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にーちゃんみたいになりたくなかった話

 兄ちゃんが亡くなった。東京のマンション自室で。死因は病死、いわゆる「孤独死」。俺がまだ、中3の頃のことだ。

「……にーちゃんは、東京に行ったりしないよな?」

 地元の葬儀でそう尋ねた俺に、彼はゆっくりと頷いた。

「行かないよ」

 たぶん、と小さく付け加えたのを、俺の耳は聞き逃さなかったけれど。その自信なさげな面持ちを、見ないようにもしたのだけれど。それでも、俺はにーちゃんのことを信じようとしていたのに。

***

「俺、ワセダに行きたいと思ってます」

 高校最後の夏休み、その直前で催された三者面談。担任教師から志望校を問われた俺は、すぐさまそう答えた。

「本気で言ってるの?」
 隣席の母さんが、すかさず口を挟む。
「……あんた、そんなの一言も言ってなかったじゃない」

 そりゃそうだ、なぜなら志望校を決めたのは今日の昼休みだったし。もっと言うなら、東京の大学に行こうと思ったのは3日前のことで。でも、バカ正直にそう告白したところで、火に油を注ぐだけだから。

「俺なりに色々考えた結果なんだよ」
 すました顔でそう答えて、俺は担任に向き直る。
「将来は編集者になりたいんですけど、出版関係ってやっぱり東京が強いじゃないですか、だから──」
「あんた、そんなの一言も言ってなかったでしょ!!」
「だーかーらぁー、ここでそれを言ってんだって!!」

 そこから先はもう、だいたい予想通りの展開だった。母さんは「何も聞いてない」の一点張りで拗ねた挙げ句にゴネて、話も全然進まないうちに面談時間の30分が過ぎ──担任からは「今の成績じゃ少し厳しいな」と苦笑混じりの評価をたまわり、最後に「ご家族でよく話し合ってくださいね」と締めくくられた。

 話し合いが必要なのは実際そのとおりで、だけど、そのタイミングは別に今日じゃなくてもいい。というか、する気になれなかった。そういうわけで俺は「食欲がない」というお決まりの文句をたてに、一家団欒の晩飯もとい尋問会をスルーして、さっさと風呂を済ますことにした。

 溜息が湯船に溶けていく。付け焼き刃もいいとこだ、とは我ながら思う。将来は編集者──という宣言にしたって、「東京じゃないとダメな理由」として最も聞こえがよさそうだと思ったからで、正直なところ志望度は高くない。事前にネットで仕入れた、どこぞの編集者インタビューをそのまま拝借してみたものの、熱意を持って喋れたかといえば自信もない。

「ヒトシ、東京に行きたいんだって?」
 半開きになった出窓の向こうで、父さんの声がする。
「そうよ、もう困っちゃって」
 間髪入れず、母さんのうんざりしたような声までも。

 台所と浴室が近い間取りは、こういう時に不便なのだ、本当に。換気扇が、聞きたくもない両親の会話を運んでくるから。おまけに、今日の晩飯と思しき油炒めの濃い匂いまでもが流れ込んできて、せっかく入浴剤を入れたというのに台無しだった。

「このまえ『にーちゃん』が帰ってきたでしょ?」
 声のトーンを一段高くして、母さんはつづけた。
「──あの子、きっと『にーちゃん』みたいになりたいのよ」

 出窓を力任せに閉めた。勢い余って、思いのほか大きな音が響いてしまった。後で小言を食らうかもしれないけれど、もはやどうでもいい。

 母さんの見立ては、あながち間違っちゃいない。でも、点数としては100点満点で50点といったところか。東京の大学を受験すると決めたのは、確かに『にーちゃん』の影響だった。

 でも俺は、にーちゃんみたいに絶対なりたくないのだ。

***

 にーちゃんと初めて会った時のことは、よく憶えている。

 俺がぴかぴかの小学一年生で、兄ちゃんがきらきらな高校一年生だった頃のこと。

「ヒトシ、ゲームしに行こうぜ」

 休日の昼下がり、兄ちゃんは唐突にそう提案した。近場のゲームセンターにでも行くのかと思いきや、連れ出された先は近所の一軒家だった。

「来たぞー、にーちゃん」

 兄ちゃんが慣れた手付きでインターホンを押すと、すぐに男の人が出てきた。癖の強い天然パーマ。シュッとした顔立ちに、黒縁メガネが似合っている。その彼こそが「にーちゃん」だった。

 挨拶もそこそこに居間へと通された俺は、思わず目をみはった。ゲーム機が、ある。それも、ちょうどその頃にテレビCMでよく流れていた人気の据置機だ。ふとテレビ台に目を移せば、ゲーム機は他にも数台あって、しかもゲームソフトが本棚よろしく整然と並んでいる。我が家ではゲーム禁止令が敷かれていたから、俺にとってその光景はどこかファンタジーじみて見えた。

 プレステで人生ゲームに興じつつ、俺はにーちゃんとお喋りをした。兄ちゃんいわく、高校の同級生で、実は中学時代からの友人らしい。名字が「仁井(にい)」だから「にーちゃん」。てっきり俺は、呼び名からして兄ちゃんの先輩もしくは兄貴分なのかと思っていたのだけれど。

「にーちゃん、兄貴ってガラじゃねーもんな」

 俺の見立てに、兄ちゃんは愉快そうに笑った。

「むしろ弟だったら楽しそうだよな、ウチの養子にならね?」
「ヤだよ」
「んだよ、自動的に弟もできるぜ? お前きょうだい羨ましいって言ってたじゃん」
「言ったけどさ、お前んちゲーム禁止だろ、だからダメ」
「じゃあ僕、にーちゃんの弟になる!」
「あっずりーぞヒトシ、じゃあ俺は仁井家の長男になる!」
「どんだけゲームしたいんだお前ら」

