勘にして、今日は俺が店を決めてもいい?」と笑った。

会社の人たちがよく行くハワイアンカフェの横を抜け、少し離れた喫茶店に連れていかれる。「この喫茶店が昼間に出してる定食が意外とうまいんだよ。」と彼は言う。喫茶店で定食、と意外な言葉の組み合わせに、少しだけワクワクしている自分がいた。

「ん、美味しい!」「だろ?よくこっそり食いに来てるんだ、会社の奴らには内緒な。」

喫茶店といえば洋食なのかと思いきや、出てきたのは鰈の煮つけだった。数切れのお刺身まで付いている。メニューは週替わりで、すべて店主の気まぐれらしい。いつもコンビニのサラダやサンドイッチばかりの私には、お昼に食べる温かいご飯が幸せだった。

「こんな素敵なお店、教えてくれてありがとう。」

お店を出て、歩きながら彼に言う。心の底から出た、素直な言葉だった。

「気に入ってくれたなら良かった。」「とっても気に入ったよ、他のメニューも気になるし、また来てみようかな。」「それならまた、俺が行く日は声かけてもいい?」「うん、ぜひ。」


彼は嬉しそうに笑う。
ちょうど真上に太陽が昇っていて、それはまるで彼の喜びを表しているように輝いている。





午後の仕事を片付けながら、定時まであと3時間。
給湯室に行くついでに、結局放置していたスマートフォンを開いた。いらないフリーメールを作業のように既読にし、通知だらけのLINEを開く。

昨日送られていた同僚からの連絡の1つ下に、見慣れない名前があった。

「誰だっけ、これ。」

アイコンの後ろ姿にも見覚えはなく、恐る恐るトークルームを開いた。

『これ、お前の?』

愛想のないメッセージとともに送られてきていた写真には、見知らぬピアスが写っている。
大ぶりで安っぽいゴールドのそれは私の趣味ではないし、そもそも私はピアスホールを開けていない。
でも、そのピアスの奥に見える、武骨で色黒な手には、ひどく見覚えがあった。

『私の。』
『今日取りに行くから、19時にあの駅まで迎えに来てよ。』



定期圏内にある、この駅に降り立つのは2回目だ。
改札を抜けたところにある知らない大学の看板広告に寄りかかっていたのは、やっぱりあの行きずりの男だった。仕事終わりなのかスーツ姿の彼は、Yシャツをこれでもかと腕まくりしている。

「よっ。」

子犬みたいな可愛らしい顔で、彼は私に向かって手を挙げ合図した。まったく親しくない相手のはずなのに、幼馴染のお兄ちゃんのような懐かしさがある。

「お迎えありがとう。」
「いーえ、どういたしまして。」

とりあえず酒でも飲む?ああ、でも明日まで連勤中なんだっけ。と、歩きながら彼は言う。

「てか、素面で会うのは初めましてか。俺のことちゃんと覚えてた?」「覚えてなきゃこの駅まで来れないよ。」「そう言われればそうか!」

ヒャハハ、と彼は特徴的な笑い声を上げた。つられてこちらも笑顔になってしまう。
6連勤は課長の指示で取りやめになり、明日は急遽お休みになったことを伝えると、彼は「それはお祝いしなきゃな!」と私を行きつけの小料理屋に連れて来てくれた。キンキンに冷えたオリオンビールと、沖縄料理が唸るほど旨い。

「あの日も言ったけど俺、逆ナンされたの初めて。」「もうそれ何回も聞いた!」「だってさあ、もう余りに衝撃すぎちゃって。こんな綺麗な若い子が逆ナン?って。俺会社の友だちにも話しちゃった。」「やめてよ、恥ずかしい。」

お互いもうベロベロで、テーブルの下では足を絡ませている。この会話からもお察しの通り、この行きずりの男とは私のナンパで出会った。
小さな居酒屋のカウンターに1人で座る彼の、整った可愛らしい顔立ち、男らしい身体つき、わんぱくなお酒の飲みっぷり。どれもとても魅力的で、思わず隣に座って声をかけてしまったのだ。

