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アプリコットフィズを読み解いて。

「その本、来週には文庫になる予定ですけど、ハードカバーのほうがお好みですか?」


仕事帰りに立ち寄った行きつけの本屋で初めて声をかけられて、驚きのあまり声が出ない。恐る恐るレジに立つ人を見やると、店員は私の顔なんてまったく見ておらず、私の手元に収められているハードカバーの本だけが気になるようだった。

「あ、今日の夜に読みたいな、と思っていたんですけど、それなら来週まで待ちます。」書店員さんに見られていたなんて恥ずかしい。慌ててもとにあった場所に本を戻し、入り口に平積みされていたきっとオススメなのであろう新刊の文庫本を手にレジに向かう。

「昨日テレビで紹介されてましたもんね、あの本。」文庫本にブックカバーをかけてくれている書店員さんの手指がとても綺麗で、見惚れてしまう。「買いに来る人多かったですか?」「ええ、それなりに。でも、文庫本になることを教えたのはお姉さんだけですよ。」「え、どうして。」「だって、いつも買っていかれるのは文庫本ですし。文庫本が並ぶ本棚にハードカバー1冊、割とうまく収納できないですから。」

ああ、通っていることまでバレている。さらに買ったものまで把握されているなんて。本当に恥ずかしい。

「あの、ご親切に、ありがとうございました。」「あ、ちょっと待って。」この本屋にはもう来れないな、と火照った顔を手でパタパタと扇ぐと、奥から書店員さんはさっきと同じ表紙のハードカバーの本を持ってくる。帯がついていないので、書店員さんの私物だろうか。「これ、よければお貸しします。」「え、でも、」「僕はもう読み終わってるので。気になってるときに読んだほうが内容も頭に入ると思うし。」断る隙もなく、先ほどの文庫本と一緒にそのハードカバーも紙袋に入れられ、手渡される。「またのご来店をお待ちしております。」とにっこり笑う口元には八重歯が覗いて、それがすごくキュートでキュンとした。



思い付きで仕事を辞めた。

3か月前に突発的に辞めよう、と決意し、その日のうちに上司に届けを出した。理由を求められてもはぐらかしていたらいつの間にか寿退社ということになっていたので、調子に乗ってそれっぽいシルバーリングを薬指に嵌めるようになった。それなのに、社内にその指輪に気づく人なんていなかった。今日は最後の出勤だったが、終礼で気持ちばかりの拍手をしてもらっただけで、私の手には花束1つ握られていない。そういう会社だ。極端に他人に興味のない人間の集まり。

それでもいい。明日から1ヶ月の有給消化だ。思いついたことは全部やろう。

そう思って、まず目に留まったのがテレビで紹介されていたあのハードカバーの本だった。いつもは好きな作家さんの本やタイトルでビビッと来たものを中心に購入しているが、たまには話題作も読んでみようとテレビの前で意気込んだのだ。

「借りられたの、正直ありがたいな。」ハードカバーの本は文庫本に比べてお高い。これから絶賛無職になる私には少し勇気のいる出費だった。


ウォーターサーバーからマグカップにお湯を注ぎ、適度に息を吹きかけて冷ましてから飲む。お風呂上りで身体が火照るとはいえ、11月の寒さではもう水なんて飲みたくなかった。

狭いワンルームに押し込まれたベッドに身体を投げ、ベッドサイドのライトを少し明るめに設定し、部屋自体の明かりは消す。固く存在感のあるハードカバーの表紙を開けば、現実逃避の始まりだ。


「はあ、なるほど。」さすが人気なだけあるというか、テレビで特集されるだけあるというか。ハラハラドキドキする展開も、ちょっとキュンとしてしまうような展開も、分かりやすいようで分かりにくくなっていて、2度読みたくなってしまう。一気に読み終える頃には空が明るみ始めていることに焦ったが、自分がもう無職なのだと思うとなぜか安心してしまった。

とっくの昔に空になったマグカップをジャブジャブと洗い、ハードカバーは大切に紙袋に仕舞ってから、瞼を閉じた。脳が揺れるように重たい。本を読んだ後はいつもちょっと物憂げになってしまう。



