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音痴の人魚に歌を教える譚

 ある日の夕暮れ、とある国の北の果て。

 大海原を望む断崖のふちに、一人の男が腰掛けておりました。豊かに蓄えられた白髪、顔に走る幾筋もの皺。薄汚れた粗末な衣服もあいまって、遠目に見れば崖縁に引っ掛かった雑巾といった風情です。

 男は、眼下の岩場に散る波飛沫をじっと眺めておりましたが──やがて意を決したように、懐から笛を取り出しました。かつては都でも当代随一と謳われた吹き手として、奏でずにはいられなかったのです。

 自身が布切れではなく、人間なのだと知らしめるために。まだ見ぬ観客を、この崖縁へと招き寄せるために。いわく──我ここに在り、と。

 たえなる音色は軽やかに、風と波の合間を縫って一帯に響き渡ります。

 しかし、結果から言えば、男の目論見は外れてしまいました。突発的に催された演奏会に、観客は誰ひとりとして姿を見せず──よもや邪魔者が乱入してこようとは夢にも思わなかったのです。

 どこからともなく聞こえてくる、誰かの声。

 その出所を判じるのに、そう時間はかかりませんでした。崖の下、岩場から程遠く離れた場所に突き出た岩礁。そこで、半人半魚の女が、楽しげに声を上げているのです。

 とっさに、男は笛から口を離しました。笛の音が止んでもなお、人魚は何やら喋っているようです。両目を閉じながら、弾むように身体を揺らしていて──そこでようやく、男は彼女が「歌っている」らしいことに気付いたのでした。
 
 しかしながら、お世辞にも上手いとは言えません。
 あたかも老婆のような、しわがれた声。一方で外見は若々しく、人間に当てはめるならば十代後半から二十代といったところでしょうか。そうした声音と外見の不釣り合いぶりはともかく──致命的なのは、いわゆる音程というものを全く取れていない点だったのです。

「……なんという下手さよ」

 覚えず、男がそんな呟きを漏らした刹那、

「聞こえていますよ!」

 と、よく通る声が返ってきました。

 なるほど、音痴ではあるが耳は大変に良いらしい──。

「なんなんだ、お前は」

 咳払いで気まずさを押し隠しつつ、男は人魚を睨みつけました。

「私ですか? 人魚です」

 そんなことは見れば分かる、
 自己紹介を求めたわけではない、
 なぜ邪魔立てするのかと問うておるのだ。

 矢継ぎ早に繰り出そうとした数々の苦情は、しかし、人魚の嬉しげな笑みを前にして喉元で止まってしまいました。演奏に水を差された怒りもどこへやら。すっかり興を削がれてしまった男は、断崖から去るべく腰を上げたのでした。

***

 翌日の昼下がり、男は別の崖へと赴きました。場所も時間帯も異なれば、あの人魚の娘に遭遇することはなかろうと見込んだのです。

 いざ崖縁に腰を下ろし、笛を吹いていると──ほどなくして、聞き覚えのある声がどこからか流れてきました。眼下に目を移せば、やはり、あの半人半魚の女がいるではありませんか。男は舌打ちをして、すぐさまその場を離れました。

 明くる朝、男はまたもや別の崖へと足を向けました。今度こそは彼女に見つかるまい、と意気込みながら。けれども悲しいかな、そこでもやはり、人魚はしばらくすると姿を現すのでした。

