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ゴルフの歴史【Ep5】史上最強の親子と全英オープンの誕生


このシリーズではゴルフ史を紹介しています。
ただの趣味翻訳ですがお楽しみいただけたら嬉しいです。

画像の出典は画像下に、
参考資料は最下部にまとめています。

前回までのお話はこちらのマガジンからどうぞ
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◆全英オープンのはじまり

クラレットジャグとチャレンジベルトのレプリカ
ILLUSTRATION: GETTY IMAGES

1860年10月、スコットランドの西海岸にあるプレストウィックで、初のメジャー大会となるプロ選手権がおこなわれました。優勝賞品は銀のメダリオンの刺繍が入った赤いモロッコ革ベルトというユニークな賞品で、3連覇を果たすとそのベルトを永年所有できるという規則がありました。(画像の赤いベルトは当時のものを再現したレプリカです)

この初のメジャーに出場者したゴルファーはわずか8名。優勝スコアはウィリー・パーク・シニアの174(36ホール)、次点は2打差の176でオールド・トム・モリスという結果でした。

初年度の成績が比較的ハイスコアだっため、この結果を見た多くのアマチュアゴルファー達は、「自分たちの方が良いスコアを出せるのでは?」と翌年の大会に向け続々と参加の意志を表明しました。

そのため、翌年からこの大会はオープン選手権へと変更されたため、これが全英オープンのはじまりとなりました。


◆最強の遺伝子

続く翌年1861年の大会で優勝したのはオールド・トム・モリス(別名:トム・モリス・シニア)です。1862年には、ウィリー・パークを13打差で破り、これは現在でも全英オープンの最多ストローク差優勝記録として破られていません。

オールド・トム・モリスは、7年間で4回全英オープンを制し、1867年には46歳と102日で最年長チャンピオンの記録を打ち立てました。この記録は現在も破られていません。

しかし翌年の1868年、彼の支配的な強さは世代交代を迎えます。

若干17歳だったオールド・トム・モリスの息子であるヤング・トム・モリスが最年少優勝者となり父を打ち負かしましたのです。

ヤング・トム・モリスは、続く1869・1870・1872年の大会も優勝し、4大会連覇を成し遂げます。父が偉大なゴルファーであっため、彼の功績はより際立ったものになりました。


◆オールド・トム・モリス


ここで少し、オールド・トム・モリスという人物について話しましょう。


オールド・トム・モリス(以下トム)は、セントアンドリュースにある織物職人の家の7人兄弟の6番目の子供として生まれました。彼の父親や祖父は代々リンクスでキャディをしていた経験がありましたが、織工でありながらゴルファーでもありました。

そんなゴルフ一家の中で育ったトムは、幼少期からゴルフという刺激的なゲームに引き寄せられていきました。

セントアンドリュースという街は、煌びやかな中世の最盛期から、数世紀の間に荒廃した貧しい街へと変わり果ててしまいました。しかし、ヒュー・ライオン・プレイフェア卿による「美しい住宅、美しいゴルフコース、人々が滞在できる美しい場所を持つゴルフの都市に!」というスローガンの町おこしにより、街はかつての賑わいを取り戻していきます。

トムが育った当時は、多額の資金が町の復興につぎ込まれ、町は変革期を迎えていました。

町は潤い、紳士たちがリンクスでプレーするようになったため、町の若い男たちがキャディの仕事をする機会が増えました。当時、織物産業は急速に衰退していたことや、ゴルフが社会的に重要視され始めていたこともあり、トムはキャディを生涯にわたる自分の仕事にしたいと考え、ゴルフの道へ進むことを決意します。


アラン・ロバートソンとの出会い

右手前で屈むのがアラン、その奥がトム・モリス

そして、1841年20歳のとき、トムはセントアンドリュースのリンクスの管理人の下で見習いとして働き始めました。そこで、後に盟友となるアラン・ロバートソンに出会い、彼の下でゴルフボール作りを学び始めます。

アランはトムより5歳年上で、トムはアランから多くのことを学び、アランもまた彼と時間を過ごしゴルフの腕を磨いていきました。兄弟のように親しくなった2人は、エキシビジョンマッチでは負けなしの最強のペアとして名を挙げるようになります。

