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吉本家はいい感じでイカれてる*隆明だもの

吉本隆明氏はジャンルで表すと思想家だったのか。

本の帯を読んで、その前提にという感じで、
何かで見た顔と、海難事故にあった時の新聞記事を思い出した。

(吉本ばななのパパか)

「よしもとばなな」という名前と「よしもとたかあき」と並べた時に、
なにか感じる違和感は、ひらがなにした時の、「たかあき」という
どこか堅苦しい字面と、切り離すようなクールな発音のせいかと思ってた。

漫画家の長女、ハルノ宵子さんの「隆明だもの」を読んだら、
最後の最後に来て表紙の片隅に踊るアルファベットから、
(りゅーめいだったの?!)と驚いた。

「たかあき」からバナナや春の宵は想像できないが、
「りゅーめい」からはお揃い感すら感じる。

ばななのパパかと思って、一度何かの本を手に取った記憶がある。

内容は覚えていないし、題名すらも出てこない。

漢字の分量が多いのと、どうやらばななとは違う人間である事実と、
知識を総動員しても親しくなれない内容と、
どこで呼吸していいのか分からない文脈のせいだ。

「日常に形容詞のないオトコ」

それらの答えが、この本の娘のひとことで瓦解した。

やたら言葉をなめまわすことには慣れていたのに、真実はシンプルだ。

吉本隆明氏はその神経質にも見える風貌くらいで、
「戦後思想界の巨人」と称される、想像できにくい権威や尊敬が
名前に染みついたであろう、世間の虚像すらよく知らない。

その虚像との比較に、「りゅーめいだもの」の表題と、
その表紙に描かれた娘である著者本人の「りゅーめいイラスト」に、
ともかく虚像と実体の考察というか、虚像を打破したいというか、
ひとりの父親を天から地に戻してからが本当の弔いなんだろうとか、
単純にお世話になった方々のお礼を込めて、とか、
単純に興味を持たれる題材で売れる本になるだろうとか、
これで「吉本隆明の娘」から決別する自分の決意とか、
あらゆるものを想像してしまう。

吉本隆明の思想や詩に傾倒していた人とは
一線を画すので、読みたくない本になるかもという危険も犯している。

表紙の「りゅーめい」は皺だらけの難しい顔で悩みが尽きずに、
頭を掻きむしっている。

一目見て、高価であったであろう緑のセーターは、皮の肩当ても擦り切れ、
茶色の肘当ても色が薄いだけでなく、さぞ汚れているといった風体だ。

五本指のソックスに、セーターと同じく、くたくた感を醸し出す、
たぶんジャージのようなズボン。

小さなテーブルに、本とか文具とか、ともかく整列を乱す紙の山。

かたわらの、舌でちょろちょろと舐めて、
まさに今、顔を洗おうとする猫だけが、前向きな日常を表現している。

漫画家の娘から見た父親は、
ロダンの彫刻と似ても似つかないながら、「考える人」だったのだ。

西伊豆の海岸で泳いでいた時に溺れた、
という新聞記事を見たのはいつだっただろうか。

「大先生というような有名人には、避暑の二文字が似合う」

そんなぼんやりとした想像だけだったが、
実際は、上にも下にも置かない回りの慌てぶりが続いたことに、
現在元野球少年たちが、毎朝大谷のホームランを
気にするような感じだったのだなと、
元インテリ少年たちの心中を慮る方向にシフトされていった。

私の日常で良く出逢う人に、品が良いおばあちゃまだが、
日毎ボケが進み始めて止まらない方がいる。

会話の中で、なにかの棘が刺さると、
「私の夫は教師だったの。息子も小学校の先生をしているの」と、
そういった家庭の私がそんなことをする訳がないじゃないの!と
品良く、きりりと、自分自身のプライドを高く掲げて、むきになる。

さらにボケが進んでいるので、
「初めてお会いするわね。私は〇〇と申します。どうぞよろしくね」
と、毎回お決まりの挨拶だ。

こちらも面倒なので、
「はい。よろしくお願いします」と、毎回初めて出会う人になる。

それが一年も続くと、こちらの飽きが来て、
「あら、毎日お会いしてるじゃないですか~!」
「昨日も〇〇でお会いしましたよ~!」などと、
嘘で相手を揺さぶることに変えてみた。

