交換可能なアイツ

・昨日、大阪〜京都に自分にとって面白そうな場所がなさそうなどと書いたが、めちゃめちゃあるじゃんね。
(なかったとしても、ただ街並みを見ているだけで楽しい)

・手始めに京都国立近代美術館を調べた。私が大阪京都にいる日がちょうど「無」の期間で泣いた。行く日に限って展示の入れ替えをしていることが、よくある。

・人形作家のハンス・ベルメールが好きなのだけど、そういえば京都でベルメールを取り扱ってる古書店をSNSで見かけたことがあったな、と思い、そちらも検索してみたらすぐに見つかった。アスタルテ書房というお店で、マンションの一室にあるらしい。扉を開けるのに緊張しそう。

・にわかもにわかで何の知識もないのだけれど
、四谷シモンさんをはじめとした球体関節人形の展示をコロナ前はよく見に行っていた。中川多理さん等、作品集もいくつか持っている。いつか自分でも人形を作ることが夢のひとつだ。(絵を全く描けないので先にそちらを勉強したい)
人形は愛されるしか能がないところが良い。そんなもの、愛するしかないじゃない。
自分で作る人形は、それはそれは可愛いのだろうなと想像ばかり膨らむ。ちょっとくらい歪にできちゃっても愛してやるからな。

・それはそうとして、人形を自分好みに創るのは罪深い行為のような気もしてくる。人間によく似た姿を造形するとき、その魂をどこまで想定するのだろうか。

・私は普段、見た目で人となりを判断されるのが嫌で、いちばん似合う系統の服を着るのを極力避けている。(初期アバターみたいな容姿をしていて特徴がないので、よく知らん奴に理想を投影されたり、クソザコだと思われてナメた真似をされやすいのだ)
髪の長さや服装を変えるだけで、親しくない人間からの扱われ方がガラリと変わることを身をもって知っている。

・自分の作品である人形に僅かでも人間性のようなものを見出してしまった時、それを彼女ら、彼らのもつ容姿と何か関連付けてしまわないだろうか。
ルッキズムのもとで私を判断して欲しくはない、他人をルッキズムでジャッジするのも、最近のご時世がどうとか関係なく私はそれをしたくない、けど人形は人間じゃないのでそれをしてもセーフ?けど私はこの人形に人間の欠片を見出してもいる………人形、人間、人形、人間………なんてことになって、袋小路の中でぐるぐるしてしまいそう。


・いいからいっぺん作ってみろよって話だ。


・そういう意味でもベルメールの人形が一番好きなのかもしれない。あれはどこまでいっても「虚(うろ)」でしかないから。「あれ」と呼ぶことにも抵抗がない。
「あれ」なのに愛らしく感じてしまうのはやっぱり、愛されることしかできないからか。


・去年、東京都庭園美術館でベルメールの人形の写真が1点だけ展示された。コロナ禍ということもありそれまで静かに見ていたお客さんたちが、写真の前に来るとこぞって「キモ…」「こわ…」と呟くのが印象的だった。私にしては珍しく友人と一緒に行ったのだが、友人もドン引きしていた。


…かわいいもん(`;ω;´)!!!!!!


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