やがて彼らの出場するチャレンジマッチは、紳士達の間で一気に人気が高まりました。このチャレンジマッチとは、プレーヤー同士が賭け金をかけて1対1の試合を行う形式で、各プレーヤーはバッカーと呼ばれるスポンサーから資金援助を受けていました。このマッチは、瞬く間に大観衆イベントとなり、ゲームの知名度はさらに高くなっていきました。

1848年に、トムがアランとの約束を破り、ガッティボールを使用したことで大きな口論になり、トムがアランの店を辞めたことは有名ですが、実はその後、2人はすぐに仲直りしています。

2人は世界最高のゴルファーであり、高額の賞金を稼ぎだす最強のチームであったため、お互いの利益を考え和解したと言われています。当時の一般人の4、5年分の給料に相当する賞金が出る試合も行われていました。


プレストウィックへの移住

1851年、トムと妻ナンシーは、まだ生まれたばかりのヤング・トム・モリスを連れプレストウィックへと移りました。これは、アランとの不仲がきっかけになっただけでなく、彼が生涯を通してお世話になったバッカーの、ジェームズ・オギルヴィ・フェアリーという男の援助によって実現しました。

プレストウィックでは、グリーンキーパー兼クラブの使用人に就任したトムですが、その優れたコースデザインの才能で見事な12ホールのコースを設計しました。このトムのコース設計の技術は、後年、セントアンドリュースのオールド・コース、カヌスティ、ミュアフィールド、そしてイギリスとアイルランドにある何百ものゴルフコースの改修に使用され、世界中の人々に影響を与えました。

彼の手法は、リンクスのキーパーとして「この土地はどのようなコースに適しているか、どのように改善できるか」と考えることから始め、そこから徐々に展開していったんだそうです。


国民的スーパースター

トムの最大のバッカーであるフェアリーは、ロイヤル&エイシェントゴルフクラブのキャプテンを務めていました。トムはフェアリーのバックアップの下、セントアンドリュース、マッセルバラ、プレストウィックでのチャレンジマッチに参加していました。

当時のトムのライバルの1人に、マッセルバラ出身のウィリー・パークがいます。大胆で生意気な性格だったパークは、トップ選手に次々と勝負を挑んでいくスタイルですぐに注目の選手として名を挙げました。

ウィリー・パーク・Jr

これらの試合には、現在で言う1,400万円を超える出資金が集められ、これより高額の賭けをしていた人達もいたと言われています。当時のゴルフの試合は、ただの娯楽ではなく、地方自治体にとって大きな収入源になる重要なイベントの1つになっていました。中でも特にトム・モリスの試合は全国紙に取り上げられたため、その人気は国民的なものになります。

トムはウィリー・パークのことを「今までゴルフクラブを握ったことのある人類の中で、間違いなく最高のゴルファーの1人になるだろう」と語りました。およそ25年にわたるライバル関係にあったウィリー・パークをとても尊敬し大切にしていたことが分かります。


アランの死と全英オープンの誕生

The Gurdianより

アラン・ロバートソンは1859年に44歳で亡くなり、その死はゴルフ界に衝撃を与えました。

翌年、1860年5月、アラン・ロバートソンのような最強のゴルファーを決める試合をおこなうため、トムはプレストウィックのメンバーに相談します。そしてその後、フェアリーとプレストウィックの委員会は、事実上最初のオープン選手権となる全英オープンの開催に向け動き始めました。

大会は、ストロークプレイ方式で行われ、3ラウンドを累積し最小ストロークでまわった選手が優勝するという、当時としては非常に珍しい競技形式でおこなわれました。また、3回連続で優勝した者は、チャンピオンベルトを個人所有できる規則も設けられました。

ホストプロであるトムと、その他7名のプロを招待することで、選りすぐりのゴルファー8名によるオープン選手権が開催されました。

トムが設計し、トムが所属するコースで開催された大会ではありましたが、彼にとっての最大の脅威は、ライバルであるウィリー・パークの存在であったことは間違いありません。

プレストウィックのメンバーからの大きな期待もありましたが、トムにとって何よりも重要だったのは、この大会で優勝者に与えられるタイトルが、かつてアランのタイトルであったということです。

