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「自責思考」で自分に吐く嘘

こんにちは、"dawn"です。
私の投稿に興味を持ってくださり、ありがとうございます。今回は、直近の投稿で個人的にホットな「嘘」というテーマに関連して、「自責思考」という自分に対する嘘について書いてみます。

改めて「自責思考」とは?

取り扱い注意の「自責思考」

改めて「自責思考」とはどういう考え方でしょうか?ビジネスの文脈では以下のように定義されることが多いです。現状を打破して前向きに行動するために必要なマインドセット、というイメージですね。

自責思考とは、物事に何らかの問題が発生したとき、その原因が自分にあると考え、問題の原因を探る思考のこと。

自責思考とは?【うつやストレスの原因】改善方法、他責思考/カオナビ

これ自体、違和感はないのですが、ともすると歪曲されやすいというか思考停止の温床になりやすいなと思うところがあります。というのも、何でもかんでも原因を自分に求めるのは、それはそれで違うよねという話です。

とりあえず全部自分のせいにしたら殊勝で正しそうに聞こえるし、自らの非を認めることで、それ以上周囲からも自分からも責められにくくなる。自分が悪いって早々に結論づけてしまえば、それ以上考えなくて済む(=楽になれる)という心理構造があるのです。

もちろん、健全な「自責思考」であれば、行動する原動力になるし、大切なマインドセットだと思います。ですが、場合によっては、それが歪められて呪いになってしまうこともあるんです。

「自責思考」で自分に嘘を吐く、呪い

最たる例は、自己効力感を持てない事柄に「自責思考」を当てはめてしまうケースです。自分の手には負えないと思ってることなのに、自分のせいと言い聞かせている状態。周囲が当人にそう考えさせていることもあれば、自らそうしていることもあります。

でもそれは、嘘です。

自分で自分に対して吐く嘘。

そんな場面では大抵、目の前の現実を変えられない訳ですから、物事は悪い方に向かいます。そして、心のどこかで「こうするしかなかったんだ。自分のせいじゃない。」って思ってしまう。
そのくせ悪い結果に対して、悔しくなったり悲しくなったり、いっちょ前に傷つく。そんで、自分が嫌になって苛立ってみたり。
自分で書いておきながら耳が痛い。。。

これは結局、被害者面してるだけで「他責思考」の状態です。

本心では腹落ちしてないのに、「自分が悪いから」とそれ以上責められないように予防線を張り、思考停止して楽をしようとしているんです。
自分で変えようのない事柄を盾に、変わらないことへの免罪符を作っている。そして、何も変えずに済む立ち位置で楽をしようとしているんです。

アドラー心理学の目的論に沿って解釈するとこのような整理になります。自分が仕事でしんどかったときは、このパターンにハマっていたと思います。

表面的には自分が悪かったことにして、自分に言いきかせていても、本心ではそう思ってない。この嘘はボディブローのように心にダメージを与え、強い罪悪感をもたらします。自分に嘘をついて楽をしようとしている、その後ろめたさは自分自身が一番よくわかっている訳ですから。この苦しさが呪いとなってしまうんです。

そんなときって大体、朝起きて身体が重いんですよね。本心では違うって思っている事柄に蓋をしている。現実に向き合いきれず、頭がぼーっとする。気持ちが億劫になる。私にも過去に身に覚えがあり、思い出すと気分が暗くなります。

「自責思考」を考え直してみる

ここまで考えたとき、冒頭の「自責思考」の定義は、間違ってこそいないが、ちょっと補助線が必要だなと感じます。今回のメインテーマとして、そこを深堀りしていきます。

「自責思考」とは「結果を100%受け入れられる」こと

私は、本当の「自責思考」とは「結果を100%受け入れられる」ことだと考えます。自分が関わっていることや、取り組んでいることに対して、どんな結果になっても受け入れられることです。

自分の人生において、どんなに自分の手に負えない出来事があっても、それによる結果を引き受けるのは結局は自分でしかありません。天災などの例外を除けば、現実世界の多くの事柄は、コントロールは出来ずとも、それと関わり続けるかは自分で決められます。

決めたのが他でもない自分ならば、そしてできることをやりきったならば、たとえ望ましくない結果になったとしても、後悔はないと思えるはず。
もし、後悔が残るのなら、引っ掛かることがあるなら、それは自分で決めずに惰性でそうなったからなのだと考えます。そのことに関わり続けると、腹を括れていなかったからだと。本当の意味で自分の人生に責任を取れていない状態です。先ほどの、自分に嘘を吐いているケースは、まさにそうです。

全てを受け入れられる決意に必要なもの

ということで、本当の「自責思考」とは、どんな結果になってもそれを100%受け入れられること。そのためには、自分の手に負えない事柄を引き受けること含め、それに関わると自分で決めなければならないと考える訳です。

世の中、どこで何をしていても、都合の悪いことは起きるし、それによって望んでない結末を迎えることもある。仮にそうなったとしても、それでも構わないと受け入れる。そう了解した上で、苦しくても好き好んで向き合うと決める。これが「自責思考」だと考えるのです。

でもこれって、正論にはなっても万能な考え方にはならないんですよね。いつでもどんなことに対してもこんな風に考えられたら悩む人なんていないんです。この考えに自然に至れるには、大事な前提条件があるはず。それは何か?

月並み過ぎますが、やっぱり情熱や思い入れになるんだろうなと。自分の人生に対して、その中で起きるあれやこれやに対して、責任を取りきるには相応の情熱が必要です。思い入れがないと無理。

そして、それを見つけるには自己理解が必要です。自分はどんな人物でありたいのか、何に時間や労力を注いでいたいのか、何に対してなら腹を括れるのか。その自己理解が前提にないと、いつまで経っても何にも責任を取れないと思うのです。自分に覚悟があろうがなかろうが、世の中は動き続けて何かしらの出来事が目の前に起き続ける訳で。。。

健全な「自責思考」に至るために問う

冒頭の話に戻ります。では、「自責思考」が呪いとなり、思考停止になってしまっていたらどうするのか?能力や努力が足りないとか、マインドセットが間違ってるとか、問題を単純化して思考停止してしまっていたら?

自分がその事柄に関わり続ける情熱を持てるのか、再確認しなければなりません。自分に問い直さなければ。。。!

もし答えがイエスなら。この先、自分にはどうにもならないことで最悪の結果になっても、それを100%受け入れると決めなければいけません。その上で、現実的に自分にできることに全集中する。ここで初めて、直感的に想像される「自責思考」が成立します。

もし答えがノーなら。今抱えてる情熱を注げられない事柄を手放す。自分で責任を取れないことに惰性でしがみつく方が、自分も周りの人も不幸にする。他の、情熱を注ぎ、腹を括れる事柄に関わった方が良い。それは決して逃げることではないと思うのです。

如何でしたでしょうか。
今回の記事は、私自身の自戒を込めまくりながら書きました。

私も自分なりに、情熱を注ぎたい事柄を持っているつもりです。でも、自分の人生で関わっている事柄をそこに紐づけられているかというと怪しくなるときがあります。「自責思考」を、自分に嘘を吐く材料ではなく、自分の人生に責任を持つ生き方として捉えていかないといけないなと思う今日この頃でした。

ここまで読んでくださってありがとうございます。
また、別の投稿でお会いできたら嬉しいです。ではまた!

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