 いま思い返しても、アホらしいやりとりだった。でも、心躍るひとときだった。当時小1の俺にとって、年上の「おにいさん」と喋ることなんて、それこそ兄ちゃんを除けば初めてのことで──最初のうちこそ緊張したけれど、夕方にお暇する頃にはすっかり打ち解けていた。俺にはもう兄ちゃんがいるけれど、にーちゃんが何かの事情で二人目の兄になったらステキだな……そんな妄想をしてしまう程度には。

 その日をきっかけに、にーちゃん家は俺たち兄弟の憩いの場となった。休日になるたび、兄ちゃんと一緒ににーちゃん家へ向かい、そのまま夕飯をご馳走になることも珍しくなかった。色々なゲームを遊ばせてもらった。しだいに俺と兄ちゃんは、互いになけなしのお小遣いを出し合ってゲームソフトを買い、にーちゃん家に置かせてもらうようにもなった。兄弟で買うのはいつも、廉価版で再発売された「過去の名作」で、なかでも特に多かったのはRPGだった。

「こういう風になりてーよな」
 世界を冒険する主人公を操作しつつ、兄ちゃんはよく言ったものだった。

「お前はなれるんだから、なればいいじゃん」
 あっけらかんとにーちゃんが返すのも、お決まりのパターンだ。

 俺も俺で、にーちゃんの言葉に「そうだよ」と頷くのが常だった。

 兄ちゃんは人気者だった。にーちゃんいわく、同学年はもとより上級生からも可愛がられ、下級生からは慕われていると聞いていた。同級生の女子から「お兄ちゃんカッコいいよね」と言われたのも、一度や二度じゃない。ただでさえ幼かった自分の狭い世界において「主人公」という言葉が当てはまる人間を、俺は兄ちゃん以外に知らなかった。

「よっしゃ、なるか勇者! にーちゃんは魔法使いな!」
「だから俺は行かないっての」
「僧侶枠ならどうよ」
「そういう問題じゃないんだよなぁ」
「いや、大抵の問題なら解けるだろ、数学全国99位の仁井さんよ!」
「うっさいわ総合全国50位の二木さんよ」

 そしてついに、兄ちゃんは冒険の旅に──
 具体的には、大学進学を機に上京した。

 でも、地元で語り聞かせてくれた将来予想はことごとく外れた。その最たる事柄は、東京で亡くなってしまったことだろう。俺が、中3の頃のことだった。

「……にーちゃんは、東京に行ったりしないよな?」

 葬儀の席でそう尋ねた俺に、彼はゆっくりと頷いた。

「行かないよ」

 たぶん、と小さく付け加えたのを、俺の耳は聞き逃さなかったけれど。その自信なさげな面持ちを、見ないようにもしたのだけれど。それでも、俺はにーちゃんのことを信じようとしていたのに。

 果たして、俺が高校に上がると同時、にーちゃんは上京した。

 いつものように彼の家へ遊びに行ったある日のこと──その事実を、おばさんから知らされた。

「ヒトシくんには、てっきり言ってるものかと……」

 そこで、今更のように気付く。俺はにーちゃんの連絡先を知らなかった。そもそも今まで、知る必要もなかった。近くにいるのが当たり前すぎて、そんな発想すら浮かばなかった。おばさんは申し訳なさそうに肩を縮こまらせつつ、連絡先を教えようとしてくれたのだけれど、こちらから丁重にお断りした。

 東京行きを伝えてくれなかったのは、要するに教えたくなかったということだ。あるいは、必要性を感じなかったというわけだ。どちらにせよ、そんな俺ににーちゃんの連絡先を知る資格などないように思えた。

 この先ずっと、にーちゃんは東京で暮らし続けるのだろう。

 ──そう思っていたのも、つい1週間前までの話。母さんから「にーちゃんが帰ってきた」と唐突に聞かされたのだ。

 ──そして、その本人と対面したのがつい3日前のこと。お遣いでスーパーに行きしな、道端でばったり遭遇してしまった。

 およそ2年ぶりに見るにーちゃんは、容姿について言うならばほとんど何も変わっていなかった。ただ、その代わりというべきか、全体的にくたびれた雰囲気をまとってもいた。

「久しぶり」と声をかけてきたにーちゃんに、俺も反射的に同じ台詞を返した。それが、自分なりの精一杯だった。一方のにーちゃんは、何か言いたげに視線を所在なく漂わせていて──

 あっ聞きたくない、と直感した。

 9割がた、次に出てくるのは「東京で上手く行かなかった話」だ。残りの1割は「東京が素晴らしかった話」だろう。かつての兄ちゃんも、そうだった。どちらにせよ、傾聴したいとは到底思えなかった。

 結局、俺はにーちゃんの言葉を待つことなく──「じゃあね」と話を打ち切ったのだった。

***

「いきなり東京って……そりゃまー驚くっしょ」

 1学期最後の放課後、友人と自転車を漕いでの帰り道。俺の面談話を聞き終えた彼は、開口一番にそう言った。もともと二人して地元の国立大を第一志望に据えていて、「一緒に頑張ろうな」なんて言い合っていたのだけれど、結果的には俺が裏切った形になる。

「ごめんな」
「や、それは全然気にしてないけど……親、説得できたの?」
「全っ然。『東京に出る必要ないだろ』って聞く耳ナシ」
「まぁ、ヒトシん家のあたりってこれから整備されるもんね」

