文字そば 2023.02.19

私が自分の人生を過ごしているとき、誰かは誰かにとっての人生を過ごしているらしい。

そんなまあまあ当たり前のことに、私はたまに新鮮な気持ちで驚くことがある。


年齢を重ねるごとに、ネガティブな感情を抱くような原因を排除することが多くなった。
友人、仕事、食べ物、衣服、テレビや映画や小説、旅行先。

これは逆を言えば、私も何かに排除される機会が多くなったのだろう。

年齢を重ねると、それだけ経験を重ねる。
やりたいこと、やりたくないことの区別を直感的に行うことが得意になる。
同時に、それが実現可能かどうかをリアリティのある目で見られるようになる。

与えられるがままに生きていた幼少期と変わって、今は何でも自分で選択して進んでいくことができる。立ち止まることだってできる。

そうすることでいつの間にか、「自分の人生の舵を自分自身で切っている」という気持ちがふと強くなっていく。

結果として私は、周りに見えている景色や人、動物すべてを「自分の人生という物語に添えられているもの」のような気がしてしまっているのだ。


現実は違う。


私が私のために関わりたいと思っている人も、その人にとっての決定権を持っていて、関わらないという決断をされる可能性がいくらでもある。

その人にも好きな食べ物があるし、やりたい夢と、長く続けている趣味があったりする。
いまこの道を走っている車は私の人生の小道具なのではなく、誰かが誰かの人生で決断して手にしたものなのだ。

この気づきを定期的に行うたびに、私はひどく傲慢な生き方をしてしまっているのだな、と落ち込む。


落ち込みながら1人でとぼとぼと道を歩いていたら、目の前から来た大学生の集団にぶつかりそうになった。
落ち込んだ顔のまま、「すみません」と言った。
返事は返ってこなかった。

なんだ。

失恋をした後の主人公みたいで、エモいじゃないか。

ありがとうね、小道具たち。

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