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幼馴染との帰省を決めた12月12日の夜の話

 子どもの頃から泣くのが好きだった。
 だから、東京で暮らしたいと思った。

 上京した理由を問われてそう答えれば、決まって相手は怪訝そうな顔をした。むしろ俺としてはその反応が意外で、さらに説明を加える羽目になったものだ。

 ──東京は、日本で一番キラキラしている場所だと思うんです。
 ──キラキラしているものを涙目で見ると、もっと輝いて見えるじゃないですか。
 ──だから東京に住めば、泣くのが最高に楽しくなるなって思ったんです。

 もう昔の話だ。具体的には、できたてホヤホヤの大学1年生だった頃だ。3年生になった今ではもう、バカ正直にそう言わない程度の分別は持ち合わせている。

 今日だって面接先の会社で訊かれたさ。
「どうして東京の大学を選んだんですか?」って。

 俺はハキハキ答えたね。
「文化・経済の中心地である東京で、見識を広げたいと思ったからです!」

 別に嘘を言ったわけじゃない。言い方の問題だ。あんなにも光に溢れた場所で泣くことが出来たなら、それは最高に素敵なことだろうと思っていた。実際、その見立ては当たっていた。大学生になってからこのかた、東京の有名な夜景スポットは一通り回ったけれども、今なお飽きる気配はないのだから。

***

 そういうわけで、面接を終えた俺は、帰宅がてら新宿サザンテラスに向かっていた。さっむ、と独りごちたそばからビル風が吹きすさび、吐息の白さを掻き消していく。

 冬は好きだ。
 凍える冷気に、乾いた空気。わざわざ意識しなくとも、歩いているだけで涙が自然と出てくれる。俯きがちに、それでも溜めた涙が溢れないように細心の注意を払いつつ、植え込みの縁に腰を下ろして──それから、ゆっくりと視線を上げた。

 瞬間、視界に幾万もの宝石がぶちまけられる。冷気にこわばった瞼の力を緩めるにつれ、光の結晶はその径を広げていく。きらきらと、ちかちかと。縁を虹色に彩りながら、互いに重なり合いながら、そのきらめきを増していく。
 
 冬が大好きだ。
 特にこの時期、イルミネーションスポットにはまず困らない。明日の面接会場は渋谷、あさっては丸の内、しあさっては池袋──おかげで、さほど楽しくもない就活にもハリが出るというものだ。あぁそうだ、4日後にはまたエントリーシートを出さなくちゃならない。けど、そういや手持ちの写真を切らしてたんだっけ……。

「すみません、証明写真の焼き増しをお願いしたいのですが──はい、ミチヤアキオです──いえ、ミツヤではなく──ロードの『道』にハウスの「家」でミチヤ、です」

 通話を終えて、すっかり涙が乾いてしまったことに気付く。とはいえ、リカバリは難しくない。こういう時は、過去の悲しい思い出に浸るのが定石だ。ついでに言うなら、しんみりした失恋ソングなんかを聴くとかなり捗る。

 目を薄く閉じて、イヤホンを耳に差そうとした──その瞬間だった。

「めちゃナキオじゃん!」

 驚愕に満ちた声が真横から飛んできて、俺は反射的に振り向いていた。

 そばに腰掛けていたのは、セミロングの若い女性だった。自分とそう変わらない年頃、でも学生という感じはしない。黒いトレンチコートに白いスラックス、モノトーンの装いに身を包む彼女はいかにも大人といった雰囲気をまとっている。足元に置かれた小ぶりのスーツケースから察するに、旅行中といったところか。

「……えっと、」

 言い淀んだのは、誰だか分からなかったから……というわけじゃない。自分をその仇名で呼ぶひとを、俺は一人しか知らなかった。ただ、東京でそのひとに出会うなんて、まったく思いもよらなかったから。