これもやや飽きつつある。

おばあちゃまは品が良いので、
「あら、そうだったかしら。ごめんなさいね。お名前は?」と、
百年一日のごとく、出会う度に、別だけど、同じセリフを話すからだ。

つまりはボケている、という事自体は変わっていないのだ。

「りゅーめい」氏のボケ具合も、同じように会話自体は成立していて、
最後まで他人から見れば一見まともだったようだ。

ただし普通なら「嫁に金を盗まれた」が、
「共産党に金を流している」という、なかなか歴史的なゾーンに入る。

父親に対する、人間としての幻想は、
老いを実感してもなかなかうまく向き合えないことの苦労が、
時に面白いエピソードを交えながら、
辛辣なようで闊達な味を出して、父親のセリフとともに綴られている。

吉本家はそんな父親と、怖いほどのオーラが強すぎる母親と、
アイドルのような妹の三人を、うまく中和させて繋いでいる著者がいる。

父親が亡くなった病院には、同じように母親も入院していて、
最後に会わせようとしても、看護師から「無理よ」の一言で断られるなど、
溜まっていく澱のような、現実の疲労や苦労や悲しみが胸を打つ。

父親は年上の友人から妻を奪ってしまった形で結婚したが、
その母親もボケていき、アル中で入院していた時のエピソードも心に残る。

「退院したら〇〇(前夫)さんのもとに帰るのかしら?
それとも吉本さんのところ?」
「どこに帰るの?」
「〇〇さんのところは嫌」
「吉本さんのところだよ」
「良かった。吉本さんは可愛いから」

巻末の姉妹の対談に出てくる言葉の数々は、
闘争の中にある家庭と、論争の絶えない人間関係を彷彿とさせ、
読むものを一見クールな気持ちにさせるが、
それらはありのままの嘘のない人間関係であり、
譲歩や妥協、それぞれの孤独も見えてしまう闇も、
お互いに理解しようと努め、その気持ちが家族への愛情として、
緊張感を感じる回顧であっても、まさに懐古と変貌しているように思う。

夫婦二人になったら「お父さんを殺して自分も死ぬ」って言いそう。
家に火をつけるとか。

父親は、亡くなる何ヶ月か前に、
身支度をしてどこかに出かけようとしていたらしい。

そして、そのまま玄関で転んでいたのを家族に発見された。

その時のことも著者は語る。

分かんないんですけど、何かの自由を求めてたんでしょうね。
なんとなく家にも閉じ込められ、
自分の体にも閉じ込められという気持ちがあったんだと思います。
猫もそうなんですよね.
みんな玄関から出てってその辺で死んでたりするんです。
やっぱり最後の力を振り絞って。
それが野良の最後なんです。
どんなに保護して暖かくしてやっても、そうやって出て行って。
だから死のうとして出ていく動物はひとりもいないんだし。
最後まで自分であるために。みんな出ていくんだ、と。
猫も・・・。

吉本家の二人の娘は、どちらも言葉を通して、
父親を、或いは父親と母親の関係も言語化して整理できている。

言葉がつなぎ目となって、それぞれの個性を認めて、
長所にも短所にも、それらの起こしていく家庭内の出来事にも、
父親から受け継いだ理性が、こういった文章を掘り出すのではと思う。

この本に登場するの「りゅーめい」氏は、
「娘のためならやぶさかではないので」と、
らしくないセリフを胸に秘めていそうだ。

(どんなお顔になっていったんだろう)と思って画像検索したら、
あにはからんや、まるで猫のような笑顔のおじいちゃんだった。

(もしや人たらし?)と考えていたら、
「よしもとたかあき」のふり仮名が・・・。

「りゅーめい」は単なる呼び名だったんかーい!

やっぱ「たかあき」と読むんかーい!

でもあの笑顔には「りゅーめい」の方が、愛されてる感じでよく似合う。

そんな父親像が静かに語りかけてくる本だった。





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