 翌日も。
 そのまた次の日も。
 崖縁へと足を運び続ける男、そのたび寄ってくる人魚の女──。

「いい加減にしろ!!」

 七日目にして、男はついに怒鳴り声を上げました。しかし、人魚は怯えるでもなく、ただ不思議そうに首を傾げるのでした。

「あの、どうしてわざわざ崖に来るのですか」
「……俺がどこで笛を吹こうと勝手ではないか」
「……ならば、私がどこで歌おうと勝手では?」

 それに、と人魚は付け加えます。
「良い笛吹きがいれば、歌いたくなるのは道理でしょう?」

 深い溜息とともに、天を仰ぐ男。
 しばしの逡巡の後で、彼は根負けしたように「分かった」と頷きました。

「だがな、歌うならせめてもう少し上手くなれ。俺の演奏が台無しだ」
「私、本当に下手なのですか……?」
「下手だと本当に思っていなかったのか……?」

 頭痛すら覚えながら、男は再び嘆息しました。

「声質ばかりは、もはや変えようがない。しかし、他に改善できるところは幾らでもある」

 その言葉に、人魚は「ほんとうですか」と声を弾ませました。うむ、と男は大仰に頷きながら、内心でほっと安堵しておりました。向上心があるならば、きっと俺の望みも叶えてくれるに違いない──。

「今日から俺が教えてやる。息継ぎ、節回し……お前の場合は、まず音程の取り方からだ」

***

 その日から早速、男による指導が始まりました。

 彼は「お手本」として、弾いていた曲を自ら歌い上げました。そして、人魚にそれを真似してみるよう告げたのです。そうそう、併せて歌詞も教えこみました。人魚としては、もともと即興でいい加減な歌詞を──夕日がきれいだとか、お腹が減っただとか、そういった類いのことを気分次第で当てはめていたものですから。しかし、男が口にした歌詞はいかにも古めかしく、うら若き人魚にとってはさながら異国語のようでした。

「もっと、簡単な言葉の歌はありませんか?」
「言葉が易しい歌など幾らでもあるが、今のお前にはどれも難しかろう」
 人魚の不平をいなして、男はつづけました。
「この歌は言葉こそ難解だが、俺の知る限りで最も歌いやすいものだ」
「まずはここから、ということですか」
「そうだ。基礎なくして発展はない。これを歌えるようになったならば、他の歌も追々教えてやろう」

 人魚はたいそう熱心に練習に励みました。
 男もまた、その熱意に厳しさをもって応えました。あっという間に七日が過ぎ、そこからさらに七日が経ちました。いつしか、人魚は男のことを「先生」と呼ぶようになっていました。

「先生は、歌もお上手なのですね」
「……もとは唄い手であったからな」
「そうなのですか、てっきり笛ひとすじかと」
「世界は広かった。俺などより巧みな唄い手がごまんといた。特に、この地には──」
 ゆっくりと首を振って、男はわずかに口元を緩めました。
「幸いにして、俺は人よりも手先が器用だった。歌よりも笛のほうがマシになった……それだけのことだ」

 男が人魚に遭遇して、ひと月もした頃のことです。その日、人魚は鍛錬の成果を示すべく、改まって男に笛の演奏を頼みました。

 海風に男の笛の音が響き渡り、そこへ人魚のしゃがれ声がぴたりと寄り添います。

 男は何かを確かめるように、続けざまに人魚を歌わせました。一度、二度──そして、三度目の「再試」を終えたところで、
「うむ、もうよい」
 手ぶりで人魚を制し、男はふうと息を吐いたのです。その、満足とも失望ともつかない気配に、人魚はおずおずと尋ねました。

「……私、やはり下手なままなのでしょうか」
「いや、上達はしている。以前とは見違えるくらいにな」

 眼下の人魚が「生徒」としてとびきり優秀な部類に入ることは、疑いようもありませんでした。なんせこの短期間で、彼女は男の持てる技を我がものとしてしまったのです。最初こそ耳の毒とすら感じられた声音も、今となってはむしろ味となり、声量も相まって凄みを感じるほどです。

 男は内心、その成長ぶりに舌を巻いておりました。師たる己と比べても、何ら遜色はない。いや、聴く者が聴けば、人魚のほうが巧みと悟るに違いない……。

 だからこそ、男は同時に落胆もしてしまったのでした。彼女に歌を教えようと決めたあの日、この胸に去来した望み。その当てが外れてしまったことに、苦笑せざるをえませんでした。

