ペンギンの行く先は無我

・駅のホームでぼーっと考えごとをしていて、ふと気がつくと私の後ろにちいちゃい列が発生しているやつを、年1くらいのペースでやってしまう。お並びのところ申し訳ないんですが、ここ電車のドアの位置じゃないです。
私を信じて着いてきた民衆が可哀想だ。早いところ全ての駅にホームドアを作ってあげて欲しい。

・何もない場所に列ができてしまう集団心理は愚かであり、同時に面白いとも思う。人間も蟻とかと同じなんだな、って。「意思」ではなく「反応」で過ごしている時間がある。
無意味の列を作ったことがない者のみ私たちに石を投げなさい。いっぱいいそうだね。私の後ろにうっかり並んじゃった人たちもまぁ、石投げてもらって良いです。

・どこにも繋がらない列のファーストペンギンをやるのは、徒に人間の心理を弄んでいるみたいで悪徳としての純度が高い。

・そもそもどうして私はドアのないところに立ってしまうのか。考えごとをしながら歩いているとどうもその辺りの記憶がない。
後ろの人に申し訳ないという気持ちはあるが、その申し訳なさもすぐにケロリと忘れてしまう。


・昨日は他に、
♪右靴下裏返し事件
♪チャック全開という"古典"
の2本をやりました。
チャックに関しては、家に帰ってトップスを脱いだ時に気がついた。ということは、トップスの長さのおかげでご開帳は回避できていたということ。
神に感謝するとともに、服の下で出てるって露出狂みたいで本当に最悪。


・ひょんなことから、というか完全にその場のノリで、来月お客さんの前でピアノを弾く機会を得た。ソロじゃなくて伴奏だけど。
これはたいへんなことになったぞ。今月は色々と焦りの月だ。身を削り、自分を追い込まねばならない。


・一流のプレイヤーの演奏する様に対して、「自分に酔っている」などというコメントが見受けられることがあるが、全く逆で、あれは「自我を超越している状態」なのだろう。世界を開示するためには限りなく客観的に世界を俯瞰し、そして没頭する必要がある。
特に、基本的に一人でも演奏が成り立ってしまうピアノは他のどの楽器よりも内向的な性質を持っていると思う。客に身体の正面向けることもあんまないしな。
なんにせよ人が一心不乱に何かに没頭している姿というのは側から見ればもれなくキモい。
おピアノ素人の私ですら練習中はなかなかキモいはずだ。言葉にならない唸り声なんかもきっとたくさん上げている。


・自我を超越せんばかりのキモい姿をステージで人様に開陳することの、是非。はともかく、本質的には異様な光景ではある、とは常々思う。没頭と開陳の食い合わせはシンプルに悪い。
と思ったけど、自我を超えている様を見て大衆も皆で超越した気分になるやつそのものは、多かれ少なかれそういう"手法"として古今東西で行われていて諸々の常套手段でもある。むしろ本質でもあるのか?自我の超越って実は他者の為にあったりする?人間って集団で生きる動物だもんね?

・自我とか悟りとかのあれこれについて今のところ無知すぎるから知りたいなと思ったが、言葉の意味や概念なんかを先回りで仕入れてしまうことで逆に自力では見つけられなくなってしまう領域も存在しそう。もはや自我とか無我とか悟りとかいうワードすら知りたくなかったかもしれない。


・今日が台風の日だということを家を出てから知った。
外に出ている方々は、どうかお気をつけて。

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