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願いというのか、

一度だけでいいから
男の体で生きてみたい
と、時々思う
月に一度
自分が自分じゃなくなるような
感覚を持たずに
人生を走り抜けれる感覚って
どんなものか
白いバスタブに滴る
鮮血をみながら
憂鬱になる日は
できればすべてのものから
離れて
外部から遮断された
自分だけの世界で
過ごしたい
子宮に支配された自分を
どこかで本当の自分だと認められない
誰にもみられたくない
薬を飲めばいいのだろうけれど
究極的にいえばどこまでも受け身な性
男は準備ができなければ入っていくこともできない
女は準備ができていなくても侵入されてしまう
悔しいではないか
なのに母となった瞬間に
極端な能動を要求される
それが不幸だという話ではない
それを受け入れるのに時間がかかるのだ


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 女性なら、ホルモンの影響で、感情のコントロールが難しくなる、あの感覚を多かれ少なかれ知っているのではないでしょうか。
 性教育は、子どもの作り方や避妊の仕方だけでなく、生理がくることによって精神的にどのような影響を受けることになるのか、薬でコントロールすることもできるけれど、そもそも薬でコントロールしなければいけないような労働環境を提供している社会がかなり機械的なものではないのか、といったことについて語りあう「場」を提供すべきように思います。社会を変えろというのではなく、まずはお互いの立ち位置をちゃんと確認するという感じでしょうか。
 加えて、身体的には、男性と女性に分けれても、心の性はもっとグラデーションがあって、簡単には男性と女性には分けられないことも教えていくべきように思います。どこまでも個人の感覚なので、同じ性別だからといって同じように感じているわけではないことを知ることが第一歩のような気がします。わたしは女性ですが、自分のなかの女性性を受け入れるのに時間がかかった方だと思います。自分が男だと思ったことはありませんが、女性らしいとされるものを強制されるのが極端に嫌いでした。
 「お前が男だったらよかったのに」、「そういった議論は昔は男がしていた」、「女だからそれより上を目指さなくていい」、「女だから結婚という逃げ道がある」、「あいつが女好きだから、そのポジションにいれる」など、その言葉を発した本人たちはとても軽い気持ちで言ったであろう言葉に直接に間接に傷つくことも多々ありました。
 その他にも、例えば「結婚したら、働かなくていいよ」という言葉は優しい言葉のようにも見えますが、本人の自律性を打ち砕く言葉にもなり得ます。「結婚して、働く君を支えたい」といって、家事をまったくしないのであれば、それは暴力と同じです。結婚をするときに、女性の方が姓を変えるのが当然のようにされていることも、人によっては暴力になりえます。例えば、30年近く使ってきた自分の名前の半分が失われるのは大きなアイデンティティの喪失です。あらゆる公的文書と、職場で使用する通称が違っていれば、それはアイデンティティの分裂を意味します。自分であるのに自分であると認識してもらえないということです。
 逆に男性であれば、「男なら泣くな」、「泣き言を言うな」と言われて育って、本当の自分の気持ちに気づきにくくなったり、自分の本当の想いを言葉にして他人に伝えるのがひどく難しいと感じてしまうといったことを経験されている方が多いのではないかと思います。女性と違い、ほとんどの男性は「働く」こと以外の選択肢が現実的には残されていない辛さもあるでしょう。そうした男性に対して「男はATM」なんていうのも、暴力の一種だと思います。こんなにひどい表現はありません。
 こうした世間にあふれている心無い言葉は、悪気がないだけに余計に傷つきます。大人になれば、そんな言葉の意味の重さを自分で調節し、ゴミのように扱うこともできますが、無知な子どもにはそれができません。ときにはその言葉がずっと心に棘のように刺さって、血をながしつづけてしまうこともあるでしょう。もっとも、わたしの経験上、大学を卒業するまでは、ほとんど完全に男女平等の世界で生きていたのに、社会にでてからいきなり言葉の暴力がふってきたという印象があります。無知のまま子どもたちを社会に送り出すのはあまりにも危険なように思います。
 だからこそ、できれば思春期のうちにそういった話を「恥ずべきこと」という感覚なしに、安心して語れるような場が提供されて欲しいと願うばかりです。

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