「お前のその声は、生まれついてのものか?」
「はい、物心ついてからずっと」
「両親もそうであったか?」
「ええ、他の大人たちも似たようなものです。いわく、昔からずっとそうであったと」
「……そうか」

 しばしの間を置いて、男は改まった調子で人魚に語りかけました。

「なぜ、俺がわざわざお前を指導したか分かるかね」
「いいえ」
「では、お前は自分が何者か分かるかね」
「人魚です」
「そうだ──しかし、正確ではない」

 この地では、半人半魚のいきものを「人魚」と呼び習わしておりました。しかし、それがいささか乱暴なくくりであることを男は知っていたのです。

「人魚」にも、大きく分けて二種類あること。

 その見分け方は、尾の数の差。尾が一本のマーフォーク。そして、尾が二本のセイレーン。

 さらに異なるのは、その声質の違い。マーフォークの歌にはなく、セイレーンの歌だけが有するもの。人間を海に誘うという、ある種の催眠性。

 己の尾、二本に分かれたそれをしげしげと眺める彼女に、男は告げました。

「お前の歌に、誘われたかった──この崖から身を投げるため、俺はここにやって来たのだよ」

***

 かつて男は、歌うことを何よりも好いておりました。幼い頃より周囲からその才をみとめられ、その地では一番の唄い手として耳目を集めてもいたのです。将来を嘱望された男でしたが──十五歳を迎えた年のこと、彼は周囲の制止をふりきって旅に出たのです。

 きっかけは、友人の裏切りでした。男と同じく唄い手であった彼は、嫉妬心から男の喉を潰そうとしたのです。用いられたのは、ある種の魚にのみ含まれる毒でした。それを食料に混ぜ込んで、男の美しき声を枯らそうと試みたのです。

 幸い、その企ては事前に露見するところとなり、かつての友は厳しく罰せられました。からくも難を逃れた男ではありましたが、落胆は大きく、やがて故郷を離れるに至ったのでした。もとより己の才を試したいと常々考えていた彼のこと──外の世界を望んだのは、遅かれ早かれ当然の帰結であったのかもしれません。

 男が向かった先は、西の果てでした。そこには、生業のごとく誰もが歌を唄う一族が棲まうといいます。幼き頃に父母が語り聞かせてくれた記憶を頼りに、男はやがて目指す地にたどり着きました。

 聞きしに勝る、美しき声音。
 陽光に立派に輝く、二本の尾。
 西海の歌姫との呼び声高き、セイレーンと称される一族。
 
 彼らは、東の果てからやって来た男を手厚くもてなしました。その宴の席にて、男は食べ切れぬほどの貝を供されました。男が初めて見るそれは、セイレーンたちの主食にして、唯一の食料でもあるとのこと。故郷に居ては知り得なかった事実に、男は彼らへ近づけたようで嬉しくなりました。自分も彼らのようになりたい。その想いを改めて確かめつつ、男は本題を切り出したのです。

「俺を、弟子にしてくれませんか」
 しかし、その歌いぶりを見た彼らの返答は「否」でした。
「確かに上手くはあるけれど──」
 呆然とする男を前に、セイレーンの長は続けます。
「あなたには才能を感じないの。教えることは、お互いの為にならないわ」

 でも、気を落とさないでほしい。
 才能なんて、あくまでも私たちの基準にすぎない。
 あなたが輝ける場所は、他にも在るはずなのだから。

 セイレーンたちの慰めは、しかし、男の耳を素通りしていくばかりでした。男の胸に棘のごとく刺さったのは、「才能がない」というただ一言のみ。居たたまれなくなった男がその場を立ち去るのに、さほど時間はかかりませんでした。

