見出し画像

未来への絶望

「明日は学校/仕事だから、そろそろ寝ないと……」と思って眠るのが苦手だ。
休みの前日や休日の昼間なんかに、ただ端的に眠ることは造作もないのに。

朝寝は快い。そこには目的がないからだ。ただ眠りの心地よさに身を任せるだけなのである。

それに比べると、夜に眠ることは難しい。夜は大抵、明日のことを考えながら眠るから。気を抜くと、明日やその先に対する「漠然とした不安」が大挙して押し寄せてきてしまう。
夜、布団に入り「明日のため」だなどと「未来」のことについて考え始めた途端、どうやっても眠れなくなってしまうのだ。そして毎晩のたうち回る羽目になる。

今日が終わり、明日が来て、明日の次は明後日が来る。この手の時間感覚に終わりはない。正確にいえば、この時間感覚が死ぬより先に私が死ぬに違いないのである。
この時間感覚は、人間が人間である限り続くものだろうから。たとえ私が死んでも明日は来ると信じられるように、「私」の終わりよりも、時間の終わりを想像することの方が難しい。

これは「未来について考えられる、考えられてしまう・・・」人間の絶望なのだろう。
動物と違って、人間は「未来がある」と信じている。現在を「未来に向かって続くもの」として捉えている。
人間は時間を「幅があり、持続していくもの」と考えているのだ。

だから「本当はまだ起きていたいけど、明日のために寝る」という選択肢がとれるわけだ。

私はそのことに絶望している。
今は働いているから「明日も明後日もその先も・・・・、ずっと働き続けるのか?」と考えては、言いようのない不安に苛まれている。
だからといって、仕事を辞めたところでこの地獄が終わるかといえばそんなことはない。今度は「無職になってしまった。将来・・どうしよう」と頭を抱える羽目になるのだ。

この絶望が、時間を持続するものと捉えるような人間性に由来する以上、私がここから解放されるすべはない。
どこでどのように生きたとしても、こいつは私の後を影のようについて回るのだろう。

しかし「未来がある」と考える人間の時間感覚は悪いことばかりではない。

「未来ある子どもたちを支えよう」といった言説に見られる通り、人間の持つ未来の意識は、「未だないもの」に対する配慮や献身を可能にする。
「未来があると考える」ことは絶望の源であると同時に、人間のかけがえのなさの源でもあるのだろう。

だからこそ、たちが悪いと思う。
絶望の根源が魅惑的であることに、一層深く絶望するのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?