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心が立ち上がれない理由*あれから29年

まるで昭和の避難所のようだ、と書き込んだ。

今の住居に落ち着くまで転々と7回も移り住んだけれど、
避難所に情報を探しに行くことはあっても、住んだことはない。

避難所は人間の最低の暮らしの吹き溜まりのようなところだ。

いろんな人の思いがゴミ箱のように錯綜する

携帯は充電できるけれど、清潔と不潔のせめぎあいの場所だ。

お風呂はもちろんない。

トイレの小は流せない。

トイレの大は沢水を汲んできて貯めたところから
バケツで水を掬って手動で流す。

情報が集まるので、
いろんな支援であちこちに旅行気分で、
出かけることは出来るようだが、
自宅のように帰るその場所の床は冷たく、
空気も冷たく 人のエネルギーもなんだか冷たい。

見世物小屋のようにいろんな人が出入りする。

さまざまな匂いだけが、渦巻いている。

日にちが経てば、それぞれ避難所の運営に携わるが
子供たちは我慢し、年寄りは我慢がきかずに不満が口をつく。

働き盛りはさらに働く必要に迫られる。

不満だらけなのに、感謝を口にしなければいけない。

何もできない自分がいるからだ。

そこに自分のものは何もない。

夏になって仮設住宅に入った。

ひとりかふたりなら四畳半の1Kだ。

3人でようやく四畳半ふた部屋あてがわれる。

阪神淡路大震災のお下がりの機材を使われたそれは、
初めて入居した時に、柱と壁との隙間から太陽が見えた。

だけど、仮設長屋暮らしは楽しかった。

自分の場所が確保されたうえ、誰かが近くにいる。

小さい家というのは暖かいと口々に語る。

若い子の隣の部屋は、一晩中うるさくて寝られなかった。

といがないので雨が降ると、いつも叩きつけるようにうるさい。

空き部屋が増えてくると、
近隣トラブルを抱える人達がようやく移動できる。

中学校の保護者からは、仮設の駐車場の車の音がうるさくて、
授業に身が入らなくて困ると言われる。

悪夢と現実は両端から近づき始め、
惨めな境遇と感謝の気持ちの天秤は、上下に細かく左右が揺れる

「最近万引きが増えて来たんですよ。平和になったんだなと思う」

月日の流れは人の心の移り変わりで感じることがある。


某国の救援隊は盗みばかりすると市役所に陳情が集まった。

だんだんといろんな喧嘩の数が減る。

いろんな人がいろんな話を聞きたがったり、
舞台の脚本や物語を作るようにやってくる。

時間がたつとただ一緒の時間を過ごすためにやってくる。

ただ挨拶さえ交わして静かな時を一緒にたわいのない話をする。

炊き出し支援に来る人は
「僕たちは自分たちがやりたいから来てるだけなんですよ」と
気を使わないよう繰り返しながら珍しいメニューを説明する。

もしかして、復興工事はとっくの昔に終わったと
思われてるんだろうか。

石川県知事が初動対応が早かったというのは、
単に丸投げしただけかと思うようになった。

随分前から災害の危険性は警鐘されていたが、
独自の地域性を考慮した備えはあったのだろうか。

国会議員が募金箱を持って街頭に立つ姿を見せられる。

中学生でもできるそんな仕事を、国民が求めている訳がないじゃないか。

それ、政治家の仕事?

国がグランドデザインを示さないか、持ってないか、
ともかくそんなところだ。

行政の計画は二転三転した。

早々に自力で住宅を再建したあとに、
そこは住宅地にはならないと、電気の供給をされないお宅。

日にちが経つにつれ、人々に欲が出るので、
話し合いはいっこうに、どれも進まない。

グランドデザインがないから、誰もが動けないのだ。


今朝のテレビでは「被災地に届けたい言葉」を募集していた。

被災地の人々が、のんびりとテレビなど見ている訳がないじゃないか。

見ているのだろうか…。

「被災地に届けたい言葉」のあとにグルメ情報を届け、
楽しい日常の生活を映し出す。

何もそれが悪いわけではない。

「被災地以外の人同士で交わしたい言葉」という事実を
ちゃんと表現すべきではないのか。

或いは「ここから先は被災地の方はテレビを切ってください」と
注意書きを入れるべきだと思う。

これは真面目な意見です。


食べ物よりマスクを届ける政府。

灯油もガソリンもないのに、石油ストーブを支援する。

多少落ち着いた頃に、スーツにネクタイで地震見舞いに来る。

ちぐはぐな服装のままのこちらは、彼らが帰ったあとに、
「炭や練炭れんたん位持ってきてほしい。炭炭練炭練炭」と口々に交わした。

ガソリンを手に入れて、買いにいったのは薪ストーブ。

髪を切るハサミと、裁縫道具と、壊れないプラスチックのコップ。

1ヶ月も大事に紙コップを使っていたのだ。

日常が続く場所には、物があり過ぎて、
何を買えばいいのか分からなくなっていった。

支援物資はたくさんのいろんな上着はあったが、
年寄りの欲しいスカーフも帽子もマフラーも見つけられなかった。

立ち上がれなくなる人々は、
やがてやってもらうことが当たり前の精神にさえなる。

電柱が一本一本立っていくのを楽しみに待った。

水汲みは2ヶ月続いた。

阪神淡路大震災から29年も経ってるのに、
いつになっても、苦労は国民に平等に、
変わらぬものを経験させなければ、と思うのだろうか。

もしかしたら、思ってるのかも知れない。






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