九月某日 とても暑い日。たい焼き屋で高いかき氷というものをはじめて食べる。今までのかき氷とは全くちがうものを食べている!と静かに興奮しつつ、真剣に、集中して食べる。黒みつきなこミルク小豆。来夏も食べられるといい。 十月某日 電車に乗って隣りの市の図書館へ行く。詩の棚をじろじろ見て、九冊の詩集を借りる。重いがうれしい。うれしいが重い。寄り道せずに帰る。 杉本真維子『裾花』 峯澤典子『微熱期』 暁方ミセイ『ウイルスちゃん』 マーサ・ナカムラ『狸の匣』 藤原安紀子『どうぶつ
八月某日 頭木弘樹『自分疲れ』を読む。 「個人的な」心と体のことを考える本が紹介されている。トラックにぶつかって、意識不明になった人が36日目で初めて意識が戻った、「病院で目が覚めた」と感じる。でも、じつは事故から14日目には意識が戻っていて、会話や食事、囲碁やピアノを弾いていた。アイスが食べたいと会話したのはいったい誰になるのか。「私」は目覚めていないのに、意識は目覚めていて「私」を動かしていた。 容姿に恵まれない女性が、容姿に恵まれた女性に、こう言う。テレビドラマの
八月某日 「ペンションメッツァ」を見る。アマゾンプライムにいつのまにか入ってしまっていて震える。年齢の近い方々の「入るつもりはなかったんだけど」をちらほら見聞きしていたので、これは中年の無意識のなにかを巧みに利用したなにかだろうか、と人のせいにしてみる。 八月某日 「ペンションメッツァ」を見終わる。よい。小林聡美演じるテンコさんが自分のために作った夕食がいちばん食べたい。もたいまさこの存在感が深く残る。 八月某日 色白のパーマ青年土左衛門 夏子と百閒と海水浴に行く
顔の見えないライ麦パンを寝るまえに焼いて見つめる。栄養管理士のみきさんにもっと食べろと言われている。日本文学を翻訳する韓国のひとのエッセイを少し読む。女のひとと思いながら読んだ詩集は男のひとだった。坊主頭のおばちゃん、三つ編みの男のひとが近所をひかりながら歩く。みんなしたい髪型をして着たいものを着ているのですか。木のかたまりを無理なく彫りすすめるとひかるものができますか。いち生活者として誰となにを交換しつづけますか。追伸ばかりとなりました。ひかりたいです。ほどよく暑さのせいに
七月某日 フィリップ・フォレスト『さりながら』を読む。小林一茶についての話が暗い。しんどいと思いつつ惹かれるものがあり、読むのをやめられなかった。 「さりながら」はフランス語のcependant[とはいえ]にあたるそうだ。フィリップ・フォレストと小林一茶は、子どもの死という共通点がある。 七月某日 パク・ソルメ『未来散歩練習』を読む。過去に起きた歴史に残る事件を、今現在も「自分事」として考え続けることは易しいことではないと思うが、軽やかな語り口と毎日の生活に組み込みな
もうすぐ芍薬の季節が終わります、と小さな紙が見え、気づくと玉のような蕾の枝を買っていた。薄桃色だった蕾はひらくと白になった。淡くうすい桃色は花びらの端に溜まり、紫色となって白い花びらの縁を飾っている。そのことを手紙に書くと、コーヒーを淹れて飲んだ。 今のわたしには一日二杯のコーヒーが適量だが、読んでいる小説の主人公がことあるごとにコーヒーを飲むため、つられるように淹れてしまい飲んでしまう。ほんとにおいしい、と本の中で主人公が言っていて、わたしもほんとにおいしいと思う時がごく
六月某日 百閒が恐竜博物館に行きたいというので、福井にいく。飛行機でいく。前に乗ったのがいつだったか思いだせない私と、飛行機がはじめての百閒はあきらかに緊張していた。ちょっとしたジェットコースターじゃないの、と百閒を見ると、窓際を拒みつつ、下を見なければ大丈夫らしい。もらったりんごジュースは今まででいちばんおいしいという。夏子は雲や田んぼをずっと眺めていた。電車にのりかえ、途中の停車駅でサルと目があう。 六月某日 近年、旅先でうまく眠ることが難しい。寝不足のまま、持って
六月某日 となりの市の図書館へ行く。小説やエッセイ以外の文庫も文庫コーナーで分類され、ならんでいるのが新鮮。カードを作り、二冊借りる。穂村弘『図書館の外は嵐』、小林聡美『ていだん』。どちらも赤い表紙の本だった。抹茶アイスを食べる。 六月某日 三品輝起『雑貨の終わり』を読む。ロンドン郊外のフロイト博物館に置かれている、来館者たちが昨夜見た夢を記すノートに三品さんも書く。 どこかで生きているけれど、もう会うことはないひとと、実は死んでしまっていて、二度と会うことができない