「──ユキねえちゃん?」

「大っ正解!」

 彼女──千川雪乃は満面の笑みを浮かべて、俺の背中をぱしんと叩いた。

***

「少し早めの冬休みなんよ」

 夕食にと立ち寄ったファミレスで、ユキねえは言った。

 有給休暇をありったけ突っ込んで、いざ東京へ遊びに来たところまでは良かったのだけれど──いわく、手違いで宿の予約が取れていなかったという。

「慌てて他んとこば探したっちゃけど、空いとるとこはどこでん高かけん、どげんしよっかなーって思いよったっちゃんね」

 話の流れからして、展開はなんとなく読めていた。そして実際、予想通りになった。

「やけんね、よかったら少しの間でいいけん泊めてくれんやかーって」

 ──ということで、8畳ワンルームの我が家にご招待する運びとなったわけだ。

 二人して部屋に入り、互いの手荷物を床に置き終えたところで、
「……ナキオ、一人暮らしなんよね?」
 と、ユキねえは訝しげに言った。

「うん、一人やけど……ていうか、俺さっきそう言ったやん」
「いや、二段ベッドがあるけん同棲しとるっちゃかーって……」
「いやいや、単に上のスペースば活用したくて買っただけやし、今は彼女おらんし」

 ハンガーを手渡しつつ、俺はそう答える。ユキねえは、ほっとしたような表情を浮かべたのも束の間、今度は「は〜!?」と素っ頓狂な声をあげた。

「『今は』? 彼女おったこつあったとね?」
「あったし……去年フラれたし……」
「ほんとね? いや、ちょっとごめんって、泣かんでよ」
「もう遅かよ、涙腺ガバガバよ……」

 脱いだスーツをクローゼットにしまっていると──

 ちゃりん、と背後から音が響いた。
 遅れて、あっ、と短い叫び声も。

「なんね、大丈夫?」
「ごめんごめん、小銭落としただけよ」

 それをユキねえが財布に入れるのを見届けて、俺は再び口を開いた。

「……というわけで、ねえちゃんは二段ベッドの下で寝て。俺は上で寝るけんが」
「はーい」
「部屋のものは基本、自由に使ってよかよ」
「ほーい」
「ただ、電気ポットとレンジは一緒に点けんでね。ブレーカー落っこちるけん」
「うん、気をつけるね〜」
「注意点はそんくらいやか……なんか質問ある?」
「タバコはどこで吸ったらよか?」
「換気扇の近くならよかよ」
「りょうかーい」

 言うが早いか、さっそくとばかりに換気扇へ赴くユキねえだった。さも美味そうに煙をくゆらせるさまを眺めながら、俺は結構しみじみしていた。なんてったって、彼女とは本当に久しぶりの再会だったから。

***

 唯一の幼なじみだった。幼なじみの定義なんて考えたこともないが、そう呼びたくなるのはユキねえしか思い浮かばない。一方で、彼女は俺の3コ上の「先輩」でもあった。

 初めて顔を合わせたのは、俺が小学校に入学した時のことだ。俺が登下校するための先導役として、学区で一番近くに住んでいたユキねえが任命されたというわけだった。彼女にとって、俺はたいへんなお荷物だっただろう──悲しいかな、自信を持ってそう言えてしまう。

 学校に行きたくないと駄々をこねて、学校まで半分にも満たない地点で疲れたとゴネて、着いたら着いたでもう帰りたいと地団駄を踏んで……。嫌だ嫌だと号泣する俺をユキねえが引きずっていく、常日頃からそんな感じだった。

 ああそうだ、下校途中にションベン漏らしたこともあったんだよ。その時はユキねえの家に立ち寄って──もとい強制連行されて、風呂場にぶち込まれたんだ。彼女が垢すりタオルで股間を力任せにごしごしやってきて、あまりの痛みにギャン泣きした覚えがある。

 とにかく、俺はいつも泣いてばかりいた。そんな調子だったから、ユキねえから仇名をつけられるのにそう時間はかからなかった。「みちやあきお」をもじって「めちゃなきお」──メチャ泣き男。フルネームは呼びにくいからということで「ナキオ」。

「ナキオはホントに泣き虫やなあ」

 そう言って、ユキねえはたびたび遊びに誘ってくれた。彼女の家に招かれることもあれば、近くの野山で山菜採りや魚釣りをすることもあった。それは俺が中学に上がり、彼女が高校生になってからも続いた。