 あてどない放浪の末に、男はとある浜辺にたどり着きました。
 覚えず、男は歌を唄っておりました。かつて故郷でそうしていたように、陸へ向かって思いの丈を歌い上げたのです。郷里においては、多くの人々が彼の歌声を聴こうと浜に集い、賞賛を投げかけてくれたものでした。なけなしの自尊心を取り戻すべく、男はひたすらに歌い続けたのです。

 果たせるかな、陸の向こうに大勢の人影が現れました。胸を踊らせたのも束の間のこと、やがて男は異変に気付きます。彼らの目に満ちるもの、それが好意ではなく敵意と悟った時にはすでに遅く、男は投げ網に全身を絡め取られておりました。
 
「人魚め! 堂々と人を誑かしに来おったか!」
「こやつ、二股ではないようだが」
「知ったことか! 人魚には違いなかろう!」

 頭上で交わされる人間たちの会話を、男は放心しながら聞いておりましたが、

「殺しておくか」

 誰にともなく呟かれたその一言を耳にして、男はようやく我に返ったのです。

「俺はセイレーンではない!!」

 単尾を懸命にばたつかせながら、男は叫びました。東の海からやってきた身であること、セイレーンと人間の関わりについて無知であること、人間への害意が無いことを声の限りに訴えたのです。

「確かに、お前は歌が上手いだけだね」
          ・・・・・

 声の主は、ひとりの老女でした。壁のごとく屈強そうな男たちが居並ぶなかにあって、その佇まいはさながら枯れ葉のようでありましたが、その身にまとう剣呑さが彼女を頭目たらしめておりました。

「だが、二股の手先かもしれぬ。どうだい、身の潔白を証明することは出来るかね? わしらとて無益な殺生はしたくないものでね」

 老女の眼光に射すくめられながらも、男の頭は生き延びるための算段を立てておりました。巡る思考は、やがてひとつの結論を導きます。間者の疑いを晴らすためには、逆に彼らにとって有益な間者となればよいのだと──

「……奴らの住処を知っている。ここから北東にある洞窟の奥。人間の身では到底たどり着けない場所だが、方法はある」

 セイレーンたちがとある種類の貝を主食としていること。故郷に伝わる、人魚の喉を潰す毒。その製法を人間たちに教え、貝に仕込んでばら撒くように提案したのです。

「誇り高きセイレーンは、己の美声が失われることを何よりも嫌う。この海域が汚れてしまったと分かれば、奴らもおのずと離れていくことだろう」

 住処に「人の身では入れない」と嘘を交えたこと、そして「毒殺」を提案しなかったのは、男なりの精一杯の良心でした。裏を返せば、それだけセイレーンの声を妬んでいた証でもありました。ともあれ男はその発案によって、しばし命を留め置かれることになったのです。

 ほどなくして、その成果は表れました。

 その海域において、セイレーンの歌声はとんと聞かれなくなりました。その一方で、セイレーンの姿は頻繁に見かけられるようになりました。ただし、海原ではなく崖下の地べたで──骸となって転がっているとの報せが多く寄せられたのです。

 老女の見立てにいわく、それは自死とのことでした。

「お前さんの言う通り、二股は高潔な一族であったようだ──己が声の醜悪さに耐えられず、身投げしてしまう程度にはね」

 うなだれる男を前に、老女は自らを魔女だと語り、こう続けました。

「身の潔白は示された。そして、わしはお前さんの歌の才を評価しておる。望むならばその身を人間に変え、さらなる飛躍の場を与えることもできる──どうだね?」

 その提案に、男は小さく頷きました。同胞を裏切り、結果として死に追いやったこと。その事実はひたすらに重く、自分には海へと戻る資格などないように思われたのです。

 そうして男は二本の足を与えられ、人間として余生を送ることになったのでした。男は魔女の供となり、都で暮らすようになりました。「人魚あがり」であることを強みとして、宮廷の楽隊へと推薦されたのです。国の有力者であった魔女の薦めに異を唱える者は誰もおらず、また王が男の「功績」をいたく気に召したことも有利に働きました。男はさらなる鍛錬を積み、唄い手としてよりはむしろ笛吹きとしての才を発揮するようになったのです。