 緑あふれる坂道を登りきったところで、ようやく視界が開けた。ビルどころか3階以上の建物すら滅多にない地域とあって、丘からは町全体を一望できる。紛うことなき田舎町、でも別に不便というほどではない。だいたいの店はあるし、そこにないものはネット通販に頼ればいいわけで。

 なんでも俺の住んでいる地域では、数年後に二つの国道をつなぐバイパス道路が開通するらしい。交通の便も格段に良くなるし、それを見込んで色んなお店が道路沿いに建つだろうしで、一気に都会っぽくなる……って両親は喜んでいたっけか。

 だから──実際のところ東京に出る必要なんてないのだけれど、だからこそ怖い。

「いつかどのみち、俺は東京に行きたくなる気がするんだよ」

 昔の兄ちゃんのように、なんだかんだと理由をつけて。今のにーちゃんのように、後戻りできないタイミングで。ならば、その「いつか」はできるだけ早めたほうがいいと思うのだ。

「しっかしワセダかー、そりゃまた大きく出たね」
「ムリだと思う?」
「学部にもよるけど、国英社の三科目だけって考えれば……ヒトシならギリどうにか行けそうかな」
「俺もそう思う」
「けど、東京に行くってのが第一ならさ、少しランク下げてもよくね?」
「いや絶対ムリ、親が許してくんないし」

 滑り止めは地元だけしか許さない──両親からは、そう釘を刺された。東京の大学を受験するなら、ワセダが最低限。加えて、受験を許可するかどうかは、秋までの模試の結果による。

 厳しめの条件を課されたことで、むしろ俺は内心ほっとしていた。そうでなくては意味がない。結局のところ、俺は東京に拒絶されたいのだ。真正面から真剣に取り組んで、言い訳の余地なく、完膚なきまでに叩きのめされる。今後、変な気を起こさないためには、そのステップが必要不可欠なのだ。

「応援してる」下りの坂道を流しながら、彼は笑った。
「がんばるよ」俺も俺で、微笑みを返した。

 兄ちゃんみたいになりたくないから──。

 呟いてみた一言は、風に紛れて自分の耳にすら届かなかった。

***

 兄ちゃんは、俺よりもずっと口が達者なひとだった。

 彼が「東京行き」を宣言したのは、確か高3の冬。センター試験が終わった直後のことだ。一家そろっての夕食の席で、兄ちゃんはあっけらかんと告げた。

「俺、東京の大学を受けるから」

 もともと彼が志望していたのは地元で最難関と称される国立大だった──と知るのはもっと後になってからのことで、小3だった俺にはその言葉の意味がよく分かっていなかった。ただ、「トーキョー」という地名だけが耳に心地よく響いた。

 父さんも母さんも、二人揃ってその場では反対したけれど、数日もした頃にはあっさりと「東京行き」を認めていた。(今にして思えば、どうやって両親を言いくるめたのか、兄ちゃんには詳しく聞いておくべきだったのだ)

 兄ちゃんは、俺よりも格段に頭のいいひとだった。

「滑り止めは地元だけしか許さない」「東京の大学を受験するなら、ワセダかケイオーが最低限」──そんなふうに両親は口を酸っぱくして言っていた憶えがある。けれども、兄ちゃんにとってはワセダもケイオーも滑り止めだった。結果として、兄ちゃんはどちらも受かり、ケイオーに進学することになったのだ。

 上京する日の朝、兄ちゃんは俺にこっそり耳打ちしたのだ──「東京でビッグになるからな」。成績がいいくせに、頭の悪そうなことをいとも爽やかに言ってのける。そんな兄ちゃんのことが、俺はとっても好きだったんだ。

 それから一年ほど後、兄ちゃんはケイオーを中退した。
 ──起業をするとのことだった。

 そのまた一年後には、弁護士を目指すと言い出した。
 ──会社は辞めたとのことだった。

 今まで以上に帰省の頻度が上がり、そのまま家に居座る時間も延びていった。そんな兄ちゃんを見かねてか、両親は事あるごとに注意をしたけれど、のらりくらりとかわされるのが常だった。ある意味、それは彼なりの勉学の成果だったのかもしれない。己を擁護するのが上手くなった、その一点においては。

 いつからか、兄ちゃんが帰省するたび、俺はにーちゃんの家に身を寄せるようになった。

「──兄貴は元気か?」
 二人して対戦もののゲームに興じつつ、にーちゃんが問う。

「……元気だよ」
 俺はいつものように答える。

 そうか、とにーちゃんは頷くだけで、俺もそれ以上は話さなかった。話すべきではないと思った。親に金を無心したり、それでたびたび喧嘩しているなんて、とてもじゃないが聞かせられたもんじゃない。一方のにーちゃんは、かつて兄ちゃんが目指していた地元の難関国立へ真面目に通っていたから、なおのこと。

 代わりとばかりに、俺は中学校でのあれこれを喋った。校舎のボロさだとか、古参の体育教師が熱血すぎてウザいとか、しょうもないことをべらべらと語り続けた。OBたるにーちゃんにその手の話はウケがよくて、「懐かしすぎな」と笑いながら、さらにネタを提供してくれたりもした。にーちゃんもにーちゃんで、高校での色々なエピソードを面白おかしく語り聞かせてくれたものだった。

 中学に上がって分かったことが、2つある。
 馬鹿話とゲームは相性がいいこと。
 それから、兄ちゃんはそんなにゲームが上手くなかったことだ。

 小学生の頃は横で見ていて「すげー」と素直に思ったものだけれど、いざやり慣れてみると、豪快に見えたプレイもただのゴリ押しだったことに気付く。アクションもので言うなら、反射神経や動体視力は良いのだけれど、立ち回りがてんで不器用なタイプだったんだ。かつて3人で遊んだゲームを、にーちゃんと2人で遊ぶにつけ、嫌でも分かるようになってしまった。