 そして、俺の泣き癖もまた、直る気配がみられなかった。さすがに中学生にもなって、登下校で泣きはしない。ただ、泣くシチュエーションが増えたというだけの話だ。

 部活の先輩から、理不尽にシゴかれた時。
 学校の宿題を忘れて、教師から叱られた時。
 家の仕事の手伝いでミスって、怒鳴られた時。

「お前、男んくせに何ば泣きよっとか?」

 そんなふうにイラつかれては泣き、またもや相手の怒りに火を注ぐ。そんな悪循環に陥るのがお決まりのパターンだった。俯きながら、一刻も早く嵐が過ぎ去るのを待ち続けるしかなかった。

 ──だから、記憶に残っている当時の景色は、だいたいが地面や床で占められている。

 あの日もそうだった。中学2年生の夏──確か、土曜日の夕方だったか。
 父親とささいなことで言い合いになって、口答えしたことに対してぶん殴られて、そのまま外に締め出された。夕暮れのなかブロック塀を背に座り込んで、ドブくさい排水路をぼんやり眺めていたことを憶えている。

「ナキオ!」

 降ってきた声に顔を上げると──そこには、ママチャリに跨ったユキねえがいた。Tシャツに短パンという軽装、そして背中にはリュックサック。いつも下ろしているはずの髪は後ろにまとめられ、立派なポニーテールになっている。ユキねえおなじみのアクティブスタイル。

「釣り、行くばい」

 事前に約束をしていたわけでもないのに、既定事項のように言い放つ。唐突だ。いつものことだ。ユキねえは基本的にそういうひとだった。率直に言って、その時はまるで気分が乗らなかった。

「……行かんよ」
「なんでよ、最近付き合い悪かやんね」
「いや、いまチャリ壊れとるけんが」
「二人乗りすればよかやん?」

 適当な嘘をついてお茶を濁そうとしたものの、それで彼女が引き下がるわけもなかった。言い訳に事欠いて、俺は言った。

「よかとね? 知らんばい? 俺泣くばい?」
「やけん何なん?」
「いや、泣いとるヤツば後ろに乗せたら恥ずかしかろうもん……」
「お漏らしの面倒まで見たあたしにソレ言うん?」

 ぐうの音も出なかった。そして、泣き虫を盾にするような物言いを後悔もした。観念して荷台に跨り、ユキねえの服の裾を握ったけれど、「伸びるけん止めて」と言われたので仕方なく腰を掴んだ。視界のほとんどが彼女の背中で埋まり、自転車はゆっくりと進み始める。

「いくらでも泣いたら良かやんね」

 穏やかな声音で、彼女はつづけた。

「あたしも、今日は泣くけんが──」

***

 スマホのアラームがけたたましく鳴り響いて、俺は薄目を開けた。
 いつも通りの8時30分起床──でも、いつもとは違うことに気付く。

 ひとつ、自分が仰向けではなく横向きに寝ていること。
 ふたつ、視界がベージュ一色であること。
 みっつ、自分が何かに抱きついていること。
 
 ──目の前に、ユキねえの露わな背中があること。

 声にならない叫びとともに、俺は飛び起きた。つられるようにして、もぞりとユキねえが寝返りをうち、ふわぁ、と小さくあくびをした。次いで、彼女の寝ぼけ眼がゆるりと俺の顔に収束する。

「おはよ、早かやんね」
「おはよ……えっと……」

 まとまらない思考を打ち捨てて、記憶を必死にたどる。昨晩、彼女は二段ベッドの下に寝たはずだ。パジャマ代わりに俺の服を貸したりもして。それがどうして──二段ベッドの上で、キャミソール一枚で、彼女は寝転がっているのだろう。

「だってこの部屋、寒かっちゃもん」
「エアコン点けとったろうもん……?」
「いやー暖かい空気って上にいくやん? そいけんそっちにお邪魔したっちゃけど、それはそれで意外と暑かったけん、上ば脱いだったい」

