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彼女

少し前、私には彼女と呼んでいる大切な人がいた。

にぎやかな雑踏の中でも、胸にまっすぐ届く凛とした声と、太陽のように眩しい、屈託のない笑顔、彼女は私のよどんだ世界を一瞬で変えてくれた。もう二度とあの頃には戻れないけれど、彼女と過ごしたかけがえのない日々のことは、今も変わらず私の中で光り続けている。

彼女と出会ったのは、とある教室だった。転学したばかりの頃、学内に知り合いが一人もいないために、どの顔を見ても等しく女子大生と見ていた私にも、彼女の存在はひときわ目立って見えた。紺色の布地に白い水玉模様の大きなリュックサックと、後ろで小さく結った黒髪、楽しそうにはしゃぐ声、女子大生と呼ぶには幼すぎる姿は、大勢の学生がひしめく教室でも特別目を引いた。

履修している授業がほぼ同じで、彼女のことはよく見かけたし、それに運命的では?と思ってしまうほど、授業の指定席が隣になることが多く、自然と彼女のことは記憶の中に積み重なっていった。
相手も私の存在に薄々は気づいていたと思う。お互いにそれとなく存在を認めながら、特別何かを話すことはないまま時は過ぎた。

初めて言葉を交わしたのは、グループワークの時。またもや偶然隣の席に座った彼女と、その隣に座った女の子と3人でグループを組むことになった。
面と向かって話すのははじめてで、なんとなくそわそわとしていたら「よろしくお願いします」と、ぎこちなく彼女が敬語を使ってきた。それに合わせて、私もどこかよそよそしい対応をしていたら、彼女の持っていたクリアファイルが偶然にも私の好きな界隈のもので、思わずはっとした。飛び上がるような心境で「それ知ってる」と一言告げたとき、同じく嬉しそうにはしゃぐ彼女と意気投合して、私たちは瞬く間に友達になった。

出会いをきっかけに、私と彼女は毎日と言っていいほど頻繁に交流した。ほぼすべての講義を一緒に受け、休日には平日に話し足りなかったことを話すみたいに、欠かさずラインをした。驚いてしまうほど趣味も合い、同じ模様の二枚貝がぴたりと重なり合うような感覚で、すぐさま惹かれあった。

「女神だね」
たびたび、彼女はそんなことを言った。突飛で、それに言われて嬉しかったから覚えているのだと思う。今はもう、彼女と交わした言葉のほとんどを思い出せない。取り止めのないことばかり話していたせいかもしれないけれど、会話の内容はどれもおぼろげで、輪郭すらまともに掴むことができなくなってしまった。何か私にしてもらって嬉しいことがあると、彼女は弾けるような口調で「女神」と、私をそう呼んだ。もうその声を聞くことはないのだと思うと、途端に寂しさが募る。

授業の後に、ぎりぎりで書き終えた課題を提出するために教授を追いかけたこと、唐突に投げかけられた悩み相談、知り合ったばかりの夏に行った花火大会、背中合わせで眠ったこと、行ったことのないアーティストのイベント、ライブ。

数え切れないほどの思い出に溢れた。すべてが夢のように、鮮やかに目に映っていた。グレースケールの世界が急速に色づいていくような感覚で、孤独を深めていたことなんて忘れてしまうくらい満ち足りた時間が訪れて、幸せだった。

いつかこの日々が目の前から消えてなくなってしまうのではないか、そんな不安もあった。手で掴もうとしたら指のあいだからこぼれ落ちてしまいそうな儚さと眩しさで、きらきらと私のまわりを漂っていた。

彼女に、恋をしていたと思う。はっきりとその感情に名前を付けることを拒んでいたけれど、「恋」と名付けてしまえば、それは紛れもなく恋だった。単に一緒にいるだけで楽しい友だちという存在というより、ふとしたときに隣に寄り添っていてほしいと感じる特別な存在になっていた。

けれど、どこか遠ざけていた。この感情に恋と名付けて、その道に足を踏み入れるのが怖かったし、今の関係が壊れてしまうのが何より嫌だったから。あまりにも不毛な初恋が後を引いていたのかもしれない。同性なんて報われないと。

それなのに、出会ってから一年と少し経ったころ、彼女から告白された。冷え込んだ冬の、夜が深まった頃だった。皮肉なことに、そのときの私には既に異性の恋人がいて、告白を断るしかなかった。「付き合ってると思ってた」という彼女からの一言、私も以前は彼女を想っていたのに、残酷なすれ違いを経て私はいちばんの友達を失った。私たちの間にあった厚い信頼のようなものも、この日を境にぷつりと途切れてしまった。

同じ気持ちでいると気づけていたら幸せだっただろうか、辛く厳しい道を歩むことになっていただろうか。手遅れな思いが次々と心に浮かぶ。もし「付き合っていた」のなら、私が初めて付き合った相手は彼女だったのかもしれない、なんてこともひそかに思う。

もう今は、友達とすら言えないくらい遠い場所に彼女はいる。私にかける声はどこか無機質で、心にとどまることなくするりとすり抜けていく。

人の気持ちは移り変わる。それはきっと誰にも止められないし、そうやって変化を受け入れながら人は生きていくものなのだろう。春を、夏を、秋を、冬を迎えて、少しずつ彼女も、私も、あの頃のことを忘れていく。けれど心の片隅で、そっと願いを込めてみる。

いつかまた、笑い合える日が来ますように。

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