 高校を卒業してから、兄ちゃんはにーちゃんに会おうとはしなかった。何度か俺からも誘いはしたけれど、「俺がもっとビッグになってからな」と曖昧に笑うだけだった。そのくせ、俺が帰宅すると決まって「にーちゃんは元気か?」と聞いてくる。にーちゃんもにーちゃんで、気遣うそぶりを見せつつも、決して会おうとはしないのだ。暗黙の了解がそこにはあるらしくて、俺はそのたび苦笑いしたものだった。

 そうして、俺が中学に上がった頃──兄ちゃんは、ぱたりと帰ってこなくなった。

「再会」したのは、それからしばらく後のことだ。

 中学進学と同時に買い与えられたスマホがしっくりと手に馴染んだ、中2の春。自室でTwitterのタイムラインをぼうっと眺めていたところで、一つの投稿に目が吸い寄せられた。どこぞの街の風景を写したと思しき、画像だけのツイート。投稿主は、いつフォローしたかも分からないような鍵アカウント。

 ふと気になってツイートを遡ってみれば、その正体はすぐに判明した。ポストカードと、青いハンカチの写真──それから「弟からプレゼントもらった」との一文。

 それは俺が兄ちゃんの誕生日にと贈ってあげたプレゼントで、同じような風景画像がずらりと並ぶなか、やけに異彩を放っていた。ぞっとしたのが半分、ほっとしたのが半分。なんとなく「お気に入り」の星マークを片っ端から押していくと、応じるように兄ちゃんのアカウントから「お気に入り」の通知が山のように来た。とりあえず生きてはいる、その事実だけがせめてもの救いだった。

 兄ちゃんのアカウントは、代わり映えのしない風景写真を来る日も来る日も投稿し続けていた。いつも同じ構図の街並み、違いといえば天気と時間帯くらいのもの。それを俺は逐一お気に入りにして、兄ちゃんもまたお気に入り返しをする。それが、俺たち兄弟の営みだった。

 それも、今となってはもう昔の話でしかない。
 兄ちゃんのアカウントは今もまだ残っている。
 時を止めたまま、電子の海に漂い続けている。

***

 時間は待ってくれない。
 そんな当然の事実を、嫌というほど思い知らされる人生18年目だった。

 高校受験の時にも似たような感慨を抱いた憶えはあるけれど、言ってしまえば「とりあえず入れる高校に入った」というだけのこと──お世辞にも切迫感があったとは言い難く、今回の大学受験とは比べるべくもなかった。実力以上の物事に挑む、ただそれだけのことで、時の流れがこんなにも速く感じるなんて思いもしなかったのだ。

 基礎固め、そして過去問分析。やることと言えば、極論その二つのみ。予備校に行ってもいないのだから、なおのこと量をこなすしかない。夏休みが明けてからというもの、受ける模試では志望校欄をワセダの学部で埋め尽くした。合格判定はだいたいE、よくてDといったところだ。

 なかなか結果には結びつかない。
 そのくせ俺は喜んでいた。
 やっぱり兄ちゃんは凄かったんだ、って。

 けれども現実的な問題として、模試である程度の結果を残さなければならない。それができなければ、俺は挑戦すらできずに終わる。焦燥が最高潮に高まった秋頃、転機は訪れた。ワセダの専用模試で、初めてのC判定。そして年内最後の全国模試ではB判定をマークした。もっとも、この模試に関しては、判定が甘いと受験生の間では有名なものだったけれど、結果は結果だ。

「ワセダ、受けてもいいだろ?」と夕食の席で聞いた俺に、両親は「仕方ないな」と、それはもう渋い微笑で頷いたのだった。

 たぶん、その時の俺は気が大きくなっていたのだと思う。下校途中、にーちゃん家に立ち寄ってしまう程度には。いや、正確に言うならば「立ち止まった」だけなのだけれど。

 数年前に潰れてしまったファミレス、その裏手にある無駄に広々とした駐車場を挟むようにして、仁井邸は存在している。駐車場の柵を足休めに、俺は自転車に乗ったまま、家を見上げた。年季の入った瓦葺きの一軒家。切れかかった街路灯の明かりも相まって、余計に古びて見える。

 ──めちゃくちゃ久しぶりだな。

 本来ならば、にーちゃん家を経由するこのルートこそが俺にとって正規の通学路だった。でも、にーちゃんが戻ってきたと聞いてからは使わなくなった。5分ほどの遠回りになる迂回ルートと引き換えに、俺は彼と遭遇する確率を下げたわけだ。

 久しぶりといえば、家に明かりが灯されているのもそうだ。5年前におじさんが亡くなり、2年前におばさんが倒れた。入院生活を経て、今は介護施設にいるらしい。そういう事情で、仁井家は長らく空き家同然だったわけで……。

 ぼんやりと物思いにふけりかけた刹那、視界がぱっと明るくなった。家の車庫にある防犯ライトが点いた──そう理解したのと、真下の人影に気付いたのは、ほとんど同時だった。

「……ヒトシ?」

 にーちゃんが、いた。黒のスーツにネクタイというフォーマルな出で立ち。ナイロン袋を手に提げているあたり、コンビニにでも行っていたのか。そんな呑気な思索とは裏腹に、俺の身体は驚きの素早さで逃亡を図っていた。

「──ヒトシ!」

 背中に追いすがる声を置き去りにして、ペダルを強く踏み込んだ。

***

 東京を訪れるのは、人生で二度目のことだった。

 最初は中3の春で、修学旅行先として訪れた。とはいえ、旅行そのものは印象にあまり残っていない。明確に憶えているのは、班単位の自由行動時間での出来事──乗っていた電車が何かのトラブルで運休になってしまった時のことだ。