 もう一度あくびをして、彼女はにこりと笑う。

「──きのうはお楽しみやったね?」

 その場に固まる俺をひとしきり眺めて、彼女は堪えきれなくなったように吹き出した。

「うそうそ、ナキオはなんもしとらんよ。マジで」
「……最高の目覚ましばい」

 二段ベッドから降りて、手短に支度を整える。俺がスーツに着替え終わったところで、ユキねえはベッドから身を乗り出して言った。

「今日も就活?」
「うん……」

「何時ごろ帰ってくると?」
「大学で講義もあるけんが……19時ごろやか」

「じゃあ、夜ご飯ば作っとくけん」
「……ありがと」

 玄関のドアを開けた。鼻先に残っていたユキねえの匂いが、吹き付ける風にさらわれて消えていく。代わりとばかりに押し寄せてきたのは、かつての記憶の続きだった。

***

「あたしね、きのう告ったとって」

 鈴のような声音が、林道の夜闇に薄く響いた。あの日、二人そろってボウズに終わった釣りの帰り道。行きと同じく自転車の二人乗り──ユキねえが前で、俺は後ろに座っていた。

「でもね──ダメやったよ」

 正直、俺は驚いていた。
 彼女に好きな人がいることに対して、ではない。
 まだ付き合ってなかったことが意外だったのだ。
 ・・・・・・・・・・・

「それ……もしかして、南町んとこの十和田くん?」
「え、正解やけど……なんでわかったん」
「……ふたりで帰っとるとこ、何回か見かけたけんが」
「ていうか、知り合いなん?」
「親同士が仲良いけんが……」
 
 十和田さんちは、ウチと同じ茶農家だった。地域の特産物ということもあって同業者はそこそこ多いし、横のつながりも強い。でもそれはあくまで親同士の話であって、十和田くん個人とは面識があるというだけだった。けれども、ただ「顔を知っている」というだけでも、狭い田舎では目につく。中学生になって行動範囲が広がるにつれ、嫌でもわかるようになった。

 それはたとえば、帰り道の通学路とか。部活の帰りに、国道沿いの古本屋に寄ったときとか。休日に友達と、町で唯一のショッピングモールに遊びに行ったときとか。

 そこでちょくちょく、ユキねえが十和田くんと一緒にいるところを見かけたものだ。幸せそうな顔をしていた。その眼差しは、兄弟を見るようなそれではなく、異性としてのそれだった。だから俺は、自然と距離を置くようになった。

「どうしてあんたが泣くと」
「だって──」

 悔しかった。

 自分が、ユキねえからそういう目で見られないことが。それ以上に、彼女の想いが報われなかったことが。けれども、それはついに言葉にはならなかった。

「ナキオはほんとに泣き虫やなあ」

 ユキねえは笑って、つづけた。

「泣こうと思っとったとに、涙が引っ込んだやん」

 林道が途切れ、視界が広くなった。その瞬間だった。

「見てんね!」

 ユキねえの声が跳ねた。

「月が綺麗ばい!」

 顔を上げる。幾重もの虹をまとった満月が、夜空に映えている。月を「きれいだ」と思ったのは、その時が初めてだったように思う。泣いている時に、空を仰いだのは初めてのことだった。

 こんな景色が見られるのならば、泣くのも悪くはない。
 ──不思議なもので、いったんそう思えるようになると、泣き癖も影を潜めるようになった。

 そして、同時にこう思うようになった。もっと賑やかな街であったなら、どれほど綺麗だっただろう、と。それは、自分の意識が町の外側に向かう最初のきっかけだったように思う。

 そうして数年後、俺は都市部にある全寮制の高校に進学した。同時に、ユキねえとの交流もそこで途切れたのだった。

***

「おかえり、ナキオ」

 大学から帰宅した俺を迎えてくれたのは、ユキねえの笑顔と、寄せ鍋の匂いだった。二人して鍋を囲みながら、話題は自然と地元のほうへ移っていった。

 会話の主導権を握るのは、もちろんユキねえのほうだ。けれどもそれは、彼女が一方的に喋るというわけじゃない。むしろ逆だ。彼女がインタビュアーよろしく質問を繰り出すものだから、口を動かしているのはもっぱら俺の方だった。