親友アラン・ロバートソンの称号を自分が守らなければならないと感じていました。かつてないほどの大きなプレッシャーに襲われたのかもしれません。

トムは好調なプレーを見せましたが、最後の数ホールで、トラブルに巻き込まれスコアを落としてしまいました。パークとトムの間で両者一歩も譲らぬ攻防戦が繰り広げられました。しかし、最終的に勝利の女神が微笑んだのはマッセルバラ出身のパークです。わずか2打差を逃げ切っての優勝でした。この結果にプレストウィックの人々は大きく失望しました。


タイトルの奪還

トムは周りの期待に応えられず、メンバー、クラブ、アラン、家族全員を裏切ってしまったと傷心しましたが、それが彼の決意をより強固なものにしました。次の試合ではアランのタイトルを守るのではなく、ウィリー・パークからタイトルを奪い返すのだと。

トムとパーク、最高のライバルによる争いは続き、彼ら2人が最初の8回の全英オープンで7回のタイトルを奪い合いました。さらにトムは1860〜1864年までに3回の優勝を飾ったため、国民的なセレブリティとして社交界での認知度をさらに高めていきました。

全英オープンは1860年の開催からわずか7年で、スコットランドのスポーツカレンダーだけでなく、英国のカレンダーにも記載されるようになり、やがてギャンブル報道でも大きく取り沙汰されるようになりました。

1873年の全英オープンは、初めてプレストウィック以外の場所、セントアンドリュースで開催されることになりました。

トムは、全英へ向けて、オールド・コースに相当な改修を行いました。トムの代表的なグリーンキーピング技術である「トップドレッシング」は、現在でもコースメンテナンスの技術として使用されています。また、トムが全英へ向けコースの難易度を上げるためにバンカーを増設したことが「戦略的コース設計」の誕生につながったと言われています。現代のゴルフ競技でも確実に使用されているデザイン形態の1つです。



◆ヤング・トムの誕生

The Openより

オールド・トム・モリスの息子、ヤング・トム・モリスが初めて全英オープンに出場したのは14歳でした。この先彼が残す輝かしい功績を、このとき誰が想像できたでしょう?

1851年4月20日、ヤング・トム・モリスはセントアンドリュースのゴルフ一家のもとに生まれました。まだ赤ん坊の頃、父の仕事の関係でプレストウィックへ移り住みます。

父がプレストウィックのグリーンキーパー兼専属プロとして働いていたため、ゴルフは彼の人生そのものとなります。そして、13歳を迎えた年、センドリュースで開かれた親善試合で、彼は父であるオールド・トム・モリスを打ち負かし、その才能を世に知らしめたのです。


世代交代

ヤング・トムは、ゴルフ界で前例がないほど素晴らしい才能を持った選手だったと言われています。その恵まれた体格から繰り出されるのは、パワーゲームだけではありませんでした。トラブルショット、リカバリーショット、ショートゲームまでマスターと呼ばれるほどの総合的なスキルを持っていました。また、高い弾道のピッチショットを生み出したのは、このヤング・トムだと言われています。

1870年、彼が大会3連覇を遂げ赤い革ベルトの永年所有権を手に入れた年、モンスターホールと呼ばれる570ヤードの1番ホールをわずか3打で上がりました。これは現在でいうダブルイーグルに相当するスコアだったと言われています。二位に12打差をつけた149という当時としては驚異的なスコアで圧巻の優勝を飾りました。

翌年の1871年は、前年の優勝者であるヤング・トムが持ち帰った赤い革ベルトの代わりになる新しい優勝賞品が提供されなかったため全英オープンは開催されませんでした。

その翌年の1872年、セントアンドリュース・マッセルバラ・プレストウィックの3コースが共同で、クラレット色(赤ワイン色)の銀製の水差しを優勝賞品として提供したことをきっかけに、全英オープンのローテーション開催が始まり今日まで続いているといいます。

そして、この1872年に4度目の優勝を手にしたのが、またもやヤング・トムです。

父、オールド・トムがゴルフのありとあらゆる分野で競技の繁栄に熱心に働き続けた一方で、息子のヤング・トムは選手としての真のスーパースターになりました。ヤング・トムは父親とともに、スポーツ界の注目の的となり、観客や紳士たちに愛される存在となりました。

