見出し画像

私はよく「男の見る目がないよね」と言われる。




2022年が始まって早々、わたしは片想いをしていた人にフラれた。



いや正確には、その人は勝手に近づいてきて、こちらがヨイショと腰を上げいざ向き合おうとした途端、勝手に消えた。




理由は至ってシンプルなもので、その人は彼女がいることを私に黙っていたのだった。


私が気付いてその旨を伝えた途端、目の前から勝手に消えた。



冒頭で堂々と申し上げておいてなんなのだけれど、わたしはそもそもフラれるという土俵にすら立たせてもらえなかった。



別に彼の相手が誰であろうが、どこの生まれでどんな容姿であってもわたしにはそんなことはどうでもよかった。




当時、30歳を目前にして、何をわたしは学生みたいな恋愛で一喜一憂しているのだろうと頭を抱えた。



マトモナ恋愛ガシタイ。




「もっといい人たくさんいるよ」



「いい加減落ち着きなよ」



「本当、男の見る目がないよね」


わたしがよく投げられる言葉たち三選。




その中でも、「男の見る目がない」という言葉は使い勝手のよい便利な言葉で、
それはまるで、「君はいい女なのに悪い男にばかり遊ばれて不憫なやつだね」と一体褒められているのか貶されているのかよく解らないその奇妙な言葉によしよしされて、なんだかすごく助けられた気になった事があった。



それはまぁ大層落ち込んでいたし、色んな人にそう言われて心強かったし、なんならすごく沁みたし、勿論、あんの野郎彼女いたのかよ黙ってやがって殺す!!!とかなんとか、過去のわたしの代表恋愛遍歴の1人、冒頭の片想いしていたその男を呪ったりもした。


しかし、こうやってまた一つ恋が終わり、周りの人に慰めてもらったりやけ酒しながら、ここ最近はなんだか違和感を感じるようになった。



というのも、そもそも男の見る目がないというその言葉は、あまりにも一方的でこちらの都合の良すぎるご意見過ぎやしないだろうか。


本当に、かつてわたしの好きだったその男たちだけが悪かったという話なのか?
本当にあちら側が100%極悪人なのか?
本当にわたしには1ミリも非がなかったのだろうか?

というか本当にわたしは、そんな事をヘラヘラと笑って言えるような立派なご身分なのか?



そして、思い出してみる。


そもそもなんで、わたしはその人たちを好きになったのだろう。


たとえ何処のどなたに、わたしの男の見る目が無いと言われても、思い出せわたし。
皆、わたし自身が「好きだ!」と一瞬でも思った人たちのことだ。



もちろんわたしも世間一般的に言う、人並みの恋愛をして、人並みの結婚をして、子どもを授かることが出来ればなんて幸せなんだろうなと、本当は心のどこかで常々思っている。


大学を卒業してから社会人も7年も8年も経つと、学生時代の友人、会社の周りの人たち、飲み屋で出会って連んでた常連客たちはどんどん既婚者になり、子どもが産まれる。


そして会社の飲み会では、上司からも「君も早く結婚しろ」と絡まれたり、同僚からも「また先輩抜かされましたね」「30までに結婚しないとアウト」だのなんだのと言われる度に笑顔で「そうですよね〜」とか返しながら眉間に皺が寄る。なんだこの地獄空間は。




恐らくわたしの結婚観と周りの結婚観はどちらも正解であり不正解であって、きっと夜通し話し合ったとしても誰ともピタリと一致するはずは無いのだろうなと思う。


だから、こういう場合は「長澤まさみが結婚する歳になったら結婚します」と適当に訳の分からない返答をしてまるっと場を和ませるなり逆に死ぬほどスベらせるなりして終わらす事が多くなった。

(そもそもわたしはまったく長澤まさみと同じ土俵は立てている筈はないのはさておき)



話を戻します。


思い返せば、そんなわたしの生活圏には存在し得ないような真逆の人間に惹かれることが多かった。

職業や収入は兎も角、会社のルールにも縛られず、のびのびと自由に好きな事をして暮らしている姿が羨ましくて憧れて、好きになったのかもしれない。



マッチングアプリや紹介、合コンにも足を運ばせてもらった事もある。


ただ、何かがことごとく違った。


決してそれらのコンテンツが悪いと言いたい訳ではなく、

「年収は1000万」
「趣味が〇〇」
「一緒に飼うなら犬がいい」
「煙草は吸わない人がいい」
「結婚は1年以内を希望」

といった条件の羅列。カチャカチャと自分の好みのタイプのカスタマイズしてそんな型ハメパズルゲームのようなシステムが、わたしには逆に違和感に感じてしまい苦手だった。


マッチングアプリでわたしが出会った男の中には、

「どれほど俺は稼いで有名ですごいか。」
「俺をフるだなんて、いつか必ず後悔するぞ。」

そんな社会的地位だの金持ちだの何かの有名人だの変な俺はすげえ奴だマウントを取ってくるようなえげつのない男もいた。


確かに仕事ができる男性は魅力があると思うし、勿論お金が稼げるというのも能力であるが、そこのオプションに関しては、わたしには本当にどうでも良かった。


わたしにとっての「愛しぬけるポイント」とは、わたしとその好きだと思う人の、お互いの心地のいい自由勝手さと、丁度のいい奇天烈さなのかもしれない。


金持ちなだけで面白くもないマウント男と高級な寿司屋のカウンターでいい日本酒をひっかけるよりも、
貧乏で明日の朝飯の為に魚を釣りにでかけて、どうやったらいっぱい釣れるかなって前日の夜中に発泡酒開けて酔っぱらいながら話をする、丁度のいいユーモアがある男の方がよっぽど楽しく思う。


だからわたしは、世間一般的にはそう写ってしまうかもしれないが、
正直なところ、自分の事は決して「男の見る目がない」とは些かも思っていないということに気が付いた。


むしろあの時は誰に理解されなくともわたしにとっては間違いなく楽しい時間そのものだった筈だ。

こうやって思い出はどんなけ傷ついたとしても綺麗に変化してしまうのも少し腹立たしいが有難いこともある。


もしもちゃんと良かった事も嫌だった事も隅々までキチンと完璧に覚えている能力が携わっていたらきっとずっと喜怒哀楽に振り回されて交感神経もバキバキでさぞしんどいんだろうなぁ。

人間、進化し続け色々な学習が出来るようになったとしても、この「忘れる」という能力がまだまだ欠落する気配がなくて本当によかった。

だからきっとわたしは、何かしら彼らの影響を少しずつ受けてはちょっとずつ忘れて、今の自分の思考や価値観がいつの間にか形成され変化し続けているのだと思う。



そしてその時の自分が、その時好きだったはずの男にそもそもそんな失礼な事が口に出来る権利のあるような魅力的で離すのが惜しいと思われるような素敵な女ではなかったことが、まずわたしの然るべき反省点だ。


そう思うと、無駄な時間を過ごした人なんてひとりもいない。
日々、わたしが嬉しかったり、時々は傷ついたりして成長して、強く逞しく生きてゆけているのは、間違いなくあなた方のお陰でもあるのです。





わたしは男の見る目があった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?