 俺の小学校から中学時代にかけての思い出話。
 高校時代の寮生活、そして東京での大学生活。
 そして今は、外資系企業を中心に就活を続けていること──。

「へぇー、なに、海外行きたいん?」
「うん、ゆくゆくは」
「志望職種は?」
「営業やね」
「あたしとおんなじだー!」
「ユキねえ、めっちゃ成績良さそうやし」
「そうよ、あたし営業部で成績トップやけんね!」……。

「──ところでさ、帰省せんと?」
 土鍋に投入したパックご飯をかき混ぜながら、ユキねえが問う。

「あー……」
 コンロの火を弱めつつ、俺は考える。正直、今の今まで意識していなかった、というのが本音だった。とはいえ、返す答えは一つしかない。

「帰らんよ、今年も」
「なぁん、ずっと帰っとらんと?」
「ん……大学に入ってから、ずっと」
「親不孝やなぁ」

 言葉とは裏腹に、どこか嬉しげな口調でユキねえは言う。俺も俺で、曖昧に笑い返す。こちらから実家に連絡するつもりは特になかった。どのみち向こうから電話がかかってくるだろうし、その時に伝えればいい。

「帰ったって、すること無かし」

 帰る理由が見つからなかった。実家最寄りのターミナル駅まで新幹線で六時間はかかるし、家族も親戚たちも揃って健康だし、おまけに高校時代に仲のよかった友人たちは軒並み関東圏に出てきてもいるのだから。

 ああ、でも──

「地元の豚骨ラーメンは、ときどき無性に食べたくなるっちゃんね」
「うちらの家の近くにあるやつ?」
「そう、ほらあそこの……なんやっけ、『豚小屋』?」
「『森小屋』やろ」
「そうそれ!」

 実家近辺では数少ない「外食」の選択肢、それがラーメン『森小屋』だ。だからなのか、閑散とした町に似合わず、常に客足が絶えない人気店だった。中学までは、家族でよく行っていた記憶があるけれども。

「あそこ、今も繁盛しとるとね?」
「そりゃもう相変わらずよ、土日は長蛇の列」
「変わらんねぇ」
「地元はずっとそんなもんよ」
「なぁ、ねえちゃんは──」

 訊こうとした矢先、目の前に雑炊の皿が差し出される。

「もっと食べる? こんくらいでよか?」
「うん、そんくらいで……」

 ちゃりん、と脳裏で音が鳴る。自然と思い返されるのは、昨夜の光景だ。ユキねえがきのう部屋で落とした銀色のあれは──硬貨ではなく、指輪だった。

 ──彼氏、おるっちゃろ?

 続けようとした言葉を雑炊と一緒に飲み下し、俺は代わりに言った。

「二段ベッド、今度から俺は下で寝るけんが。ねえちゃんは上ね」

***

 遅かれ早かれ、ユキねえはここからいなくなる。我が家の宿泊について、彼女は「少しの間」と言っていた。だからこそ、俺は少しでも長く居てほしいと思っていた。その願いが通じたのか、あるいは悟られていたのか。彼女が家を出ていく気配は、一向になかった。もっと言うなら、外出する素振りすら見られなかった。

「どこも案内できんで、申し訳ないっちゃけど」

 俺としては、本心からの言葉だった。ユキねえは東京旅行に来たというし、俺がちょっとしたガイド役を務めるのにもやぶさかではなかったのだけれど、日中は就活でどうしても時間がとられてしまう。

 ならばせめて、と気兼ねなく外出できるよう鍵を置いておくのだけれど──帰宅してみても、鍵を扱った様子はまるでなかった。「どこか行きたいとこ無か?」と誘ってみるものの、返答は決まって「近くのスーパー」で、そこから夕飯の準備をすることになるのだった。

 ──まだ帰らんでいいと?

