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対等に話せなくなる「思いやり」のフィルター*沈黙の価値

相手を黙らせてしまうために、
「暖簾に腕押し」も効果的な方法のひとつだ。

この人に何を言っても伝わらない、という印象を与えればいい。

ただし、相手が、自分の拳を振り上げる場所がない人であったり、
まさに空気を読めない自己中心的な人であれば不発に終わる。

ひとは(こうであろう)と予測しながら話すだろうが、
世間的なマニュアルの言葉の使い方を知っていると、
常識ある人に見られようと、そのページをめくってしまう。


たとえば小さな子供が亡くなったとする。

辛そうで声をかけられないと思う人は多い。

誰も「頑張って」、なんて言えない。

時が経てば「元気なお子さんだったわよね」とか
「挨拶のしっかりした可愛いお子さんだったわよね」と
言うような慰めを受け入れるようになる。

次第に「あの頃は声もかけられなかったのよ」と
語れば、「家事も仕事にも手につかなかったからね」と語れる。
「そう言えばあの子こういうことがあってね」と
「もう何年前のことになるかしら」と日常会話に混じっていく。

もしも亡くなったばかりの時に、
「たいへんでしょう」
「お辛いでしょう」
というような慰めをかけたとする。

そんなことは言われなくても、本人が実感しているのだから、
優しい思いやりを伝えるように見えても、
いわばセカンドレイプのように、
「大変なあなた」「辛いあなた」「可哀そうなあなた」と
追い打ちをかけるようなものだ。

連れ合いやパートナーが、年若く亡くなったとする。

身内なら、80で亡くなろうが、90で亡くなろうが
「まだ早い」と思うのがたいていの、偽らざる気持ちだ。

だけれども片割れを亡くした、その2人の関係は2人にしか分からない。

外面が良くて、(このひとがいると自分が生きていけない)と
感じてる人なら、なぐさめの言葉に、
楽な心を取り戻した自分を責めるかも知れない。

その反対に(このひとがいないと自分が生きていけない)と
感じてる人なら、なぐさめの言葉に
いちいち対応するだけで心すり減らしてしまう。

その時に自分が「今、世界で一番不幸な人間」、と感じているのだから、
「私も、何十年か前に亡くしてね」というような慰めは、
なんの足しにもならないどころか、
(だから何だというのだ)という気持ちが湧き上がるだけに過ぎない。

誰かが辛い時を迎えていると思うなら、知らないふりをして、
ただ一緒の空間に同席している程度で十分なのだ。

喋りすぎてはいけない。

思いやり、とは結果であり、誰かの立場を想像するには限度がある。

相手のことを考えてあげようとする表現は、
時に相手にとっては欺瞞であり、
ただの自己満足で終わるに過ぎないこともある。

優しい言葉であればあるほど言い返せずに、黙り込むしかなくなる。

耳を傾ける心には(あなたはひどい人だ)と、
その優しい言葉に、機関銃を向けているかも知れない。




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