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キリシタン墓碑についてのちょっとした記録・その二

 この間の記事の、続きを書いていきます。

 資料は『南島原市世界遺産地域調査報告書:日本キリシタン墓碑総覧-企画 南島原市教育委員会/編集 大石一久-』という、大型の総覧を用いて参考にさせてもらっています。

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・宮の本キリシタン墓碑群(南島原市布津町)
ここもその場所を見つけられず、畑に立ちマップの指す方向を空しく眺めて終った。資料には「宮の本キリシタン墓碑群」とあるが、南島原市の指定文化財一覧を見るとどうやら「布津町キリシタン墓碑群」のことだと思われる。ここには共同墓地内に、7基の墓碑が認められる墓碑群であるとのこと。無銘の墓碑がほとんどで、その中に1基だけ半円柱形柱状伏碑があり、その小口面にカルワリオ十字紋の陰刻を持つものがある。

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・深江中学校キリシタン墓碑(南島原市深江町)
ここには1基の墓碑がある。中学校なので場所の特定は容易だったものの、まさか校内に入ってゆくわけにもいかず(平日だったし)場所の確認のみとした。いま資料を開いてみると、次に訪問する「井出口キリシタン墓碑群」のある井出口墓地にあったものを、昭和59年に学習用に移した、とある。そうか。
トップ画像は、深江中学校の裏手から眺めた平成新山及び雲仙普賢岳。

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(右)銘文 元和四年/斉藤かすはる/六月十四日(井出口キリシタン墓碑群)

・井出口キリシタン墓碑群(南島原市深江町)
ふつうの墓地の一角に存在するキリシタン墓碑群。8基あるうちの3基には記年銘、洗礼名、月日が陰刻されている。銘文のあるのにはそれぞれに小さな看板が立っている。上の写真は、銘文の日付を「六月十四日」と書いたが、これは冒頭にあげた資料を見ると拓本をとったところ六月と判読できた、とのことでそうしてある。

罪標十字架碑(井出口キリシタン墓碑群)

ひときわ目立つ、罪標十字架が大きく彫られた碑があった。資料には<墓地専用の礼拝碑である可能性が高く、また初期キリシタン時代におけるキリシタン専用墓地の様相を想起させる貴重な遺品であることから高い資料性をもつ>と書かれている。資料に掲載されている写真と、撮ってきた写真を見比べたところ、配置が違っていた。並べ替えをしたみたいである。
井出口キリシタン墓碑群を後にして、ここからは島原市に入る。

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・崇台寺キリシタン墓碑(島原市萩原)
そろそろひと休みしたいなとおもいつつ、いつものクセでタイミングを逃し続ける。余談であるけれど我が家の母方の祖父は島原の出で、数年前に祖母や母たちと墓参りに来たのを思いだした。今回この崇台寺に向かっていたとき、運転席から目線を横に向けたら母たちと墓参りに来た寺があった。K院という。せっかく来たから二度目の墓参りをしておこうと、車を停めて墓地に入ったんだけれど見つからなかった。記憶の中の場所をぐるぐるまわり、そうでない場所もいちおう見回したけれど見つけられなかった。移したなんて話は聞かないし、あれれと思いながら仕事に戻った。ちなみに前回は本堂を通り抜け、位牌堂で位牌も見た。

半円柱形柱状伏碑(崇台寺キリシタン墓碑)

崇台寺の墓碑は1基、資料にはここの墓地との関係や詳細が不明とある。二重になっている縁帯からさらに奥に向かって深く彫られている様子が見られるけれど、これは手水鉢に転用されていたと考えられる、らしい。彫り下げられた右隅に水抜きの孔が穿たれていて、他にも数点(島原城内及び本光寺など)同様のものがみられるとのこと。ここも、調査時の画像と見比べて境内で移動していると思われる。

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島原城キリシタン墓碑群

・島原城内キリシタン墓碑群(島原市城内)
島原城は改修工事中だった。城内に用事はないので墓碑群にまっすぐ向かった(そういえば天守閣に祖父方の家系図があるとかなんとか)。強い日差しに照らされ、墓碑が並んでいた。

五角柱形柱状伏碑(島原城キリシタン墓碑群)