ちょっとひと眠り、のつもりが、起きたら空は赤く焼けていた。完全に昼夜逆転。ダメ人間の始まりだ。窓を開け払うとひんやりとした空気が頬を抜けて、目が覚めていく。スウェットを脱ぎ捨てて服を着替える。気持ちばかりの化粧をして、財布と家の鍵だけをサコッシュに入れて外に出た。右手には昨日の紙袋。

「いらっしゃいま、…あれ。」「こんにちは。」「もうこんばんは、ですけど。珍しいですね、2日連続で、しかも土曜日に来るの。」「本、返したくて。」

おずおずと紙袋を掲げると、書店員さんは目を丸くした。「あまり面白くなかったですか?」と聞かれて、慌てて否定する。「むしろその逆で!とっても面白かったので、1日で読んでしまいました。」「ああ、そうだったんですね。途中で読みたくなくなってしまったかと思って。すみません、早とちりました。」はにかむとやっぱり八重歯がキュートだ。こちらもつい口角が上がってしまう。

ドアが開く音がして、子どもがまっしぐらにレジに走ってきたので場所を譲った。「店長!俺の図鑑届いた!?」と男の子が元気いっぱいに言う。「うん、届いてるよ。ちょっと待ってね。」キラキラと光沢のある、ずっしりとした図鑑を手渡され、男の子は「おぉ~」と感嘆の声を漏らす。「1400種だって、全部覚えられるかな?」「覚えられるよ、俺、この前九九の暗算テストも満点だったんだ!」リュックから財布を取り出す男の子に、「図鑑、傷つかないようにこれで包んでからリュック入れような。」とタオルを手渡している。ホクホクした顔で「店長!じゃあな!」と男の子は今度はゆっくり歩いて帰っていった。


「スマホでなんでも調べられる時代でも、ああやって図鑑を買う子どももいるんですね。」「お姉さんは図鑑、持っていました?あ、でも女性だとそんなの興味ないのかな。」「ちょうど今の子と同じ魚が表紙のやつ、持っていましたよ。図鑑って表紙変わらないんですね、びっくりしちゃった。」「もちろん変わるものは変わりますよ。…それにしてもそうか、いや、驚いたな。僕も全く同じ図鑑を持っていました。」



「店長さんだったんですね」「はい。祖父から継いだものなので、僕は何もしていないんですけど。」

土日は早くに店を閉めているらしい。子どもが帰ってすぐシャッターを下ろし始める店長に慌てて帰ろうとすると、「よければ、奥で昨日の本の感想を教えてください。」と、応接間のような、書庫のような部屋に通されてしまった。

部屋の角には我が家と同じウォーターサーバーがあって、思わず笑ってしまう。何を飲みますか、と聞かれたので、お湯をお願いした。店長さんはインスタントの珈琲を飲んでいる。


結局、本の感想を言い合っていたのはトータルで30分にも満たなかっただろう。出身地の話、ストレス発散法の話、兄弟の話、大学の専攻の話、仕事を辞めた話、将来の夢の話。あっという間に時間が過ぎていて、窓のないこの部屋でも外が暗くなっているのがなんとなく分かった。

ぐう、と私のお腹が鳴る。途端に恥ずかしくて顔に熱が集まる。

「お腹空きましたね。」「あ、はい…。」「はは、顔真っ赤。…夜ご飯、誘ったら嫌ですか?」



全国展開されているチェーンのレストランに来た。本屋の薄暗い照明や完全に日の落ちた外とは違い、煌々と照らされている店内は少し恥ずかしい。改めて見ると、店長さんは思ったより造形の整った顔をしていた。

「芸能界とか、興味なかったんですか?」私は和風パスタ、店長さんは意外とガッツリとしたステーキを注文した。メニュー表を端に片付けながらふと思ったことを聞いてみる。「え?芸能界ですか?」「はい。店長さんなら、なんかモデルとかもできる気がして。」「それを言うならお姉さんも、なんかこう、綺麗めなお笑い芸人さんになれそうです。」「それ褒めてます?」「わかりません。」冗談ですよ、と言いながら店長さんは屈託なく笑う。笑う時に人差し指で鼻のあたりを隠すのは、たぶん癖だ。