 しかし、それも今となっては過去の栄光にすぎません。

 魔女がこの世を去り、王が後を追うように亡くなったことで、男は後ろ盾を失ってしまったのです。後に残ったものといえば、「魚崩れ」でありながら重用されたことへの、宮廷内の妬みそねみばかりでした。結果として──男はあらぬ嫌疑をかけられた挙げ句、宮廷から追われる身となったのです。

 捕縛されれば、市中引き回しのうえ極刑に処されることは明白でした。とはいえ四方を海に囲まれた島のこと、逃げ場はどこにもありません。どうせ死ぬのならば、海へ。かつてのセイレーンたちのごとく、自分もまた身を投げよう。固い決意とともに、男は北へ北へと逃れ、ようやくこの地にたどり着きました。

 しかし、男には、あと一歩を踏み出すことができませんでした。崖の縁に足を掛けると、どうしても身が竦んでしまうのです。己の小心さを呪いもしましたが、致し方のないことでした。

 ゆえに、彼は「後押し」を欲したのです。
 笛の音を聞きつけて追手が来てくれれば、踏ん切りがつくやもしれぬ。
 あるいは人間を惑わすというセイレーンの歌声であれば、崖縁を踏み越えることも叶うのではないか、と──。

***

「しかし、どちらも叶わなかった。あろうことか、このまま生き永らえたいとすら思ってしまっている」

 自嘲気味に男は笑いました。

「……お前にもっと多くの曲を教えればどう歌い上げるのか、そればかり気になって仕方がない」
「では、歌をもっと教えてくれるのですね?」
「……お前、俺の話を確かに聞いていたか?」
「聞いていましたとも。そういう話だったでしょう?」
「いや、そういうことではなく、」

 続けようとした男の言葉は、しかし、人魚の声によって遮られました。

「──何か、来ます。南西から凄い速さで。これは……馬?」

 人魚が言い終わらないうちに、男は理解していました。彼らこそ、かねてより待ちわびていた「観客」であることを。しかしそれも、ひと月前までの話です。今となってはもう、客は客でも招かれざる種類の者でした。

 小高い丘から現れたのは、十を越える騎兵。
 男を捕縛するため、都から派遣された追っ手たちだったのです。

「逃げて!」

 人魚は叫びます。しかし、男に動じる気配はありません。そうこうしているうちに、兵たちは迫り──たちどころに崖縁の男を取り囲んだのです。

「──魚崩れだな?」
「……いかにも」

 短い問いに、男はゆっくりと頷きました。

「逃げてったら!」

 再びの人魚の叫びに、兵たちはびくりと身を震わせましたが、すぐに平静を取り戻しました。

「なんだ、セイレーンか」「捨て置け、害はない」

 馬を降りた兵のひとりが、やにわに男の手へ縄を打ちました。

「どうして──!!」

 叫びが嘆きに変わるにいたり、男はようやく人魚へと目を移しました。

「逃げるなどもってのほかだ──自死すら俺には烏滸がましい──陸で無様に朽ち果てること、それこそが俺のせめてもの償いであろう」

 そう男が告げると同時、兵たちが荒々しく縄を引きました。よろけた男の背に、兵たちの舌打ちと罵倒が刺さります。人魚の姿は、崖に遮られてすっかり見えなくなっておりました。

 達者でな、と男は海に向かって呟きました。途端、応じるように崖の向こうから歌が響きました。幾度となく耳にした、人魚の歌声。来る日も来る日も練習させたその曲は、都にて歌われる葬送曲でありました。
 冥土の土産としては充分にすぎる──
 清々しさすら覚えつつ、男がしっかと前を見据えたその時でした。

 ふいに、馬上で談笑していた兵たちの動きがぴたりと止まりました。不審がる男をよそに、彼らはやがて馬を降り始めたのです。さらに不思議なことには、彼らはそのまま踵を返し、崖へと向かっていくではありませんか。

