ツァーリ夫妻の日記から見るトボリスクからエカテリンブルグまでのニコライ二世一家と護衛兵との関わり

ベイビーは、36°と、ややよく眠る。9 時10分 -10 時間] アナスタシア:預言者イサイヤ38〜42。ベイビーと一緒に座って、カードで遊んだり、仕事をした。12時15分-1時マリア:シラの子イイススの叡智書18~26。昼過ぎにヤコブレフが来た。私が受難週に教会行きについて話したいと望んからだ。それどころか、政府(ボルシェビキ)の命令で、私たちを全員連れて行かなければならないと言ったのです(どこへ?) ベイビーが重病であることを知った彼は、N<ニコライ>だけを連れ去りたいと願った(嫌なら武力を行使せざるを得なかった)。私は、病気のベイビーに付き添うか、同行するかを決めなければなりませんでしたが、一緒に行く事になった。もっと必要とされるかもしれないし、どこへ何のためか(モスクワをイメージしていた)知らないのは危険すぎるから。恐ろしいほどの苦しみ。 マリアは私たちと一緒に来ています。オリガが赤ちゃんの世話をし、タチアナが家事をし、アナスタシアが励ましてくれる。ヴァリヤ(ドルゴルーコワ)、ニュータ(デミドワ)、ボートキンを連れて行く。
10 時30分一緒に、全員とお茶を飲んだ後、みんなとお別れ。子供たちと一晩中過ごす。ベイビーは眠った。3時に私たちの出発前に、彼のところへ行きました。午前4時30分に出発。大切な子供たちを残していくのは恐ろしいことです。3人の歩兵が同行。
1918年4月25日 アレクサンドラ皇后の日記 

朝四時、愛する子どもたちと別れを告げて四輪馬車に乗り込む。私はヤコブレフとアリクスはマリアと、ヴァーリャはボートキンと。使用人で同行するのはニュータ(アンナ)・デミードヴァ、
チェもドゥーロフとセドネーフ、歩兵(ライフル兵)八人と護送騎馬隊(赤軍の)が一〇人。寒い天候でいやな風が吹き、走行はきわめて困難で、氷結したわだちでひどく揺れた。相当な水深のところでイルティーシ川を渡る。四度馬を取り替え、最初の一日で一三〇ヴェルスター(距離の単位、ほぼキロメートルに等しい)を走破。イェーヴレヴォ村に到着して一泊。大きく清潔な家に入れられ、持参したベットで熟睡。
1918年4月26日 ニコライ二世の日記 

4時に起きて、お茶を飲んで、荷造りをして、5時に遊歩道を歩いて川を渡り、それからフェリーに乗りました。出発までに7時間半もかかってしまった。コミサールがそわそわする、走り回る、電報を打つ。 美しい天気、道路は不気味だ。また馬を6回ほど乗り換え、我が騎兵はもっと多く、両日とも同じ人たちだった。12時間ほどでポクロブスコエ村に着き、馬を乗り換えました。私たちは、友の家(ラスプーチン)の前に長い間立っていました。窓の外を見る彼の家族や友人たちの姿。ボルキ村では、素敵な農民の家でお茶を飲み、自分たちの食事をした。村を出ると、突然セドフ通りを見かけた。今回もキャリッジを変更しました。今回もいろいろな事件がありましたが、昨日よりは少なかったです。村の学校に立ち寄り、兵士と一緒にお茶を飲んだ。ボトキンはひどい腎臓の痙攣を起こして倒れた。暗くなると、私たちのトロイカの鐘がつながり、美しい夕焼けと朝がやってきました。猛スピードで駆け抜けていく。チュメー二に近づくと、騎兵隊が鎖で囲んで駅まで護衛してくれ、可動橋で川を渡り、暗い街中を3ヴェルスターほど走った。深夜、列車に乗り込んだ。朝、子供たちに手紙を書く。
1918年4月27日 ニコライ二世の日記

五時に出発しなければならないので四時に起床したが、ヤコブレフが寝過ごしたため出発が遅れる。しかも彼は置き忘れた包みの到着を待っていた。板の上を歩いてトボール川を渡る。渡船を使ったのは、対岸近くのほぼ一〇サージェン(二〇メートル余)だけ。ヤコブレフの副官グザーコフに紹介される。チュメー二までの警備全体を取り仕切る人物である。夜が明けると快晴で非常に暖かくなり、道がぬかるみはじめたが、それでも揺れがひどく、アリクスが心配でならなかった。開けた場所ではほこりっぽく、森の中は泥濘。ポクローフスコエ村で馬を替えるため、ちょうどグリゴーリイ(ラスプーチン)の家の反対側で長い間止まっていたので、窓からのぞいている彼の家族全部の姿を見えた。最後の馬のつけ替えはボールキ村だったが、そこでボートキンの腎臓がひどく痛みだし、家のなかで一時間半ほど寝かされてから、ゆっくりと出発した。われわれは村の学校の校舎で側近や歩兵たちとお茶を飲み、軽い食事をした。あらゆる軍事的警戒措置をとりながら、最後の区間をゆっくりと走り、美しい月明かりのもと、九時十五分チュメー二に到着。市内に乗り入れるさいは、まるまる一個中隊の騎兵がわれわれの馬車の列を取り囲んで走った。あまり清潔ではないが、とにかく列車に乗り移れてうれしかった。われわれ自身も、荷物も、ひどくうすぎたなくなっていた。着替えもしないで一〇時就寝、私はアリクスの上部の寝台に、マリーアはニュータは隣のコンパートメントに。
1918年4月27日 アレクサンドラの日記

みんなよく眠った。駅名から列車はオムスク方向に向かっていると推察。オムスクの先はどこへ連れて行かれるのか、あれこれ憶測しはじめる。モスクワか、それともヴラジヴォストク?コミサールたちは、もちろん何も言わない。マリーアはしょっちゅう歩兵たちのところへ出向いた。彼らのコンパートメントは車両の端にあり、そこに四人が入っている。残りは隣の車両。ヴァガーイ駅に停車中、一一時に昼食。非常に美味。日曜で人出が多いので、各駅で窓のカーテンを下ろす。冷たいザクースカとお茶ののち、早めに就寝。
1918年4月28日 ニコライ二世の日記 

朝、オムスクがわれわれの通過を望まなかったのだと判明!その代わり、われわれはかなり自由になり、二度も散歩できたほど。最初は列車沿いに、、二回目はヤコブレフ自身とともに野原をかなり遠くまで。みんな元気になる。
1918年4月16日 ニコライ二世の日記 

あの人たち(歩兵?)は彼らと警備兵のために昨日運びまれた簡易ベットで寝ています。
アレクサーンドラとニコラーイの添え書つきのマリーアからトボリスクのオーリガへの手紙(抜粋)1918年5月1日

ニコライ二世の日記とマリアの手紙

アレクサンドラ皇后の日記 



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