旅先の博物館で彼女を見かける。ふたりの小さな女の子と夫らしきひとと一緒にいる。よく見えるようにと、彼女はいちばん小さい女の子を前に押しだす。女の子の肩に彼女の指が食いこんでいる。水筒の水をのんだ瞬間、夫らしきひとが平手で強く彼女の頭を叩く。彼女の顔が歪んでゆく。二十五年前、彼女とわたしはおなじひとを好きになった。わたしたちが好きだったひとなら、そんなふうに頭を叩いたりはしないのに。 飛行機から空港に移動するバスのなかで彼を見かける。となりに座るスーツ姿の男性となにか話してい
五月某日 晴 稲垣えみ子『家事か地獄か』を読む。毎日毎日ごはんとみそ汁の生活とはどんなものだろうと、さっそく始めてみた。なかなかいい。誰かの日記で読んだ、たまごの入ったみそ汁がおいしそうだった。近々作ってみたい。 五月某日 曇り 井坂洋子『はじめの穴 終わりの口』を読む。松井啓子「夜」という詩に惹かれた。夜ごはんのあとにまだなにか食べたいと、女のひとと男のひとが竹輪やグリーンアスパラガスを食べる詩。ぱらぱらめくっていると見覚えのある詩があった。斉藤倫『ポエトリー・ドッグ
五月二日 木曜日 晴 無性に歩きたくなり北鎌倉まで。ふだんは超熟六枚切りで十分だが、ここ数日、おいしいパンのことが頭から離れなくなってきたので買いに行く。カンパーニュとクロワッサン。クロワッサンはヒルサイドパントリー代官山の天然酵母のものとDEAN&DELUCAで扱っていたメゾンカイザーのクロワッサンが好きだった。それから二十年は経っていて、ほかの店のものも食べていたと思うがさっぱり思い出せない。北鎌倉のパン屋のものは「バター40%」と書かれていた。 五月三日 金曜日 晴
保坂和志『季節の記憶』を読む。この物語に入ること自体が長い散歩のようであった。主人公・中野さんは五歳の息子クイちゃんと暮らし、三軒先の松井さんとその妹・美紗ちゃんとは家を行き来する仲だ。彼らにとって答えのない会話は日常的で、グレーのものはグレーで保留される。冬子は彼らの思考の過程を読んでいるとき、自分も一緒にその長い雑談に入っているような、同じ部屋にいて、なんとはなしに話を聞いているように感じた。まるで高野文子『黄色い本』の実ッコちゃんみたいだ、と思う。 小さい鞠のような桜
冬から春に変わったのだ、確実に、と冬子は思う。かたい食べものを欲し、無駄に歯を鳴らす。動物のようだった。噛んでも噛んでもなかなか消えない、かたい食べものがないとそわそわした。 それなのに、図書館の帰りに寄ったロングトラックフーズでうっかりバナナブレッドを買ってしまう。江國香織『川のある街』で、バナナケーキを食べたがる十九歳の妊婦が出てきたことを思いだした。 彼女とは七歳のハシボソガラスなのだが、冬子は若いひとが自分の進む道をみつけた瞬間のように眩しく読んだ。鳥のことなのに
『PERFECT DAYS』を観に行ったのは音楽につられたからだった。「Pale Blue Eyes」を歌うルー・リードの声が小さな波となって、冬子の遠く渇いた二十歳の記憶を湿らせる。曲が流れるあいだ感情が押しよせてきて泣きそうになった。 映画が始まってしばらくすると、冬子は小さく笑ってしまう。主役の平山さんの朝、夜、休日のそれぞれのルーティンを観て、おじさんのルーティン動画がこれから流行るかもしれないと想像したのだ。 平山さんの部屋には本とカセットテープと布団、となりの
誰かにお茶を出して話を聞くために生まれてきたならそれでいいわ、と言ったのは誰だったか。先日、波瑠と橙子はケーキ屋に行ったらなにを選ぶか、という話をしていた。波瑠は迷ったらチーズケーキ、橙子はショートケーキ以外で特に決めていない。 食べたケーキの記録があれば、この日はモンブラン、あの日はガトーショコラと、決まってないなりにある種の傾向が見えてきたかもしれない。好きなの選んでいいよ、と初めて親に言われたときから、この五十年近く、こうしてコーヒーしか頼まなくなっても、ケーキ屋でケ
おいしい文藝『こんがり、パン』を読んでいる。先日行った映画館の棚で見かけ、図書館のリサイクルコーナーでもらってきた。まず江國香織の「フレンチトースト」を読み、その甘さに打ちのめされる。 そこに描かれた振舞いは容赦ない甘さだった。夢中で、愉しく、羽目をはずす恋と甘いフレンチトースト。この本はアンソロジー本だが、さまざまなパンがならぶパン屋だとすると、江國さんのパンは飛びぬけて甘く、それはもうパンではないものだった。 甘さのことを考えていたら、この短歌が浮かんだ。わかりにくい