「お前たち、何を──」

 引かれる縄の勢いにつんのめった拍子、男は兵たちの顔を見て絶句しました。焦点の合わない瞳。半開きになった口。そのさまは、さながら幽鬼のようですらあります。彼らが正気を失っていることは、傍目にも明らかでした。

 思い当たる原因は、一つしかありませんでした。徐々に近づきつつある、あのセイレーンの歌声です。そう、人を知らず知らず海に誘うという、魔性の声音──。

 だがそれでは辻褄が合わぬ、俺は散々あの声を耳にしたではないか?

『お前を人間にしてやろう──なに、簡単なことさ』

 刹那、思いもかけず脳裏をよぎったのは、在りし日の魔女の言葉でした。

『魚の尾を人の足に変えるだけで済む話だよ』
 ・・・・・・・・・・・・・

 とん、と地を蹴る軽い音。ふと我に返れば、先行していた兵たちが崖下へと吸い込まれていくのが見えました。そうして他の者たちも、あたかも階段をひとつ降りるような気軽さでもって、後に続いているのです。それは、男の手縄を掴んでいた兵とて例外ではありません。その姿が崖の向こうに消え、一拍の間を置いて、ぐんと縄が引かれます。崖縁で体勢を崩した男。視界に真下の岩場が映りこんだ、そのときでした。

「──跳んで!」

 男は、力いっぱいに崖縁を蹴りました。それは、大変に力強い跳躍でありました。直下の岩場を越えて、水面へと至るくらいには──。

 盛大に飛び散る水飛沫とともに、男の意識はそこで途切れたのでした。

***

 揺り起こされるような心地に、男はやがて目を開きました。鼻先に漂う懐かしい匂い。それが潮の香りであり、己が波にたゆたっていることを、男はようやく悟ったのです。そして、自分が彼のセイレーンに背負われていることも。

「お目覚めですか?」
「……ざまはないな」
「ええ、本当に」

 人魚は嬉しくて仕方がないといった様子で、男に微笑みかけました。

「どこか、よい浜辺はないでしょうか。人に邪魔されず、先生からゆっくりと歌を教えてもらえるところが望ましいのですけれど」
「お前はどれだけ能天気なのだ……?」

 呆れを隠そうともせず、男は天に向かって溜息をつきました。

「俺はお前の一族を死に追いやった。お前の両親の美しき声を、ひいてはお前の声を奪った大罪人だ」
「でも、そんな話は大人たちから聞かされませんでした」
「それもセイレーンの誇りゆえだ。失われたのではなく初めからそうだったと、一族を挙げて子孫に隠し通したというだけだ」
「そうなのかもしれません。でも、証拠はありません。大人たちはみな亡くなってしまい、残るは私ひとりのみ」
「……俺を死なせてはくれぬというわけか」
「お望みとあらば、冥土にて。あの世で父母に問いただし、真であれば死なせ直して差し上げましょう」

 だから、と人魚は鷹揚につづけました。

「これからもずっと、私に歌を教えてください。私はもっと上手くなれます。より多くの曲を教えていただければ、ゆくゆくはマーフォークの耳に合うような死の声音を出せるかもしれませんね」

 男は、観念したように苦笑を浮かべました。

「──ここからはるか東の果てに、俺の生まれ故郷がある。陸と海の境目がなく、人魚も人間も仲睦まじく暮らす島だ。着いたらすぐに『授業』を再開する、それでよいな?」
「ええ、もちろんです──今後もご指導ご鞭撻のほどを」

 かつてマーフォークだった男と、セイレーンの女。ふたりの人魚は、ゆるりと東へ進路をとりました。

 折しも満月が昇り始めた夜のこと。

 彼ら師弟の行く先を、きらきらとした金環が灯台のごとく照らしておりました。

<了>

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