資料の写真では、墓碑と石造りの碑ぐらいだったのが、いらぬ立て看板が増えていて風情(?)がなかった。もっと景観というのを考えてほしい。そんなことを思いながら資料の中の写真や立地景観を確認していると、どうも位置関係がおかしい。4基の墓碑が集められている場所は西ノ楼(西の櫓)の一角とあるけれど、現在あるのは本丸を挟んで向こう側の端であった。墓碑と同じ間隔で、竹輪みたいな形の石がこれも4つ並び、さらに梅干しの甕が2つ置かれている。何も等間隔に並べなくとも・・・とおもうけれど、私がとやかく言うことでもないか。竹輪みたいなのは、水道管かなにかの遺構と書いてあったように記憶している。

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・またれいなキリシタン墓碑(島原市山寺町)
よく聞く名称のキリシタン墓碑。友人宅(島原市内)に向かう際に通る道のわきに立っている看板を何度も見た。
ここに向かう前、島原城のすぐそばにある喫茶店『青い理髪舘 工房モモ』に行ってみようか、とおもった。何度も名前を見聞きしたことのあるたぶん知られた店である。いい加減ひと息つきたい気もちもあった。行ってみると店休日だったのは縁がなかった。
仕方がないので墓碑の場所に向かっていたら、カフェみたいなのが目に入ったのでそこでコーヒーとピスタチオのアイスをとった。
と、墓碑に関係のないことばかり書いたが、ここの看板を何度も目にしつつも墓碑のある場所まで行ったのは初めてで、かぐわしい堆肥のにおいのする畑をどんどん進んで行った(開けていた窓を閉めた)。畑の中だから車をどうしようかとおもったら、ちょうどいいところに自動販売機置き場に空きスペースがあったためそこを利用した。墓地に入った。

またれいなキリシタン墓碑

さてここは、「まだれいな」として知られていて、ネットや書籍などの情報も、道に立っている案内板も「まだれいな」としているし私もそう認識していた。が、資料によるとその銘についてはこの調査時に拓本をとったうえで「またれいな」であるとしている。これは洗礼名である。墓碑を見てもとうてい判読できないが、正面から見たときに罪標十字架の彫られた内部郭の左隅に彫ってある(マリア像の頭頂部あたり)。

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 「またれいなキリシタン墓碑」を最後に、この仕事を終え長崎に戻った。

 私が今回訪問したのはほんの一部で、この総覧には長崎県55か所(墓碑146基、遺物4点)佐賀県1か所(1点)、大分県8か所(4基5点)、熊本県7か所(14基)、大阪府5か所(8基)、京都府6か所(20基)と、ほか参考のための長崎市内墓地2か所の、計84か所を、編集者である大石一久氏がすべて自身の足を使って訪ねている。それだけでも凄まじいのだが、「またれいな」のところでさらっと書いた拓本については202基分(遺物含む)もとっているし、調査基数全体としてはもっと多い。まさに「総覧」である。
 <その一>の須崎キリシタン墓碑群のところで、調査時期がわかったら書きますとしていたけれど、編集後記に「本書編纂に関し本格的に作業を開始したのは、今から6年前の平成18年の秋であった」とあり、先述のように刊行は平成24年なのことからも、およそ6年間を費やしているとしてよいかと思う。
 軽い気もちで記事にしとこうと、この総覧を(これまで業務上何度か手に取ったことはあったけれど)改めて開いてみると、なんだか妙に知識欲が出てきてしまって困る、というのも変だけれど、読み通すなんていうのは骨が折れるからむやみに欲がでてきてもらっては困るのである。

 大石一久氏とは面識もあるし、今思えば言葉を交わす機会だってあったのだけれど、氏の専門とするこの分野についてきちんと接するチャンスを、知らぬ間に逃してしまったのは惜しいことである。
 機会はたいせつにしないといけない。

島原城(足場)

 ところでつい先日かくれキリシタンがその時代墓碑などに隠したシンボルなどを調べ、それらをひとまとめにした本を貸していただいた。まださわりを読んだだけだけれどとてもおもしろそうでうれしくなる。貸してくださった方はあらゆるanecdote逸話的な話題を提供するのがうまく、毎回刺激を受けて興味が広がるのであれもこれもと欲張りになる。そうやって本やドキュメンタリーなどを追っていて、知識欲というのは一体どうして、そしてどういったところから湧いてくるんだろうな、などとおもった。考えたってしようのないことだけど。

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今日の「ファッション」:非常に薄い生地の、さらっとしたロングスカート(なりワンピースなり)を、直穿きというかペチコート的なインナーなしで穿いていると、風が吹いたときに脚のラインがばっちり出てしまってちょっといやらしい。誰かのそういう姿を見ると、気をつけようと密かにおもう。世の中にはあらゆるところに落とし穴が潜んでいる。

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