自己紹介① ~父と母と~

はじめてのnoteへの投稿、少しキンチョーしますね。初めましての方も、いつもお世話になっている方にも、僕はナニモノで、あらためて今どんな活動をしていて、どんなところへ向かおうとしているのか、これから少しずつ記していきたいなと思います。

でも今日はそこに行きつく前に、僕自身のルーツを探る旅でもありますが、人生色濃く影響を受けている二人の人、父と母から紹介したいなと思います。

というわけで、目次。


シンプルすぎる目次ですね。笑 まぁ気にせず進みましょう。

①父

父は大学を出て働き始めてから退職するまで、一貫してブリヂストンで働き続けてくれました。実は僕にとっての祖父母の家は福岡県久留米市にあります。そうブリヂストン発祥の地です。実は祖父もブリヂストン、父は三兄弟なのですが、叔父は皆ブリヂストン、かくいう私はブリヂストン幼稚園出身です。笑

父はブリヂストンで加工品事業部(タイヤではなくテニスとかゴルフ用品とかタイヤ以外の製品を扱う事業部)⇒ IT推進本部という経歴を辿りました。最後は僕の記憶ではブリヂストンの全世界の工場を繋ぐシステムの構築に奔走していたはずで、定年間近ほど、忙しくなっていましたね。僕は2005年にドベンチャーに入社して、しこたま働きましたが、父も僕とあまり変わらない生活をしていたように思います。。。。超仕事人間。でも趣味も多才、テニスと音楽(フルート)をこよなく愛し、70歳を超えた今でも、現役で横浜交響楽団の一員として演奏しています。

僕から見た父は、とにかく意志が強く、やると決めたことは必ずやり抜く。習慣の力が凄まじい人です。例えば「起きた後はベランダに出て体操する、スクワットする」と決めたら一日もさぼらずあっという間に1年とかやっちゃうし、「ランニングする」と決めたら、毎日エクセルに自分の走った距離とタイムを記入し続けて、その走行距離を壁一面に張った日本地図上で表していって、あっという間に日本一周しちゃったり笑 まぁエピソードには困りませんw

そんな意志の強い父ですが、印象に強く残っているのは、読書なんですよね。毎週必ず図書館へ行き、2-3冊、本を借りる。通勤時に立ちながら読み続け、家族でどこかへ出かけるときも常に電車の中は読書、そして週末にまた図書館行って、返して、また借りる。これをいったい何年続けたのだろうと思います。

私もわりと若い段階からたくさんの読書に触れてきたほうだと思うのですが、これはまさに父から頂いたgift。

また、父は数学にめっぽう強かったんです。僕が高校3年のときに最後の甲子園予選と試験が重なってまったく勉強しなかったんですよね。確か5点とかとって・・・。そのあと、数学をイチからやり直して勉強する、となったときに、父親が家庭教師してくれたんです。毎週日曜日の夜。しかも一応慶應高校の数Ⅲですよ。一般的にそれなりに難しいわけで、「ようパッと教えるわ」と思いますが、そのときに、衝撃がね、あったんです。

一緒に父も問題集を解いてくれるわけなのですが、忘れもしない衝撃の一言

「勇介、こういう公式ないか?」

って言うんです。

「え?!公式って覚えるものじゃないの?」ってなりません?

公式って、覚えて計算を楽にするもの、から、実は事実の中から法則を見つけ出して、それを万人が使いやすいようにプレゼントされたものなんだとそのときに知ってしまったわけです。この”事件”のおかげで、学ぶということの深さ、本質を知ることの大事さも理解することもできました。いやぁ父親恐るべし。

そんなこんなで原理原則をとーっても大事にする父親でした。

②母

さて、次は母親です。モンスター級の父親の相方である母親はまたモンスター笑 というわけで、母親のエピソードはね。またたくさんあるんです。

まず、僕を30歳のときに産んでくれました。つまり今、72歳です。なのに、未だに教育委員会から仕事頼まれて、学校で荒れ気味のクラスのフォローに入ったり、新米の先生たちの指導・補佐をしたり、不登校の生徒たちのための支援教室に入ったり。もうね、僕から見ても教育者の鏡です。本人は生き甲斐だと言っていますが、もう呼吸と一緒なんでしょうかねw

