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愛知県憲法集会に参加して

概要

2024年5月3日、憲法施行77周年を記念しての『市民のつどい 憲法とつむぐ未来』の集会が愛知憲法会議主催で、名古屋市の鶴舞公園内にある岡谷鋼機名古屋公会堂にて開かれた。
参加者は主催者発表によると、会場参加者が1600名、オンライン参加者が100名の1700名とのことである。

開会挨拶を行ったのは愛知県弁護士会会長の伊藤倫文氏、昨今の軍事化の流れに抗すること、憲法改正の動きを注視しつつその内容分析の研究を行っている旨が述べられた。

次は、本日のメインイベントその1である、『講談はだしのゲン』演・神田香織である。
ゲンのアジア・太平洋戦争の戦時中の生活から原爆投下の日までが講談として演じられ、その真に迫る語り口によって会場の人々の心を掴み、戦争と原爆投下の悲惨さを呼び起こす語り口は、反戦・反核への思いを新たにさせた。

終了後、20分間の休憩があり、第2部に入る前に自由法曹団愛知支部の伊藤勤也氏の挨拶があり、鶴舞公園敷地内でのビラ撒き・署名活動禁止を取り下げさせた経過の報告があった。

そして、第2部、斎藤幸平氏による『奪い合いの経済から分かち合う未来へ』と題した講演。
社会危機、環境危機が起こっている中、対処療法的な対策が打たれているが、そうではなく、資本主義をこそ打たねばならない。
そのためには、資本主義を前提とした植民地主義・帝国主義的な奪い合いの経済から、コモンやケアにのっとった分かち合いの経済に転換すべきとの旨が語られた。

終わりの挨拶を務めたのは、愛知憲法会議代表委員の杉浦一孝氏。
緊急事態における議員任期延長への策動の批判と、改めて、憲法改正の動きを注視していく旨が述べられ、集会は終了した。

集会終了後には、あいち総がかり行動によるデモ行進があり、「憲法変えるな」「憲法改正絶対反対」「憲法9条世界の宝」「自民党裏金徹底追求」「市民は増税 自民は脱税」「Free Free Gaza」などのシュプレヒコールが名古屋の街に響いた。
鶴舞公園を出て、若宮大通公園まで歩いた。


あいち総がかり行動のデモの様子

会場周辺の様子

鶴舞公園の外では、右翼が街宣車を通して、自主憲法制定や、現行憲法に反対する旨を訴えていた。
そのため、機動隊や警備課の警察官が大挙しており、ところどころバリケード封鎖されているところもあった。

右翼の街宣車と機動隊のバリケード

また、鶴舞公園内では、様々な団体が署名やビラ配りを行っていた。
筆者は国民救援会の支援する免罪事件の署名をし、ユニオン学校が配るチラシを受け取った。

『講談・はだしのゲン』感想

筆者は講談というものを初めて聞く。
この講談は現代講談とでも言えるもので、一人芝居やジャズの要素も取り入れているという。

講談と言えば、日本の伝統芸能であり、普段は座りながら行うものであるが、明治期には辻講談として、街角に立って講談をする文化などもあったそう。
今回の講談は、立ちながらの講談というで、講演台を講談の釈台に見立てていた。
神田氏が、張り扇で釈台を叩いた音は今までで3番目くらいに良い音だったと言うと、会場を笑いの渦に包んだ。

『はだしのゲン』を講談で講演して38年目であるという。
サイパンのバンザイクリフを見たことで、戦争について語ることを決意した神田氏。
漫画『はだしのゲン』については、昨年4月、広島県教育委員会が作成している独自教材『ひろしま平和ノート』から削除されたことを取り上げた。
削除された理由としては、「浪曲」や「池の鯉を盗む」といったシーンの文化的背景を現代の子どもたちに教えることに苦労するからとのことだ。
教師はもっと戦争を教えることに苦心すべきと訴えていた。

講談の内容だが、先にも述べたように太平洋戦争中の広島での中沢家での生活から原爆投下の日の出来事までが語られた。

流れるような口調と、状況説明の無駄のなさ、張り扇で釈台を叩く音で聴衆を惹きつける話術は巧みなもので、原爆投下のシーンなど照明の明暗を効果的に使うことはさながら演劇で、現代の講談とはこのようなものかと大いに楽しむことができた。

また、具体的な絵が一切ないながら、聴衆に情景を思い起こさせ、具体的な悲惨さを聴衆に預けたままで反戦・反核への思いを新たにさせつつ、感動をも巻き起こすといった講談の技術には関心するものである。
正直、私も感動した。

『奪い合いの経済から分かち合う未来へ』感想

この講演もとても興味深く聞かせていただいた。

斎藤幸平氏と言えば、最も売れてる気鋭のマルクス研究者で、『人新世の資本論』を始めとした著書が有名である。
日本人初にして、歴代最年少でマルクス研究最高峰の賞、ドイッチャー記念賞を受賞するなどの功績がある。

講演の内容だが、一言で言えば、気候変動と社会危機を解決するためには資本主義を妥当せねばならず、そのためにはコモンやケアの論理に基づいた経済を構想する必要がある、というものだ。
では、詳しく見ていこう。

人新世とは

人新世とは、もし、人類が滅亡でもして、地底に眠ることにでもなった場合、現代の人類の経済などの活動が、新しい地層を形成することになるだろうということを示す地質学の時代区分の概念である。

