必要とされる人間とは

今回は自分の気持ちを率直に文字にしつつ、日頃感じている・考えていることを文字にしました。最初の数行を読んでみて、合わないと思ったら読まない方があなたの時間を無駄に使わなくて済みます。

私はまともに社会に出たことがない大学院生である。決して裕福では家庭で育った自分である。両親はほぼ何も言わず、いや母親は折に触れて就職の心配はするが、父親とはまともに大学院の話をしたことがない。でも学費だけは一切文句を言わずに出してくれる。

半年間フリーターの生活をして、その間の学生生活?研究生活?を実家で過ごしても、特に何も言わない。ただ、入試の日程を誤認識して落ち込んでたときだけは、前を向いてこれからどうするか考えろと言ってくれた気がする。

君はとても良い両親に育てられた、なんて言われる。自分でもそう思う。ただ、正直に書くと私は人間としていい人間ではない。謙遜ではなく事実である。また親不孝である。先ほども書いたが、うちはそんなに裕福ではない。そんな中で勉強だけはやらせてやろうという親心なのか、もしくは自分と同じ道を行くな、という気持ちなのか。単純にやさしいからなのかもしれない。

さて、ここまで書いていて、私は一度も手が止まっていない。文面も大して考えずにスタートしたが、特に何も問題なく書けている。なぜだろう。きっと両親に感謝しているからだろう。

でも、ここでいつも思う。

私は両親に恩返しできるだろうか。決して安定とは言い難い世界で、競争で勝ち続けられるのだろうか。研究とは1日1日の積み重ねであり、サボったら上に追いつくことは絶対にできない。かといって、上ばかり見ていると下にいる才能のある、自分より努力している人間に目が止まってしまう。

20代で何を言っている、可能性は無限大、なんて言葉はある意味では正しいだろうが、大抵の人には間違っている。おそらくこんなに冷静に考えられている時点で負けている。大抵とんでもない人は信じられないくらいの地頭の良さ、またはとんでもない体力を持っていて通常の人の2倍とか平気で働く、勉強する。

ましてや近年は能力のない人に厳しい世界である。自己責任とは何と残酷か。無能な人間にとってこれほど大変な世界はない。正直に書くと、私は頭は弱い方だ。なぜなら、基本的には試験とかでは平均点、またはその下くらいである。どんな試験でも成績上位者とかになったことはない。

では、なぜ博士課程に来れたのか。私は単に体力がある、というより何かを始めたら辞めない習性があるようだ。その点研究は都合が良い。1番にならなくても、物差しが違えば1番になることができるからである。

100m走に20秒掛かる人間でも勉強で平均程度にしかなれない人間でも、何かの分野の中の特定のテーマであれば1番の人と同じレベルには居られるのである。

話を戻そう。私は両親に恩返しできるのか、より広く書くなら研究指導をしてくれている教授や授業でお世話になった先生方、もちろん他にもたくさんいるが、彼らに貢献できるだけの能力と知性と度胸を兼ね備えた人間になれるのだろうか?

私は誰かにとって必要とされるのだろうか。

多分その答えは誰も知らない。なぜなら未来の話だからである。未来は誰にも分からない。予測はできるかもしれないけど、100%が確約されている世界はない。

だからこそ、消えることのない不安に苦しみ続ける。ただ、この苦しみも残念ながら慣れる。慣れたくもないものに慣れるのは不幸かもしれない。けれど、この苦痛を経験した者にしか分からない気持ちがあると信じて、今日も不安な気持ちを抱えたまま明日を迎える。

とかこんなこと書いてないで、さっさと研究しませんとね。その前に寝るか。寝れば大体記憶は定着するので、この書いた内容も大体覚えてるし。

長くなりすぎて、ただでさえ文意を汲み取りづらい文章に拍車を掛けている。この辺で終わります。今年も残り1ヶ月。みなさん頑張りましょ。

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