 途中駅で放り出された俺たちは、そのまま構内で立ち往生する羽目になった。「あーあ、予定めちゃくちゃじゃん!」「一応先生には連絡したけどさ」「もうこれ以上は回れないね」──鬱憤を晴らすべくクラスメイトたちとお喋りに興じつつ、俺はスマホでせわしなく情報を収集していた。降ろされた駅名、記憶の隅にあるマンションの名称、そして運転再開までの見込み時間──。

「ごめん、ちょっと腹痛いからトイレ」

 近くにいたリーダー役の男子に耳打ちして、俺はひっそりとその場から離れた。あらかじめ開いておいた地図アプリを頼りに、小走りで駅を抜け出す。目的地は、兄ちゃんの住むマンションだ。数ヶ月前にメールで教えられた引越し先の住所は、偶然にも俺が降ろされた駅に近かった。地図アプリにいわく、大人の足で徒歩5分。しめて往復10分。そしてネットの路線情報によれば、運行再開までにあと30分はかかるらしい。

 いける、と感じた。兄ちゃんに会いたかった。住所連絡のメールに「いつか遊びに来いよ」と書かれていたことも、突発的な欲求を後押しした。住宅街は思ったよりも入り組んでいて、ちょっと道に迷ったけれど、どうにか到着することができた。

 息を整え、部屋番号を確認してインターホンを押そうとした瞬間、スマホが震えた。着信表示は、自由行動班のリーダーからだ。

「ヒトシさ、どこにいんの?」
「……ちょっと外。駅のトイレが空いてなくて」

 もうすぐ戻ってくるから、そう続けようとしたところで、

「もう電車動いてるよ!」
 だから早く戻ってきてくれ、と焦りを含んだ声音が耳に染みた。

 スマホのロック画面に目を移す──時刻表示は15:33。

 予想以上に時間を食ってしまっていた。そして、思ったよりも運行復旧が早かった。間が悪い、けれども仕方ない。サプライズ訪問はまたの機会に、道順も憶えたことだし──そう割り切って、俺は踵を返したのだ。

 我が家に兄ちゃんの訃報がもたらされたのは、それから1週間ほど経ってからのことだった。

 マンションの自室で亡くなっているところを、大家が見つけた。滞納続きだった家賃について話し合うつもりだった、という。警察の調べたところによれば事件性はなく、死因は病死──ニュース記事風に言うならば「孤独死」とのことだった。

 そうして、兄ちゃんは骨壷となって我が家に帰ってきた。

 享年、23歳だった。

***

 鉛筆の走る音が、さざなみのごとく大講義室に響いていた。

 受験最終日、そのフィナーレである英語の試験。出題形式が微妙に変わり、出題傾向に至っては一変した。この学部、この科目だけに限った話じゃない──今年のワセダは、総じてその印象が強かった。普段どおりの自分でいけ、そんな受験のお約束は真理に違いないけれど、相手が変わればひとは簡単に「普段どおり」でなくなってしまうのもまた事実なのだと思う。

 誰もが集中できているわけじゃない。泣いているやつがいた。早々と机に突っ伏しているやつもいた。俺だって、いつもの俺じゃない。だって、練習とは比べものにならないくらい喜んでいる自分がいる。難化した設問が、今のお前じゃ力不足だと真っ向から跳ね返しにきてくれる。自分の至らなさを、ひいては難なく突破した兄ちゃんの凄さを痛感させてくれる──。

 試験終了の合図と同時、ああ、全落ちだなと、俺は沸き立つ心のままに思った。

 各講義室から吐き出された人波の合間を抜け、解答速報も受け取らずに構内を出た。後は宿泊先のホテルに戻るだけ。でも、その前に一つだけ、やりたいことがあった。それは、ワセダ受験が許可された時から心に決めていたことだった。

 3年ぶりに訪れたマンションは、記憶よりもずっと寂れていた。それは夕暮れに訪れたからなのか、亡くなった兄ちゃんの面影を俺が勝手に見出しているせいか。階段をのぼり、開け放たれた扉から屋上へ出ると、肌を刺すような寒風が頬に吹き付けた。かつて兄ちゃんが住んでいた、道路側に面した角部屋──その真上。予想通り、そこには求めた風景が広がっていた。

 3年前、スマホ越しによく見た東京の街。兄ちゃんがTwitterに上げていた写真と同じ景色。俺がサプライズ訪問を敢行したあの日、兄ちゃんは最後の写真を遺していた。忘れもしない、ドアの前で俺がクラスメイトとの通話を終えた時刻が「15:33」──そして、そのツイートの投稿時刻は「15:34」。

 あの日。あの時。兄ちゃんは確かに生きていた。

 ──もしも、道に迷うことなく辿り着いていたならば。
 ──もしも、運行再開がもうすこし遅れていたならば。
 ──もしも、あの時インターホンを押していたならば。

 兄ちゃんは、今もまだ生きていたかもしれなくて。

「なんで、しんじゃったんだよ」

 答えはどこにもない。
 おそらくは、当の本人だって分からないはずで。

 頭では分かっていた。
 きっと、それは円周率を計算するようなもので。

 永遠に割り切れないまま、でもどこかで切り捨てなければいけなくて。

 でも、今の俺にはどちらも選べないから、ただ泣くしかなかったんだ。

***

 宿泊先のホテルに帰り着いたのは、夜の7時をまわった辺りだった。

 1週間にわたり世話になったこの部屋も、明朝10時にはおさらばとなる。帰りに買ったコンビニ弁当で夕食を済ませ、手早くシャワーを浴びて──それから最後に、身の回りの持ち物をキャリーケースに詰め直した。それが終われば、いよいよ後はやることがない。手持ち無沙汰を紛らわすべく、俺は今日まで触れることすらしなかった備え付けのテレビを点けた。