「本のお礼もしたいので、ここは私が払います。」「いいです、お誘いしたのは僕なので。」2人で財布を出しながらやいやいと言い合う。「男にかっこつけさせてください。」「そんな前衛的な時代は終わりましたし、ファミレスでかっこつけなくていいです。」「あーもう!じゃあ帰りに缶ビール1缶買って!発泡酒じゃなくて生のやつ。それでおあいこってことにしましょう。」

正直そんなの全然おあいこじゃない。分かっている。じゃあなんで私が折れたのかと言うと、耳元で囁かれた「無職は無理しないの」という意地悪な言葉と、あの八重歯を見せながらの不敵な笑みに、完全に惚れてしまったからだった。



コンビニを出てから敢えて遠回りをして川沿いを歩く。たった1本の缶ビールが入ったビニール袋を2人で半分ずつ持ち、私はそれをぶんぶんと振り回そうとしては横の男に怒られている。

本屋の前まで戻ってきて、「じゃあ、ここで。」と私はビニール袋の片側を離す。傾く缶ビール。「またのお越しをお待ちしております。」と、二ッと笑われる。なんだか帰りたくなくてそのままモジモジしていると、店長さんは呆れたようにため息をつき私の目の前に立ち、私の前髪をサラリとかきあげた。おでこに柔らかい唇の感触がする。「本当にいつでも来ていいから。明日でも、明後日でも。」「今日は?」「泊まりたいってこと?それはダメ。ほら早く帰って。」「でも、」「そこの角曲がるまではここで見ていてあげるから。早くしないと人通り少なくなって本当に危ない。」「…はい。」


肩を落としながら帰り道の方向に足を進めると、後ろからカシュ、と炭酸の弾ける音がする。振り向くと缶ビールのプルタブを開けている男がいた。銀色の缶に柔らかい唇を押し当てながらコチラにひらひらと手を振る姿はとてもエロい。本屋の中ではただの読書好きの静かな人、という風貌なので、そこからのギャップもまた女心をくすぐられていた。


家に着いてから、連絡先も何も聞いていないことに気づく。姿見にうつる自分はあまりにも普段着で、あまりにも簡単な化粧をしていて、いつもの癖で左手にはシルバーリングをしていて…まあこれは仕事を辞めた経緯のなかで説明したからいいか。

有給消化期間にやりたいことリストの中に、【恋愛】を追加した。いや、細かく言えば恋にはもう落ちてしまっているので、【恋愛成就】を目標にするべきなんだろうけど。



「おはようございます。」「いや、もうこんにちは、ですけど。お姉さんって僕とは違う時間軸で生きてます?」「今のはわざとです。」

本屋に行くのはなんだかんだ4日ぶり。カーペットをクリーニングに出したり、カーテンを洗濯してみたり、ひたすらに家の中を綺麗にしていたらいつの間にか時間が経っていた。

「次の日に来ると思っていました。」「寂しかったですか?」「はあ、まあ、少し。」

少し距離は縮まったとはいえ、お客さんもいる店内では店長さんはしっかり敬語だ。お仕事の邪魔をするのは嫌だな、と思い、家で準備してきたメモを渡した。「ん?」「連絡先です。」「…女性から渡すってなかなか聞いたことないですけど。」「でも店長さんからは聞いてくれないだろうから。また、お仕事終わりに気が向いたら連絡ください。」ぺこりと会釈をして、ほかのお客さんがレジに来るのが見えたのでそそくさと逃げた。



『今日は何が食べたいですか?』

挨拶でも、名乗るでもなく、飄々とそんなLINEが送られてきて笑ってしまう。スマホに表示されている時刻は19時を4分過ぎたところ。お店を締めてすぐ連絡をくれたことが読み取れて、ふふ、と思わずにやけてしまう。

『店長さんは何がいいですか?』『なんでもいいけど、できればお酒が飲めるところ。』『焼き鳥がすっごく美味しい居酒屋なら知ってます。』『近いですか?』『うちから徒歩10分かからないくらいです。』『いや、お姉さんの家知らないです。』『あ、そうか。』

