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タイの野犬はさみしそうな顔をしている / タイ旅行記②

yan-tsuked

すべての工程が完了しているヤンつけ(ヤンヤンつけぼー)発見。レジに置いてあって、しばらくにらめっこの末カゴの中に入れたらレジのお姉さんにニッて微笑まれた。

ソースもたっぷりくれるよ

はいでた!
でました!これです!
タイといえば屋台で食べれる激うまごはん!
こちら、なんと… 45バーツ!180円!なんやて!!!
180円でこの美味しさを…と思いながら食べていると、本当に日本に帰る理由がプラプラと飛んでってしまうのです。添えてあるスープがね、ほんとにシンプルに鳥の出汁しか入ってないですの顔してて美味しいんだ。

タイの野犬はさみしそうな顔をしている

初めて野犬という存在を認識した時のこと。

去年訪れたラオスで、テラスにいた小型犬がかわいく寄って来た。あまりに普通の犬然としていたので私は何も考えず頭を撫でようとして「死ぬよ?」と友達に止められた。そしてその犬が野犬だということを認識した。野犬ってあの野犬。狂犬病をもってるかもしれないあの野犬。
あまりに普通の犬然としてたの。全然日本で見る感じの、小型犬。狂犬病って日本では淘汰されたと聞くあの狂犬病。目の前のその子と狂犬病が全く結び付かなくて混乱した。

それから、犬を見かけたら首輪があるかないかを瞬時にチェックするようになった。
私にとって犬とは可愛い存在でしかなかった。
そこに「危険かもしれない」が混じり込んだ。
可愛いと怖いが同時に存在する奇妙さをまじまじと体験していた。

(似たような体験に映画ミッドサマーもある。美しい自然・白いナチュラルなお洋服・ケルト音楽で幸せそうな映像と、怖い気持ち悪いの感情が混じって一時期無印良品が怖かった。無印良品の飛んだ風評被害)

そして野犬らしい野犬もいることにも気づいた。
彼らは筋肉隆々としていて一匹でいるより複数でいる。スラムを生き抜いて来たぜ?という顔をしている。強そうだ。噛まれたら一発で死ぬかもしれない。生き抜いて来た場数が違うな顔をしてる。
わたしは野犬らしい野犬がいる道は怖くて避けるようになった。

日本に帰ってもしばらく犬が怖くて、野犬ショックは私に多大な影響をもたらしていた。

今回のタイも野犬コワイ…と思っていたのだけど、実際に遭遇したら思いがけない感情にみまわれた。
宿からの道を歩いていてすぐのストリートに野犬はいた。
首輪のあるなしでなく、野犬かそうじゃないかがわかる。
飼われてる犬とちがって、野犬はさみしそうな目をして、さみしそうな面持ちをしている。そう思った。

私は野犬に触ってはいけないと学んだ。 
噛まれたら感染するからだ。じゃれあってきて引っ掻かれてもアウト。構ってはいけないのだ。
タイの人たちはどうなんだろ?みんなもそうなのではないか…?
そうすると、彼らは誰にも触れられないのだろうか。
触れ合って感じ合うということをしないのか…

という考えがよぎり、そのさみしそうな目が心の深いところにささった。目が合うと、やりようのない気持ちになる。怖いじゃない。目を合わせるのも良くないと言われたけど、そうやって存在を認められることもしてこなかったのか…?と思うと、存在が全体で無視されているのではと、胸の奥が重くなりとても苦しい気持ちになってしまった

実際のところわからないんだけど、実際のタイ野犬事情がどんな風なのかは。全部私の想像だけど。
もしそうだとしたら、なんて、さみしいのだろう
さみしいなんて言葉では表現しきれない感情がわき、私はその感情を見つめることが怖いと思い、そんな自分が珍しく感じた。

存在しているのに存在していないように扱われる。
目と目が合わない。
触れ合わない。温度を交換し合わない。
ただ、たべて、ねむり、いきる。

それは、私にとって考えるのも耐えられないくらい恐ろしいことだった。

宿のベッドで一息ついて考えた。
狂犬病がこの世から無くなれば、すべての犬が誰からでも触られ撫でられ得る存在になるのかな。
そうであって欲しい。
そのベクトルを思い浮かべて祈った。

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