 何本かCMが流れたところで、折よく番組が始まる。それは、企業の密着取材がウリの経済ドキュメンタリーだった。父さんがいっとう気に入っているテレビ番組で、我が家では夕食時に必ず流れている。なんだか、無性にほっとした。実家のような安心感。いや、東京で流れているキー局の放送にそんな感慨を覚えるのも変な話だけれど。

 今回特集されていたのは、とあるベンチャー企業だった。四角に切り取られた東京の風景、ナレーションで告げられる区の名前。このホテルから、行こうと思えば30分とかからずに行ける距離。紛れもなく事実なのに、なんだかRPGの世界に迷い込んだような非現実感がある。ベッドに横たわりながら、映像の移り変わりをぼんやりと眺めていたところで──ふいに、見知った顔が現れた。

 にーちゃんが、テレビ画面の向こうにいた。

 ほとんど反射的に、俺は跳ね起きていた。他人の空似ではない。その証拠に、表示されたテロップにはにーちゃんのフルネームと年齢──「仁井孝雄さん(27)」──が表示されている。

 そばにいる、社長らしき恰幅の良いおっさんが「我が社で期待のホープ」と満面の笑みで紹介しているけれど、当のにーちゃんはあくまでも淡々としたものだった。アイオーティーだの、スマート農業だの、俺には分からない単語ばかりだったけれど、彼がIT系の何かで成功したのだとは分かった。呆然としている俺を前に、にーちゃんはわずかに表情を緩めてつづけた。

 ──「海外で受け入れられる事業にしたいですね」。

 どれくらい放心していたのだろう。我に返った俺は、すぐさまスマホへ手を伸ばしていた。すぐさま実家に電話をかけると、数回のコールもしないうちに母さんが出た。テレビ見た?と俺が問うよりも先に──母さんは「すごいじゃない!」と興奮に満ちた声をかぶせた。

「あんた、うかってたわね!」
「……は? なにが?」
「なにが、じゃないでしょ、ワセダよ! 最初に受けた学部、合格してるの!」
「──えっ?」

 そういえばもう結果出てるんだっけ、つーかなに勝手に息子の合否を調べてんだ、いやちょっとマジでありえねぇ……

 矢継ぎ早に展開された思考は、しかし、丸められた紙屑のごとく収束する。


 ──受かった。


 ──受かっちまったんだ。
   ・・・・・・・・・


 よく頑張ったね、と母さんの潤んだ声がして、耳の奥でぱきんと凍る。

 喜んでくれるのはもちろん嬉しいし、親として自然な振る舞いなのだろうけれど。でも、今の俺にとっては、もはやどうでもいいことだった。そのまま感慨に浸ろうとする母さんを牽制すべく、俺は俺で言うつもりだった本題を一気にまくし立てた。

「あのさ、いつも父さんが見てるテレビあるじゃん、ほらあの企業を特集する系のやつ、さっきにーちゃん出てたんだよ、すごくね、すごいよな、マジやばいでしょ、ねぇ」

「えっ、そうなの? それはすごいねぇ」

「いやリアクション薄すぎでしょ、あのにーちゃんが全国デビューだよ!?」

「じかに見てないから実感がねぇ……あんたの合否を調べるので忙しかったのよ、今日はお父さんもまだ残業で帰ってきてないし」

 あまりの手応えのなさに脱力しかけた俺をよそに、母さんは「そうそう」とつづけた。

 ──にーちゃんといえばね、今朝うちにご挨拶に来てくれたのよ。

 ──あんたが預けてたゲームの山をね、わざわざ返しにきてくれて。

 ──“今までありがとうございました”って……。

***

 実家から遠く離れた東京を、今日ばかりは呪わずにいられなかった。

 飛行機で2時間。
 空港から都市部の駅まで1時間。
 そこからさらに電車と私鉄バスを乗り継いでもう1時間。

 実家最寄りのバス停に降り立った時には、すでに日が傾いていた。

 ただひたすらに走った。転がしていたキャリーバッグを途中からは抱えて、無我夢中で駆けつづけた。目指す先は──実家ではなく、にーちゃん家だ。

 見晴らしだけはすこぶる良い、廃ファミレスの駐車場。その車止めポールに背を預ける、見知った後ろ姿。彼の見つめる先には、立ち昇る土煙と──重機と──そして、家だったモノ。

 “にーちゃん、引っ越すらしくてね”

 “お母様がこのまえお亡くなりになったって”

 “区画整理のこともあってね、あのお家も取り壊すらしいの”


「──にーちゃん!!」


 振り向いたにーちゃんは、表情ひとつ変えずに「よう」と言った。

「……なんで、」
「立ち会いだよ。我が家の最後ぐらい、見届けないとな」

 がらり、応じるかのごとく外壁が剥がれていく。

「──なんで、言ってくれなかったんだよ!!」
「……ごめんな」

 ぐらり、頭を垂れるように柱が崩れ落ちていく。

 ムカついて仕方なかった。小学生にも劣るような八つ当たりしかできない自分に。心の底からクソだと思った。自ら避けておいて、今更でしかない台詞を吐く自身が。

 そんな自分を、メタクソに怒ってほしかった。けれど、にーちゃんは大人すぎるほどに大人であって、煽りに乗ることはしなかった。代わりに、寂しげな目で俺を見つめるのみだった。