1分も間隔を開けずにポチポチとLINEが返ってくる。結局、本屋と私の家のちょうど真ん中くらいにある、昔ながらのタバコ屋の前で待ち合わせをすることになった。


「おはようございます。」「店長さん、さすがに今は夜です。」「あれ、お姉さんの時間軸だと今は朝かと思ったんですが。」さっき本屋にいた時とは違う服だ、と思ったが、上にコートを着ているだけだった。「ダッフルコート、高校生みたいで可愛いですね。」「それ、褒めてます?」「分からないです。でも、意外でした。店長さん、スラっとしてるからトレンチコートとか着てそうなのに。」「まあ、これは貰い物なので。」Tシャツとかならともかく、コートをもらうってどんな状況なんだろう。似合ってるのは変わりないし、まあいいか、とテキトーな相槌を打つ。


大衆居酒屋で焼き鳥と生ビール。よく考えたら、好きな人とのデートなのにロマンもなにもないところを選んでしまった。そんな後悔をよそに、店長さんは美味しそうにビールを飲んでいる。

「お酒、お好きなんですか?」ナンパ男みたいな質問の仕方になってしまった。この人の事が好きだ、と思ってから、どこかずっと緊張している。「好きというか…飲まないと寝られなくなってしまいました。」先ほどのにこやかな顔から一変して、少し切なそうな顔。うん、その顔も好き。「どうして?」「さあ、どうしてでしょう。」




焼き鳥は2人で10本くらいしか食べていないのに、ジョッキグラスは11杯も空けた。って言っても、そのうち8杯は店長さんが空けたのだけど。それでもなにも変わっていないように、彼は歩道橋をまっすぐ歩く。

「寒いから、手つないでください。」

待てど暮らせど繋がれない手に痺れを切らして、また私から行動してしまった。店長さんは私の顔を覗き込んで、鼻で笑う。

「右手と左手は、どっちがいいですか?」



どうやら今日も家には送ってもらえなさそうで、私たちの足は集合したタバコ屋に向かっている。せっかく手を繋いでいるのにどこか寂しくて、遠くにいるみたいだ。

途中コンビニに寄って、店長さんはまた缶ビールを買った。繋いでない側の手だけでそれを器用に開栓し、歩きながら飲んでいる。「寒くないの」と聞いたら「今日は横にこんな綺麗な女性がいるので、まったく寒くないです。」と八重歯を見せて笑っていた。


到着してしまったタバコ屋の前で、少し汗ばんだ2人の手が解かれる。露骨に寂しそうな顔をしてしまう私は、年齢を考えるとちょっと痛々しいのかもしれない。「ご要望は以上でよろしかったですか。」この前と変わらず、銀色の缶の飲み口に押し付けられている唇は柔らかそうだ。「あの、もうひとつだけ」「ん?」「ハグ、してください。」


コトリ、と缶ビールを地面に置く音がして、ふわふわしたダッフルコートが近づいてくる。平均男性より少し高めの身長に包まれると、キャラメルポップコーンみたいに甘い匂いがした。その匂いを取り込むかのように必死で背中に腕を回す。

「今夜は、どうやって過ごすんですか?」「帰ってシャワーを浴びたら、晩酌をします。」「まだ飲むんですか!?」

抱きしめられたまま会話をすると、耳のすぐ上から声が降ってくるようで気持ちがいい。適度にゆらゆら揺れる身体と、息をするたびに内臓まで染まってしまいそうな甘い空気。その空気に飲まれて、思わず発してしまった言葉。


「好きです。…今日は、泊めてください。」




「タオルと着替え、外に置いておくから。」

やけに英語表記だらけのシャンプーで髪を洗っていると、脱衣所から聞こえてくる声。返事をしようと思ったが、すでにそこに人影はなかった。

私の告白に、店長さんは何も答えてくれなかった。それでももう1度手を繋ぎ直して、今こうやって本屋の2階にある店長さんの自宅に入れてもらえているのだから、拒絶されたわけではないのだろう。これまた英語表記のコンディショナーをお借りして、泡で出てくるタイプのボディソープ(なぜかこれはしっかり日本のメーカーのやつ)で丁寧に身体を洗っていく。脱衣所にはふわふわのピンク色のタオルと、同じくピンク色の少し大きめのトレーナーが置かれていた。

