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伝統のような起源のようなものがないとふらふらして落ち着かなくなる

近代になり文化や精神が失われたが、それらへの哀惜が反転して正統に押し上げられたものが伝統だ。

言い換えれば「過去」を失うと、個人や集団はidentityを失う。

根無し草。

それを防ぎ、「偉大な過去と繋がっている」という思いが伝統を作り上げた。

アメリカの福音派、イスラムの過激派、イスラエルの超正統派等々、伝統に忠実でありたいと思う人たちによって構成される。

忠実さはidentityの喪失からの逃避であり、逃避は生存本能に他ならない。

人の行為で自然に生まれ自然に続いたものなど一つもない。

"伝統"もそう。作られた伝統だからこそ価値がある。

伝統も価値も人が後から名づけたもの。

"伝統"は明治時代に生まれた言葉だが、それ以前には"道"という言葉が使われていた。

茶道や華道のそれである。

"道"は儒学が発端。

"道"は道徳や倫理や生き方を示す言葉だが、これも"伝統"と同様で人の手によって作られた言葉。

"道"も"伝統"同様、継続が基本的善として考えられており、そこから外れることを"道から外れる"と表現して悪としている。

"伝統"は、まず言葉から生まれる。

"伝統"は過去の産物ではなく、今も継続している"流れ"と捉えると、新しい言葉が生まれ定着するということは、それが伝統の中に組み入れられたということだ。

目には見えないあるべき過去の総体。

ある言葉がしばらくして消えてしまったら、それは"伝統"に拒絶されたと考えることもできる。

裏を返せば、新しい言葉を取り込んでいく自由と包容力を持っていると言える。

"伝統"は作られてきた。

積極的に意味付けや価値を作らなくても、誰しも作られた伝統のような起源のようなものがないとふらふらして落ち着かなくなる。

"伝統"は生存本能。

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