「おばさんから聞いたよ。大学合格、おめでとう」
「……ありがとう」

 ともすれば湿気を帯びそうになる声を咳払いで乾かして、俺はつづけた。

「受験が終わってから、兄貴がいたマンションに行ってさ」
「……そうか」
「いい景色だった。さすが東京だなって、そう思ったんだ」
「いいよな、あのマンションの立地。俺も一度行ったから、分かるよ」
「……にーちゃんも?」

 俺の問いに小さく頷いて、にーちゃんは再び口を開いた。

「3年前だよ。『東京に来たときは飲もうぜ』ってメールで誘われてさ。ちょうど俺も東京出張を控えてたから、二つ返事でOKしたんだ」

 兄貴は起業した当時、にーちゃんを会社に誘ったという。けれども、にーちゃんは応じなかった。「お前も大体は察してただろうけど」そうにーちゃんは前置きして「あいつが大学を中退してからは、お互いろくに連絡とってなかったからさ」。

 だから──連絡が来たときは、正直びっくりしたという。尚更、にーちゃんは兄貴の誘いが嬉しくて仕方なかった。そのまま兄貴と待ち合わせ日時を決めて、いざ当日になって──でも、兄貴が待ち合わせ場所に現れることはなかった。メールは無反応、電話をしても繋がらない。結果的に、にーちゃんはすっぽかされた形になったわけだ。マンションの場所は事前に教えられていたものの、仕事終わりで疲れてたのもあって、行く気にはならなかったという。

「その1ヶ月くらい後だよ。おばさんから、あいつが死んだって聞かされた。病死だって伝えられたとき、俺は後悔したんだ。もしもあの日、俺がマンションに行ってたら……あいつは、今も生きていたんじゃないかって」

 ──ごめんな、助けてやれなかった。

 そう、にーちゃんはつぶやいた。

「あいつが死んでから、いくつもの『もしも』を考えた。もしも、あいつの起業話に乗っていたなら──いちばん魅力的だったのは、それだよ。二人して東京に挑み、ぶっ潰される……そういう未来もあったはずなんだ」

 でも、もう兄ちゃんはこの世にいなかった。だから、にーちゃんは一人で「ぶっ潰される」ために上京した。元いた地元の会社を退職し、東京でベンチャー系の求職に勤しんだ。

「がむしゃらに働いたんだ。身体がぶっ壊れても構わない……本気でそう思ってやっているうちに、周囲に認められて、話がいつのまにか大きくなって──気付いたら、海外に行くことになった」

 しばらく、東南アジアでの暮らしになる。
 いつ帰ってくるかどうかも分からない。
 だというのに、彼は。

「いつか、帰ってくるよ」

 たぶん、とそう付け加えた。英単語に置き換えるなら、きっとprobablyじゃなくて、maybeのほうだろう。大人ってのは、いつもいつも、そういう物言いをしやがる。だったらこっちは、とことんガキになるまでの話だった。

「……いつかって、いつだよ」
 俺には分かる。
 今度こそきっと、にーちゃんは帰ってこないのだろう。

「……帰ってくるって、どこにだよ」
 どこにもない。
 帰るべき場所は、今まさに眼前で消えかかっている。

「──俺、帰ってこないかもしれないよ」

 大きく息を吐いて、俺はつづけた。

「東京サイコーってなって、そのまま居座るかもしれない」
「……そうかもな、東京はいいところだから」
「にーちゃんもそう思うだろ? ……だからさ、怖いんだ」

 声が震える。堰を切ったように溢れ、あてどなく流れていく。

「東京でそれなりに頑張って、そこそこ上手くいって、なんで兄ちゃんはダメだったんだろうって──そのうち疑っちゃいそうで怖いんだ。兄ちゃんは別にすごくなかったんだって、そんなふうに、いつか、心のどこかで見下すんじゃないかって──」

「ならないよ」

 静かな、それでいて力強い声が響いた。

「なりたくたって、なれない。俺がそうだったように、お前も。事あるごとに、あいつが上手くいった世界を想像しては、ひとり涙を流すんだ」

 にーちゃんは言った。
 俺たちは、そういう人間なんだと。
 ・・・

「そうして、やっと気付くんだ。憶えておくことしかできないんだって。あいつは途中で死んじまった。間の悪いところで、人よりもずっと早く──それだけなんだよ、それだけだ。かつてのあいつはすごかった。俺の憧れだった。どれだけ俺が上手く長く生きようと、その事実は変わりゃしないんだ」

 だから、とにーちゃんは微笑んだ。

「憶えててくれよ、兄貴のこと……それから、よかったら俺の家があったことも」

 おのずと、俺は頷いていた。
 おそらく、俺はにーちゃんみたいに凄くはなれないけれど。
 それでも、にーちゃんみたいになりたいと、そう思ったんだ。

***

 かくして、俺はワセダに進学した。

 大学はいいところだった。
 知りたいことを、好きなだけ学ぶことができた。

 東京は素敵な場所だった。
 惹かれたものに、飽きるほど触れることができた。

 懐かしい物事に接するたび、兄ちゃんのことを思い返す。帰省で持ってきた東京土産、かつて教えてくれた東京の名所。彼は当時、何を思い、どう感じたのだろうと。

 未知の事柄にぶち当たるたび、にーちゃんのことを思い出す。大学の定期試験、サークル活動、初めてできた彼女とのデート。彼は今頃、どこにいて、何をしているのだろうと。

 そのたび俺は考える。これから、自分はどうしたいのだろうと。

 にーちゃんに近づけたかどうか──。過ごした4年間を振り返ってみれば、ここは正直、我ながら自信がない。ただ、結果として、俺はにーちゃんと違う道を歩むことになった。就活に際して、海外でもなければ東京でもなく、地元に戻ることを選んだ。