「ねえ、これ、下は?」「履かなくてもいいじゃん、どうせ後で脱ぐんだから。」

カーッと顔が熱くなる。分かっていたとしても、そんなに露骨に言うことないじゃないか。


手渡されたドライヤーは風が少し弱くて、セミロングを乾かすのには時間がかかりそうだった。風呂行ってくる、と立ち上がった彼の目の前には銀の空き缶が2個潰されていて、晩酌をすると言っていたのは嘘じゃなかったのかと驚愕する。

私がゆっくり髪を乾かし終わったころ、脱衣所では彼が風呂から上がった気配がした。「ドライヤーいる?」と少し大きめの声で言うと「あ、うん」と返事が来たので脱衣所にむかう。「わ、失礼しました!!」そこにはまだ上半身に何も纏っていない男がいるもんだから、マンガじゃないんだから、と思いながら見てないフリをして、私はリビングに戻った。


ドライヤーで乾かしたからか、線の細い髪の毛がフワフワになった店長さんがフラッとリビングに戻ってくる。「え!?」「え、なに?」堂々と入ってきたはいいけど、変わらず上半身は裸のままだ。「なんで着てないんですか?」「なんでって、普段なら下も着てないけど。」「はあ!?」「さっきから何なの、うるさいって。」



リビングと直結している寝室に入ると、そこは足元がぐらつくくらい色気に満ち溢れていた。ベッドも、間接照明も、時計も、ラグだって、全部ありふれたデザインの物なのに、なにがこんなに欲情させるのか。

後ろから抱きしめてくる上裸の男に私は完全に支配されていて、「好き、」と譫言のように何度も何度も呟いてしまう。

その告白はまたすべて無視をされてしまうのだけど、情事の間、1度だけ呼ばれた下の名前にひどく興奮した。


シーツに包まる私は、「今夜だけ?」と男に聞く。その私の表情を見て、「すごいな、僕の返事次第では死んでしまいそうな顔だ。」と男が笑う。立ち上がって寝室を出ていき、冷蔵庫を2度開け閉めする音が聞こえた。

「もう1回、できる?」もどってきた彼はやっぱり何かを飲んでいて、色的にそれはウイスキーのようだった。「…できる。」「じゃあ、これ。」もう片方の手で差し出されたグラスには、甘い匂いのする飲み物がたっぷりと。「アルコール、冷めてちゃ気持ちよくなれないから。」


彼が寝息を立てる頃には、あの日、ハードカバーを一夜で読み終えた日くらいに空が明るんでいた。あえて濃く作られていたアマレットのお酒は咳込むほど甘かったし、酷使しすぎたのか声はもうカスカスだ。


寝る寸前、私がまた譫言のように発した「好き」という言葉に、「じゃあもう好きにして」と彼は少し怒ったように返事をした。

「どういうこと?」「煮るなり焼くなり、セフレにするなり彼氏にするなり旦那にするなり、お好きにどうぞ。」

彼はそこでもう限界とでもいうように身体をベッドに沈みこませてしまっていて、今日知ったばかりの彼の名前を何度呼んでも返事がないから困る。私のやりたいことリスト、【恋愛成就】は達成したということでいいのだろうか。


下着姿のまま寝室を出て、リビング、キッチン、脱衣所、玄関を順番に歩きながらぐるりと見渡す。

統一感がある家具に囲まれているのに、部屋はどこかちぐはぐしている。散らばった洋服、置きっぱなしのカフスボタン、どこの国の物か分からない置物、妙なチョイスのスパイスや調味料。冷蔵庫には缶ビールや日本酒しかないのに、カウンターには甘ったるいシロップやリキュール。

女の影はあるようで、ない。でも、ないようで、ある。


寝室に戻ると、枕もとに小さな瓶が転がっているのに気付いた。クルクルとキャップを外すと、ふわりとひろがるキャラメルの匂い。ああ、あの甘い匂いは寝香水だったのか、とひとつ謎が解けた。

逆に言えば、解けたのはそのひとつだけだ。この男の考えていることを理解するには、もう一度最初から読み直す必要がありそうだった。


その前に、まずは寝よう。

何時に起きてもいい。私は無職なわけだし。

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