そんな母ですが、3歳上の姉を産むタイミングから僕が小学校3年になるタイミングまで、10年強、実は休職して子育てに専念してくれました。

なんでもホワイト博士の育児論で語られる「3つ子の魂100まで」をすごく大事に捉えてくれていたようで、「生まれてから最初の3年間、それは親が子に、いちばん大きなプレゼントをできる期間」としていたようなんですよね。その間は、こどもに100%愛情を注ぎたい、というのが母親の考えだったようです。病弱だった僕は特にですが、この頃の母親のおかげで今があるような気がしています。

そんな母も僕が小3になるタイミングで臨時任用の職員として学校へ職場復帰しました。ここから僕の中での母の伝説が始まるわけです・・・。

最初は普通に小学校での職場復帰だったと思うんですがね、あれよあれよという間に中学校が主戦場となり、さらに荒れている学校、荒れている学年、荒れているクラス担任、と。すごい怒涛の毎日になっていきました。本当に、臨任教諭にどこまでやらせんねん!という勢いで。

特に大変そうだった年もあります。家に帰ったらテーブルの上に置手紙だけあって、「今日からしばらく遅くなる」って。どうしてかというと、生徒が事件を起こして少年院に入ってしまって。そこから毎日毎日、母親が通うわけですね。特に親御さんが子どもに対して無責任な態度をとるようなケースは、もはや母親代わりなんじゃないかというぐらい寄り添っていたのではと思います。

特に、よく憤っていたのは、生徒に対してではなく、「親」や「他の先生」に対してでした。母親の言葉は今でも胸に残っています。「あの子たちは愛情が不足しているだけ。」「あの子たちだって、本当に素直で、まっすぐで良い子たちなのよ。」「大人のほうが問題を起こす子に対してちゃんと向き合ってない」これらの言葉はすべて今の僕の土台になっています。

象徴的だったのは成人式の日。若かりし頃にたくさん悪さしたであろう「元不良」たちが、電話してきたり、家に急に来たり。みんな会いたい会いたいって言って母親のとこに来てくれるんですよね。さらに僕が一番ビックリしたのは、当時マンションの5階に住んでいたんですが、とび職に就職した元生徒が、「先生、見て!」とベランダの柵?手すり?のとこに急に立って、歩き始めたんですよね。もう、母が「分かった!すごいからもうやめて!心臓止まっちゃう!」って叫んでいたことを思い出します。笑

でも、「自分たちが成長した姿を先生に見せたい」っていうその元生徒たち(当時の僕からするとおにいちゃん、おねえちゃん)の姿から、なんだか理想の生徒と先生の関係を見たようにも思いました。

さらに、1990年代だったので比較的日本全体でも早いほうだと思うんですが、神奈川県綾瀬市という僕が当時住んていた市で、不登校の生徒向けの支援教室の立ち上げを母は行っていました。これが私と不登校の生徒たちへの支援との最初の接点になります。

それは僕が通っていた中学校と同じ市内だったので、僕の中学校で学校に来れなくなってしまった友達が、数か月後に、母親のいる支援教室に通うようになって、まったく誰にも会いたくなかったところから、元気になって一緒に遊ぶようになったり、勉強するようになったよ、という変化を直に聞くようになりました。そんな母親の仕事を通して、少しずつ教育という仕事の本質を理解していったんでしょうかね。

母親の生徒たちに対する姿勢は、僕にとっての基本姿勢であるな、と最近強く感じるようになってきました。さらに言えば、自分自身がNPOで不登校やハンディキャップを持った高校生に向けてキャリア支援や個別支援をしているわけですが、自分の人生というか、人生の「使命」が母から受け継ぎながら醸成されてきたようにも感じます。

そんなこんなで母性の塊である母でしたっ

終わりに

さて、これにて初回は終わりたいなと思いますが、皆さん、いかがでしたでしょうか?

少しでも面白いかったよ!と思ったら、ハートマーク(スキマーク)押して頂けたら、次回以降のやる気に繋がります笑 是非お願いします~!

僕自身は、最近、父と母には素直に感謝する機会が多く、逆に今日の文章だけではなんだか一部だけで本当に申し訳ないのですが、それはまたどこかで機会を作っていきたいなと思います。感謝をカタチにして次の世代にしっかり繋げるよう、日々日々活動していくことが大事ですね。今日もやり切ろうと思います!!!





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