「でもさ、俺あの日めちゃくちゃ嫌なことあってたまたま見かけた居酒屋で飲んでたから、」「私もだよ。マッチングアプリの相手に予定すっぽかされてイライラして入ったの。」「お互い初めて行く居酒屋で出会うなんて、なんか面白いよな。」

この男は、決して運命とかそんな安っぽい言葉で締めくくらない。やけに現実的で、でも男の子のような無邪気さも残していて、話していて飽きなかった。「なあ、おやっさんはどう思う?」と店主まで会話に巻き込みながら、まるで家族と過ごしているような安心感。店の端で流れているテレビに話題が移って初めて、もう時刻は日付を超える直前であることに気付いた。

「あ。」「ん?」「私、終電、逃した。」「うん。」

それだけ言うと彼は気にもしていないように「おやっさん、締め食いたい!」とまた笑顔に戻った。「まだ食べるの?」と呆れる私。「あいよー、沖縄そば2人前な。」となぜか私の分まで調理を始める店主。

困ったように彼を見れば、彼は「ここのそば、旨いから食わないと損だぞ。」と言いながら、またヒャハハと笑った。夜が更けていく。絡まったままの足に力を込める。「うん、後でな。」と彼は熱っぽい目で私を見る。

彼にもたれかかるように店を出た時、そこは真っ暗闇のはずなのに、濃くて深い『色』に満ちていた。




やめて、と叫んでも彼の耳には届かない。酔っ払って力の入りにくい身体は、快感でさらに弱々しくなっていく。何も考えられない。彼のことしか見えない。

やっぱりこの行きずりの男は、とてもいい。


「終電逃した、って、あたかも帰る気でいましたみたいな空気出しやがって、わざとらしい奴。」
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し放り投げてくる。受け取りそびれたそれは、鈍い音を立ててベッドに落ちた。
「抱いてほしくて会いに来たんだろ?」

彼のほうを見れば、彼の目は真っ直ぐ私を捉えていた。

「ふふ、バレてた?」「バレバレ。ていうかそんなワザとらしい演技しなくても、ちゃんと持ち帰ってあげるのにって思った。」「そっか。」「女の子を欲求不満のまま帰すような男じゃないよ、俺。」

見透かしたように笑う彼に驚く。「え?」「俺だけじゃなくて、知らない男たちの名前、何度も呼んでたよ。」



水を飲み干してからもう1回抱かれた。今度は何度も彼の名前を呼んだ。「意識飛ばしてやるから、変なこと考えずに溺れてろ、痴女。」そんな暴言に近い言葉を吐かれて数分後、私は本当に意識を手離していた。


「ピアス、お前のじゃないって分かってて連絡したよ、俺。」


そんな風に彼が泣きそうな顔をしていたことを、私は知らない。





全国的に猛暑になりそうだと、テレビの中のアナウンサーは告げていた。カーテンが閉め切られたままのこの部屋は、エアコンの室外機が回る音がやけにうるさい。

行きずりの男は朝、私のおねだりをやんわりと断ると、「ツーリングに行ってくる」と出かけてしまった。鍵のありかすら分からない私は、家を出ることすらできない。重たく鈍い腰の痛みが、昨日の激しさを思い出させてくれる。洗濯ばさみに挟まれていたバスタオルを1枚拝借して、私は浴室に向かった。

「お腹空いたな。」

いつもよりしっかり髪を乾かし、ベッドにゴロリと寝転んだ。昨日あんなに食べたのに、お腹からは定期的に空腹を告げる音が鳴っている。

やることがなくて手にしたスマートフォン。
通知は3人から1件ずつ。


『マンションのキー番号、変えることにした。』

『来週の休みって予定ある?連れていきたい場所があるんだけど。』

『帰ったら夜メシ作ってやるからいい子で待っとけよ~。』


教えてほしい。
昨日の夜、私が1番名前を呼んだのは誰だったのか。


私の世界は、今日も『色』で溢れている。


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