父オールド・トムとのチャレンジマッチでは、ヤング・トムの活躍を一目見ようと、何千人もの観客が国中から訪れたんだと言います。こうして、スコットランドは彼に魅了され、ゴルフ人気はどんどん高まりました。

しかしヤング・トムの輝かしいキャリアは長く続かず、物語は残酷な結末を迎えることになります。


愛する家族

この物語は、ゴルフの長い歴史の中でも最も悲しい出来事の1つと言われています。

1875年の9月、セントアンドリュースのフォース湾を渡ったノース・バーウィックで、モリス親子とパーク兄弟は大金を賭け、ゴルフを楽しんでいました。

18番ホールのグリーンにたどり着くと、オールド・トム(父)は電報を受け取ります。父は息子に理由を知らせず「今すぐここを出る」とだけ伝え足早にコースを去りました。

ヨットで家へと向かう道中、父は息子に、彼の妻と生まれてくるはずだった子供が出産に伴う事故で亡くなったことを告げました。

まだ結婚して1年、幸せの絶頂にいたはずの24歳の青年にとって、現実は信じられないほど絶望的なものになりました。

その後、ヤング・トムは2回のラウンドをするものの、全英オープンを4回制した実力がありながら、この若き才能は現役から退くことを選択します。

同年のクリスマスイブ、彼は愛する家族の後を追うようにこの世を去りました。死因は肺炎だとされていますが、愛する妻と天から授かった新しい命を1度に失った彼にとって、この世は1人で生きるにはあまりにも残酷な世界だったため、生きようとしなかったのではないかと言われています。

セントアンドリュースの墓地にはヤング・トムの大きな石碑が建てられています。そこには、「トム・モリスの息子トミーの記憶に……数えきれないほどの友人とゴルファーが深い哀悼の意を表している。彼は優勝ベルトを3回連続で獲得し、ライバルもなく嫉妬されることもなくベルトを自分のものにした。彼の多くの愛らしく友好的な人柄は、彼のゴルフの偉大な業績と同等に広く認められている」と書かれています。

父トム・モリスは息子より33年長生きし、晩年は、彼の故郷であるセントアンドリュースに戻り、ロイヤル&エイシェントゴルフクラブ初の専属プロとして活躍しました。1896年には、75歳で最後の全英オープンに出場しています。

長い灰色の顎髭に、ツイードキャップを被り、パイプを咥える彼は、18番グリーン脇に佇む彼の店を通り過ぎるゴルファーなら、誰もが知る存在として愛されました。



◆オールド・トムの後世

ヤング・トムを亡くし、それ以前にも子供を亡くしていたトムにとって、自分の子供たちを全て自分の手で埋葬しなければならない悲しみは、恐ろしく重く彼の心にのしかかったことでしょう。

そして妻、ナンシーも58歳の若さでこの世を去りました。それでもトムは、できるだけ多くのイベントに参加し、気丈に振る舞ったと言います。彼には家族を失った悲しみを埋める時間が必要でした。

トムのキャリアはその後も続きましたが、年をとるにつれ、プレーもかつてのパフォーマンスを失っていきました。とは言え、彼のゴルフはいつの時代も素晴らしく、70代になっても現役の優勝者を負かすことさえありました。

そして、彼は1860年〜96年までで36回の全英オープンに出場しながら、コースの設計にも精力的に取り組みました。


こうして、オールド・トム・モリスは1908年86歳で亡くなりました。

彼が私たちに残した遺産は、当時の彼が想像できなかったほど偉大なものです。時代に合わせて年をとりながら、ゴルフの発展における、ほぼすべての局面を見届け、影響を与え続けたのです。彼は、多くの偉業を成し遂げた数少ない人類の1人と言えるでしょう。

また、あまり知られていませんが、オールド・トム・モリスは、女性もスポーツをプレーする権利があるとして声をあげ、ゴルフを紳士のスポーツからより広い層へ開かれたスポーツにするため尽力した人物でもあります。


全英オープンの歴史と尊さが伺えるお話でしたね。涙涙涙

続く…

参考書籍・サイト

The Open
・The Story of Golf (書籍)
・The Colossus of Golf(書籍)
WSJ


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