 いつかは問わなければならない。けれど、その「いつか」が分からない。そうこうしているうちに、ユキねえが家に来てから一週間が経った。

 母さんから電話がかかってきたのは、そんな折のことだったのだ。

***

 大学の就職課に向かう途中の、駅の中だった。

「今年は帰ってくるとね?」
「帰らんよ、就活とか色々あるけんが」
「なんね、帰省のついでにこっちの企業も見りゃよかろうもん」
「選択肢が少なすぎやん、つか自分ちから中心部まで何時間もかけて行きたくなかし──」
「そうねそうね……なんか送ろうと思うっちゃけど、何がよか?」

 母さんお決まりの、締めのフレーズ。いつもなら「カップ麺とか適当に詰めといて」で流すところだった。でも、そうしなかったのは、ユキねえとの会話でそれなりに郷愁を誘われていたからだろう。

「『森小屋』のさ、店で売っとる袋麺あるやん? あれ、二袋くらい入れとってよ」

 記憶が正しければ、あそこは店頭で麺とスープのセット売りをやっていたはずだ。いわゆる「お店の味をご家庭で」ってやつだ。急かすつもりは別にないが、ユキねえがこっちにいる間に届くのなら会話のネタにはなるだろう。

「──あの店、もう無かよ?」
「……はっ?」
「あんたが大学入ってからすぐ後に潰れたんよ。言わんかった?」

 初耳だった。にわかには信じがたかった。
 だって、ユキねえは言っていたじゃないか。
 ──「そりゃもう相変わらずよ、土日は長蛇の列」だって。

 押し黙る俺をよそに、母さんは「そういえば」と言葉を継ぎ足した。

「あんた覚えとるね、千川さんちの雪乃ちゃん。あの子なんやけどね──」

***

 外出していたユキねえは、部屋に居る俺を見て、目を丸くした。
「おっ、いつもより早かやんね?」
 
 肩をすくめて、俺は笑う。
「まあね。ユキねえが居なかったから、びっくりした」
 
「お金下ろしたくてコンビニ行っとったんよ。どうする? 一緒にスーパー行く?」
「今日は大丈夫、冷凍食品めっちゃ買ってきたから……ねえちゃんの分もあるよ」
「ありがと、たまには冷食も良かもんよね」

 ユキねえに笑い返して、俺は冷凍チャーハンをレンジに入れた。手持ち無沙汰を押し隠すように「お茶でも飲む?」と訊いてみる。「うん」と返ってきたので、電気ポットのスイッチを入れた。

 言わなくてはならない。でも、どう切り出したものかが分からない。

 そう逡巡したのも、ほんのわずかな間のことだった。
「どうしたん、これ」とユキねえの怪訝そうな声がして、ふと我に返る。
 彼女の視線は、俺が押入れの奥から引っ張り出したスーツケースに注がれていた。

「──やっぱ、帰省しようと思ってさ」
「どうしたん、いきなり」
「帰る理由、できたんだ。十和田くんちに、挨拶に行かなくちゃ」

 一拍の間をおいて、俺はつづけた。

「ユキねえとの結婚、おめでとうございます……って」
 ・・・・・・・・

 瞬間──ぶつん、と部屋の照明が落ちた。停電したのだと理解して、遅れて気付く。無意識に、電子レンジと電気ポットを一緒に動かしてしまっていたことに。

 ブレーカーを上げなければならないのに、お互い言及はしなかった。いや、言葉を発することすらできずにいた。暗闇と静寂のなか、先に口を開いたのはユキねえのほうだった。

 ──「黙ってて、ごめんね」と。

***

 ユキねえは東京の彼氏に会うために上京してきたのだと、そう思いこんでいた。けれども実際のところ、その予想は何から何まで外れていた。彼女は、地元の婚約者と暮らすために帰省する途中だった。

 母さんからの電話で、すべてを知った。
「あたしも最近知ったんやけど」と母さんは耳打ちするかのように告げたのだ。

 ユキねえは大学進学を機に上京し、そのまま東京の企業に就職していた。それでも、十和田くんとの付き合いは続いていたらしい。それがこのたび、めでたく婚約までこぎつけた。すでに結納も済ませており、あとは結婚式を控えるのみ。ゆくゆくは十和田の長男の嫁として、家業を手伝うことになってもいる……。

「でもね雪乃ちゃん、まだ帰ってきとらんみたいでね。先月末にはこっちに来るって話やったらしいんやけど、音信不通でどこにいるかも分からんらしいったい。あんた、なんか知らんね? って知っとるわけなかよね、仲良かったのもうずいぶん前やけんね〜」

