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ダイアリー 23/05/21

ものすごく久々に人前で歌をうたった。
私を知っている人が一人もいないことがありがたかった。


「小中で合唱、大学でアカペラをやっていた」というと、たいがいすごいね、歌が上手いんだねと言われる。
ところが実際のところは全然そんなことはなくて、歌に関して私の自己肯定感は中三〜高校あたりがマックスで、あとは下降の一途をたどる。
社会人になって定期的に歌う機会が無くなると当たり前に声帯も衰え、カラオケに行くたびに楽しさの陰に幾ばくかの虚しさが残る。

歌うことは大好きだ、それはもうきっと、物心ついたころからずっと。
本当に、本当にただ周りの人々に恵まれたおかげで、私は人生の中で歌うことを完全に嫌いになることは無かったし、すべての音楽経験を最後は「良い想い出」にすることさえできた。
でも私は高校卒業以降、今もずっと自分の声を好きになれないままだった。
だから内輪でてきとうに楽しむカラオケには行くものの、誰かの前でちゃんと歌を披露することは進んではしなくなった。

一方で、特にここ一年ほどで「好きな声」はたくさん増えた。
いろんな界隈の新しい世界を少しずつ知ったおかげで、私は以前よりも広く深く、上質な音楽にたくさん出会えている。
私は歌唱力に殴られるのが何よりも好きなので、大好きな声がバチバチに無双する難曲を聴いては、その歌唱力を拝み倒し彼らが歌を仕事にしてくれたことに感謝する。
そこに自分がうまく歌えるかどうかなどまったく関係がなかった。

先日、大好きなアイドルが大好きな音楽番組に出演した。
伴奏用のキーボードとアコギと椅子だけのシンプルな空間で、番組ホストを務める歌手の方とのトークを交えながら、ゲストが他のアーティストのカバーをしたりホストと一緒に歌ったりする、まさに歌唱力に殴られるための番組である。
私はそのアイドルのお顔も雰囲気も人柄も何もかも好きなのだが、中でも一番大好きなのは彼の声なのだ。
加えてホストの方の声も大好きなので、最高のコラボに胸を踊らせていた。

もちろん番組は最高だった。
しかし、ある言葉が刺さりすぎたせいで、パフォーマンスを正直あまりよく覚えていない。
ゲストのカバー曲の感想をホストがコメントする中で、彼は「(自分は元々の声があまり良くないので)元から持っている純粋な声が良くて、そのままの声で良い歌がうたえる人の歌を聴くとついていけないという部分が毎回ある」と言った。
それを聞いたとき、もう客観的にその番組が見られないほど様々な感情が私の中に渦巻いた。

それは、私がいつも心のどこかで思っていたことだった。
その声が大好きで、誇らしくて、尊敬して、でも同じくらい羨ましかった。
歌うことが大好きなのに、いつまでも自分の歌声を好きになれない人間にとって、そのままの美しい声で自由自在に歌える人は憧れである一方で一生辿り着けない遠い存在だ。
そんな人が、今までの私の人生にもたくさんいた。
「良い想い出」と蓋をしたあの日からずっと消えないままの劣等感と孤独感とコンプレックスに、私は気付いてしまった。

それでも、上述したホストの方のように、元々の声がそれほど良くなくても、トレーニングを重ねて「自分だけの声」を見つけ出した人はたくさんいる。
「あの人は元々が良い声だから」という言葉で、私は逃げていた部分もあったのではないか。
もっと努力していたら、私は。

ああ、もっと歌が上手くなりたいな。
人生の半分くらいずっとふんわりと思っているけれど、きっと本当は違う。
私は、自分の歌を、声を、音楽を、ただ愛したいのだ。


今日も相変わらず私の歌はつまらなくて、私は私の声が好きになれなかった。
そして今日も相変わらず世界には私の大好きな声が溢れている。
私もいつか「自分だけの声」を見つけられるだろうか。
その難しさは、大好きな人々が自身の歌に向き合う姿を見れば一目瞭然だ。
彼らも皆、悩みながらずっと模索している。
同じ土俵で語れるものでは到底ないけれど、それでも真摯に歌に向き合う彼らの姿が、きっと私を支える力になってくれる。
それって、とっても素敵なことだ。

新しい世界を知ってから、今日で丸二年が経つ。
最初は一組だけだったのがどんどん拡がり、今や自分のアイデンティティの八割ほどが、その世界のオタク人格で占められていると思う。

大好きな人たちのせいで、目を背けていた黒歴史と負の感情がパンドラの匣から飛び出してしまった。
でも大好きな人たちのおかげで、いま私はそれらと向き合い一歩進み出すことができる。

やっぱり音楽は最高だ。
きっと一生離れられないし、一生もがきながら生きていくのだろうけど、その隣にいつも、大好きなあなたたちを愛する気持ちがあればいいなと思う。

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