つまり、現代の人間のグローバルな経済活動は、それほどまでに地球の気候や生態系を変えているのだ、ということである。

それは、気候危機などの自然の危機にとどまらず、戦争や政治危機、パンデミックといった社会危機をも引き起こすことになる。

現代戦争の原因−気候戦争とは−

現在起きている戦争は、人的、内政的、国際的要因はあるが、気候危機にも基づくものであるというのが、斎藤氏の主張である。
例えば、ロシアのウクライナ侵攻などはその初期の形態であるとのことだ。

どういうことか、ロシアを例にすれば、ロシアでは、農地開拓や不凍港の消滅による交通の利便化などから地球温暖化による影響を歓迎する動きが見られる一方で、永久凍土の氷解により地盤が緩み空港などの現在ある交通インフラが使えなくなるという事態や、永久凍土内の未知のウイルスが外に出てくる可能性というものも秘めていることも現実としてあるということだ。

また、ロシアはEUに対して天然ガスなどの化石燃料を売ることで外貨を稼いでいたという事情もある。
しかし、EUは脱炭素化の流れから、ロシアからの化石燃料依存を脱却しようとの動きもあるようである。
このように、気候変動はロシアにとって全て良いものではないと言える。

ウクライナ問題になるが、現在のEUとロシアの関係では、EUは経済を握られているだけに強く言えない状況があるが、この力関係が脱炭素化で改善されてしまうと、より強硬な態度を取りやすくなってしまう。
そうなる前にウクライナ問題を武力で解決してしまおうおいうのが、ロシアが取った行動の背景にあるというのである。

このように、気候戦争は、気候危機によって生じた国内的、国際的経済関係の変化が戦争の原因になるというものである。

グローバルノースとグローバルサウスの危機

そして、この気候戦争には先進国・経済大国とされるグローバルノースと開発途上国のグローバルサウスとの関係が重要になってくる。

今、世界では、グローバルノースによる、グローバルサウスでのレアメタル採掘やアグリビジネス問題が深刻化している。

例えば、コンゴ共和国によるコバルト採掘では、子どもの奴隷による非常に安価な採掘が行われ、それが回り回ってグローバルノースで、先端機器へと形を変え、高値で取引されるということが起きている。
このように、安価な資本で、高価な商品を販売するのである。

資本主義はこのように儲かる経済を追求する以上、必然的に搾取される植民地国と搾取する帝国とに分断されることになる。

搾取される側の人々は働き口を求め、グローバルノースへと移動していく、そうなると、グローバルノースの人々の間に新興勢力への不満が起こる。
そしてグローバルノースの人々を焚きつけるファシストのような政治家も台頭してくるという。

また、レアメタル採掘は気候危機の対処のために必要というのが問題をややこしくしている。

今まで見てきたように、今現在の資本主義を存続させると様々な危機が起こる。
それに対処療法的な対応しかしていない現在のグローバルノースの人々だが、そのままでは危機は収束するどころか、危機の芽をいたずらに放置することになる、もしくは、促進させてしまうことになってしまう。

では、どうするか?
脱植民地化の視点に立って、資本主義を打倒しなければならないのである。

コモン+イズムとしての「コミュニズム」

ここで出てくるのが「コミュニズム」である。
斎藤氏はコモンの視点をもつべきだという。

コモンとは、誰でも使えるものという意味である。
今の資本主義のシステムは希少性のあるものを生産していくシステムで、コモンのようなものも商品化して、販売し、儲けていこうというものである。

そうではなく、コモンに基づく経済活動を行い、富を一極集中するのでなく、社会に分配していこうというのだ。
各人の働きが各人に分配される社会をつくるのである。

ケアの論理と共事者

また、斎藤氏はケアの論理に基づく、他人や自然への気遣い合い、メンテナンスを経済活動の主軸にすべきとも説く。

そのために共事者という関係性を構築しようというのだ。
ある問題の当事者にはなれなくとも、ある問題について常に考え、行動するそういった関係を大事にしようというものだ。
そのように周りに起こっていることを自分事として考え、連帯していこうと呼びかけた。
気候変動を考えることから、弱い人の立場に立って考えることへ、そして平和を考えることに繋げていこう。

そう締めくくって講演は終わった。

共事者として平和について考える

この講演を聞いて思ったのは、私は平和の問題については共事者の立場からものを見てるのかな、ということだ。
これは、共事者として平和について考えるとはどういうことか?を考えることにも繋がる。

確かに、私は必ずしも戦争の最前線に立って平和運動を展開しているわけではなく、一応まだ平和な日本から声を上げることをしている。

それがままならなくなるかもしれない、というのは確かにそうで、だからこそ声を上げることは重要なのだが、それでも当事者としての言葉に比べればまだまだ弱さというか他人事感を感じずにはいられない。

しかし、それでも関心を持ち、考え、声を上げようと決意し、行動した時、人は共事者になるのかもしれない、と思うのだ。

今、日本では弱者にかけるお金や教育の公助がどんどん切り詰められ、防衛費に使われている。
そして、九州から沖縄の先に至るまでの地域で様々な基地開発とその矛盾が露呈している。
また、アイヌ、琉球、朝鮮、クルド、他外国人の人々が差別されている状況もある。

そんな中、当事者ではない人の運動の場での立ち位置は重要なのだと思う。
当事者ではない人を巻込み、皆が問題を自分事として捉えるようになったとき、社会が変わる瞬間に立ち会えるのだと思う。

この憲法集会はまさに、共事者として何ができるかを考えさせられる集会だった。

筆者は今後も平和のために声を上げていきたい。
読者の皆様、応援、よろしくお願いします。

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