 ──そのユキねえが、いま、こうして目の前にいる。

「……本当はね、まっすぐ帰るつもりだったの」

 とつとつと、ユキねえは語る。訛りの抜け落ちた言葉──でも、ぎこちなさはまるでなくて、それが彼女の東京生活の年季を雄弁に物語っていた。

「退職も済ませて、部屋も引き払って、あとは帰るだけで、東京駅に行かなくちゃって……」

 最寄り駅の新宿にたどり着いた。けれども、そこから足が動かなかった。

「こわくなったんだ。もうあたしは営業部エースの千川さんじゃなくて、十和田さんちのおヨメさんになるんだなって、たったそれだけのことなのに」

 そうして、あてもなくサザンテラスでイルミネーションを眺めていた。俺を見つけて声をかけたのは、ちょうどそんなタイミングでのことだったのだ。

「気持ちが冷めたとかじゃなくて……十和田くんのことはずっと好きで……ご家族もみんな、こっちが恐縮しちゃうくらい良い人たちだよ……だから嫌なことなんてなんにもなくて……ただあたしが自分を嫌ってるだけで」

 ぜんぶ、ぜんぶ分かってたはずなのに、覚悟だってしたはずなのに。
 積み上げたものが、ぜんぶ足元から崩れていっちゃう感じがして。
 おかしいよね、元いたところに戻るだけなのに、なんでだろうね。

「ほんとうにごめんね……迷惑かけて、ごめん……」

 さら、さら、と。かすかに潤んだ声は、さながら雪粒を思わせた。俺にできることと言えば、その言葉たちの受け皿になること。そして、傘を差し出すくらいのことだった。

「……謝る必要なんて、ないよ」

 夢のような時間だった。
 正直に言うなら、今この瞬間すらもまだ夢の中ではと疑っている自分がいる。まだ夢の中にいさせてくれと願ってもいるけれど。このままずっと居ていいよ、と言うのは、とても簡単なことだけれど。でも、ユキねえが本当に望んでいたのは、きっと、そんな台詞ではなかったのだ。

「いっしょに、帰ろうよ」

「……うん」

 ちいさく洟をすする音とともに、柔らかい声が部屋に響いた。

「アキオといっしょに、帰るよ」

 暗がりに慣れた視界の中心、ふわりと笑顔が咲くのが分かった。

「……ねぇアキオ、帰ったら『森小屋』いこうね」
「いいね」
「……地元の企業も少しは考えてみたらいいんじゃない、なんてね」
「検討してみるよ」
「……結婚式の招待状、送ったら来てくれる?」
「絶対行く」

 俺は知っている。
 もう「森小屋」が数年前に潰れてしまっていることを。

 俺はまだ伝えていない。
 今日まさに、狙っていた外資系企業から内定が出て、大学に報告してきたことを。

 でもそれは、いま伝えなくてもいいことだ。
 そんな細かいことよりも──今は、ほら。

「見てよユキねえ、月が綺麗だよ」

 腰を上げて、カーテンを開けた。隙間からわずかに差し込んでいた月明かりが、部屋いっぱいに広がった。思い出したのは、今朝の天気予報だ。今日は快晴。そして、今年最後の満月「コールドムーン」が昇る日だった。

「見えないよ、座って!」

 言葉よりも先に飛んできた指が、俺のシャツの両裾をつかみ、下に引っ張った。確かにそうだ、と慌てて腰を下ろしたけれど、ユキねえの両手は裾をつかんだままで。それがなんだか、自転車に二人乗りしてるみたいで無性におかしかった。

「きれいだね」と潤んだ声が首筋を撫でた。
 ただただ綺麗な、虹のかかってない月を眺めながら、俺は「でしょ」と笑い返す。

 たぶん俺は、これから先、今日のことを思い返しては泣くのだろうけれど。なんだか今は、涙を貯めておきたいなと思ったのだ。もっときれいなものを、より輝かせるために。

 ──陽の光のもと、ユキねえの花嫁姿をきらめかせるために。


<了>

Illustration:斑(超水道)

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