 就職先は、市役所職員。そうして、初出勤を目前に控えた昼下がり──地元に戻って早々に、母さんからお遣いを頼まれた。23歳になりたての、春のことだった。

「コーヒー豆をね、買ってきて欲しいの」

 ここらのスーパーにそんなもの置いていただろうか、と訝しんだのも束の間、すぐに母さんは補足を入れた。「近くにね、コーヒーショップができたのよ」なんでも、スタバやドトールといったチェーンストアではなく、個人経営風の店らしい。いわく「シックで品が良い」、もっといえば「オシャレすぎてちょっと入りにくいのよ」とのことで。

「あんた、オシャレなものは東京で慣れっこだし、平気でしょ?」
「なんなんだその論理……」

 地図と品名が走り書きされたメモを片手に、街路を往く。

 高校を卒業した当時に比べれば、このあたりもずいぶんと変わった。

 ──より正確には、変わりきれなかった。
          ・・・・・・・・・

 かつて家々がひしめき合っていた小路は大きく拡張され、二つの国道をつなぐバイパス路線が開通した。そこまでは、よかった。問題は、拓いた広大な土地がテナントで埋まらなかったことだ。各種商業施設の誘致にあたり、地元商店街や不動産会社とのゴタゴタが絶えず──そうこうしているうちに、再開発計画と地元商業コミュニティは共倒れするハメになった。後に残ったのは、数キロメートルにわたるだだっ広い4車線道路、そして柵に囲まれた売地の山だけだ。

 ここは、発展途上のまちだった。
 だからこそ、この目で最後まで見届けたかった。
 近々予定されているという「再々」開発計画に、できる限り上層から携わりたかった。

 ──ふるさとの市役所を志望したのは、そういう理由からだ。

 母さんから「お遣い」を頼まれた時、俺は少し嬉しかったんだ。メモに記された、コーヒーショップの位置。そこはかつて、にーちゃんの家があった場所だったから。

***

 母さんが評したとおり、確かにそのコーヒーショップは洒落ていた。

 レンガ造りの外壁。黒と白を基調としたカラーリング。その落ち着いた佇まいは、一見して都会風とわかるものの、決して浮いているわけじゃない。むしろ、最初からそこにあったかのように、しっくりと風景に馴染んでいた。他にも商業施設が居並んでいたならば、もっと映えたに違いないが……それは高望みというものだろう。

「いらっしゃいませ、こんにちは」

 入店した俺を笑顔で迎えてくれたのは、マスターらしき女性だった。自分よりも年上──年の頃はおそらく30歳くらいか。身にまとう穏やかな空気感が、店内に漂うコーヒーの香りとよく調和している。きれいな人だ、素直にそう思った。せっかくだから、ここで一杯飲んで帰ろう、とも。どのみち、今後ともお世話になるのだろうし。

 母さんご所望の「マンデリン・スマトラタイガー」を100グラム、それからアイスコーヒーを1つ頼み、二人用テーブルでぼんやりと外を眺めていると、

「こちら、お先に豆の方ですね」

 どうも、と俺が会釈したのと同時、相手が向かいの椅子に腰を下ろした。

「──久しぶりだな」

 にーちゃんが、いた。エプロン姿で、さも当然かのように目の前に座っていた。

「え……ちょ、は?」
「なんだ、会いに来てくれたんじゃないのか?」

 涼しい顔でそんなことを宣われても、こちとら理解が追いつかないわけで。

「──えーと、転職?」
「ただの異動だよ、ウチの県に支社ができてな」
「あのIT会社、飲食業まで手掛けてんの……?」
「違う違う、俺の仕事は変わってないし」

 苦笑混じりに手を小さく振って、兄ちゃんはつづけた。

「ここは妻の店で、俺たち夫婦の家で、俺はきょう仕事休みだから手伝ってるってわけだ」
「ふうふ……?」

 おのずと、カウンター奥へ目が向く。マスターの女性が、応じるように会釈した。マジか、そう来たか。

「向こうで出会って、そのまま結婚してな。彼女が日本で自分の店を持ちたいってことで、色々探した結果、ここにした。再開発がまた始まるって話もあったし、土地の値段が安いうちに抑えとくかって」

 どこか照れくさそうに頭をかきつつ、にーちゃんが微笑む。

「そんなこんなで、結局、買い戻したってわけだ」

 3ヶ月前にオープンしてからこのかた、売れ行きは好調らしい。まさかと思って母さんのことを尋ねてみれば「おばさん? もう5、6回は来てくれてるけど?」とのことで、俺はげんなりした。

 つまりは母さんの掌の上だったというわけだ。いや、言えよ。心の準備ってものがあるだろうが。胸の内で悪態をつきつつ、しばらく天井を仰いでいたところで、

「お待たせしました、アイスコーヒーです」

 にーちゃんが、注文の品を手に戻ってきた。よくよく見れば、ちゃっかり自分のぶんも持ってきたあたり、抜け目ないと言うかなんというか。

「土産話を聞かせてくれよ──4年間、色々あっただろ?」
「まぁ、コーヒー1杯じゃ終わらない程度には」
「好きなだけ飲ませてやるよ、就職祝いだ」

「そのぶんお小遣い減らすからね」と即座に奥さんの声が飛んできて、にーちゃんは肩をすくめ、俺は笑った。

 さて、何から始めようか。話したいことも、訊きたいことも山ほどある。俺の東京生活、にーちゃんの海外体験、それから夫婦の馴れ初め話も魅力的だけれど。

 何よりもまず、伝えたいことがある。
 たった一言、4年前に言えずじまいだったこと。
 そうして俺たちはまた、ここから始まるのだ。

「──おかえり、にーちゃん」

<了>

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