アンブローズ2023

絶対的な悪が存在しないように、絶対的に正しいことも存在しない。
そのうえで、個々人がなにを正しいとし、なにを正しくないとするかは自由である。
この二つのタームを混同している人が多い気がする。

「侏儒の言葉」は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

芥川龍之介『侏儒の言葉-序』

客観

客観という概念がある。誰もがそうだと納得し賛成できる、いわば外部に存在する絶対性である。しかし本来それはわたしたちには実際知りえないところにある。わたしたちが客観性を語ることはできない。
人間が思うことは総じて主観にすぎないからである。
自分の意見=主観、というのは当たり前だ。そこから「相手はこう思っているだろう」と思うことは「自分が相手の立場だったらこう思っている」と想像すること、悪くいえば邪推することであって、それも自分というフィルターを通したものにすぎない。主観である。
他の誰かの意見、それも他の誰かの主観にすぎない。いろいろな人の意見を総合して、多く見られた意見やだいたい共通しているものを抜き出してみても、結局それは主観の総合体、人々の主観にはこういう全体性があるともいえる、それだけだ。本当の「客観」とは誰の主観も通さない。根本的に異なる概念である。……というのがわたしの主観である。

当意即妙

出たものはすぐに見なければならない。答えは完璧でなくてはならない。言い換えると当意即妙。それは確かにすごいし尊敬できるが、それこそ良いものだ、という考えは好きではない。
スピードか完璧か、現実的な話をすればどちらかがないがしろになる。そして多くの場合、スピードのほうを取るらしい。
素早く出したからといって意に沿っているかは保証できない。しかし、当意即妙という型に頭の中で無意識に重ねるあまりそれが「意に沿っている、完璧なものだ」と思い込んでしまうこともある。また、スピード重視のものに対して「これこれこういう手落ちがある」と必要以上にけちをつけるのもその類の問題だと思う。
大谷翔平は二刀流だが、だからといって全ての投手に二刀流を迫ることはない。念のため言っておくが、大谷翔平がすごい選手であることは全く否定していない。

怒り

怒りはたびたび歴史を動かす原動力となってきた。
しかし怒れるものは完全に正当か、といえばそうではない。怒りのおおもと、理由、種の部分には正当性が確かにあっても、それを怒りが育てる限り多かれ少なかれ歪みは生ずる。また、怒りのスピードにのまれて思いのほか遠くへ行ってしまい、帰り道が分からなくなることもある。正当だろうか。
いずれにせよ、怒れる人はときおりにでも反省するべきである。

愛は難しい。そも実在も定かではない。
なにかを目の当たりにして心に生じた正方向へのいいようのない感情、それを簡単に(おしなべて)愛とラベル付けするので、人間はたびたび愛を話題に激論する。
愛とはなにか。基準は個々人による。それは利便性かもしれない。自己の空虚さを埋める土の役割かもしれない。お金かもしれない。時間かもしれない。形而上にある酒の銘柄かもしれない。それらすべてをあてがってなお、心に残るやわらかな熱のことかもしれない。
少なくともそれを一概に愛と呼ぶことも、またその表現方法を一つに限定することも適切ではない。恋愛なくして愛はない、というのはよくある間違いである。

言語

言語はものを伝えることができる。ものという無限の意味のかたまりを一義に平べったくすることでデータ軽量化を図り、それがたまに(今でも)エラーを引き起こす。話が食い違うのはこのせいである。
ゆえにわたしたちは言語に頼りきりではいけなかった。言語の隙間に介在する、言葉にならないなにかを敏感に感じ取ることが大切だと思う。わかったつもりにすぎなければ都度修正していけばいい。言葉より雄弁なものはこの世にたくさんある。

信条

絶対的な善も絶対的な悪もない、すべて受け入れられるべきだ、というならあれはどうなんだ、これはどうなんだ、そういう反論があると思う。わたしは衝撃的な人間ゆえに「だからどうした」と言ってしまいたくなる。ただそうした自分の意識が他の人にとっても正しい、推進しよう、などということは思わない。他者にとっては正しくない、なんてことは十分わかっているつもりである。
他者にとってどれだけ正しくなくても、わたしにとっては純粋な正しい気持ちである。思想・信条の自由の名のもとに、わたしがそういう考えを持つことは禁止できない。わたしがわたしとして生きていることになんの罪があろうか。それだけでどんな迷惑がかけられようか。そんな思想を持つのは非国民か、人でなしか。そういう思想は存在してはいけないのか。目に入るだけで嫌な気持ちになる、あなたのその気持ちがわたしの気持ちより優先される根拠はなにか。
はっきり言っておく。信条にはなんの罪も優劣もない。法律上裁けるような行為に至って初めて、人は罪に問える。ただしその信条を取り上げて攻撃することは一概に正当だとはいえない。

見え方

世界の中にわたしたちがいるのではなくて、わたしたちの中に世界がある。
ゆえに個々人はそれぞれ違う世界に生きている。違うものが見えるのも当たり前のことである。

絶滅

「わたしの将来の夢は素敵な結婚をしてよい主婦になること」と言っていた友人がいた。「そういう人もいるんだよ。迫害されるのはやだな」屈託のない笑顔が今も心に残っている。そのときわたしはそれまでの考えを改めた。

便利

人間は便利なものを愛する。裏返せば愛とは利便性の有無である。あなたはなにかを愛することであなたの中のなにかを満たしている。そのまなざしのほとんどには「こうあれ」という期待が潜在している。そこにあてはまらなければあなたにとっての利便性を失うのだから、あなたが「愛せなく」なるのも当たり前のことである。そんな思いとは関係なく、彼らは独立に存在する。

人権

人工知能に人権が認められたらわたしは真っ先にお縄につくことだろうが、それより先にフィクション存在に対してもある程度の権利、というまでではないにせよ線引きをするべきではないかと思う。いつの時代もいちばんの娯楽は暴力だ。フィクションなら不死、というのは間違いである。油断に任せて好き勝手やっているうちに、奴が自殺したらどうするのだろう。

贖罪

ディオニスのことは受け入れがたいのに、愛するつみびとについては無罪放免を主張する。

ヘイト

口を開けば「ヘイト管理、ヘイト管理」と言うが、全く同情できず愛されてもいない非倫理的な存在についてはどんな暴力的行為も辞さないというのなら管理する必要はないと考える。そうでないのなら、ただの個人の不快感のために作り手が根回しをする義務はないと考える。

正解

ものごとには善し悪しがつきまとうが、結局正解とは個人の決定そのものである。誰も侵害できない。


アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』、芥川龍之介『侏儒の言葉』のまねごととして今年考えたことを時間の許す限り書いた。ここに書いてあることは全く個人の意見であり、実在の人物事件等々には関係がない。

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