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【体験記】本当に母が死ぬ日②~人の世の真実と、魂の世界の真実

母は「殺される」と言って私の家に逃げてきました。

その頃にはもう、A氏の暴力は『従わせ支配するため』なのか、それとも『うごめくエネルギーを吐き出す異常行動』なのかすら、区別がつかなくなっていました。


このお話は前回からの続きです。
【体験記】本当に母が死ぬ日①~幕が上がる時




chapter3:「脅し」――心に深くダメージを与える暴力


A氏の暴力がそこまでひどいとは、私もそれまでは気が付かなかったのです。
身体的な、殴る蹴るなどの暴力はある意味分かりやすいものですが、母は身体に傷が残るような暴力をもう受けてはいませんでしたから。

母が受けていたのは「脅し」――心に深くダメージを与える暴力です。

傍目はためには、例えばアザが出来るとか骨を折られるとか、そういう方がよほど重大に見えます。一方、脅されている事の恐怖は決して他人には見えません。

自分に向かって投げられた包丁が、顔の脇をすり抜け襖に突き刺さる。
菜箸を目の前に突き付けられ、震える手で刺すぞと凄まれる。

布団蒸しにされ窒息する恐怖を味わったり、裸足で玄関を放り出され鍵を掛けられたり、
それらは身体に傷を負わないからといって、笑って平気でそこに暮らしていられる人などきっといないはずです。

そして狂気はついに臨界点に達した


話は冒頭に戻ります。
母が私の家に逃げて来た日――その日は明らかに殺意を感じたそうです。

ベルトをシュッと引き抜き、母ににじり寄ったA氏の隙を突き、母は一目散に着の身着のままバイクにまたがって逃げ出したそうです。

「もう、目がイッちゃってた……」
母のその言葉は真実だろうと思います。


連絡を受けて私の家に向かっていた妹が、母を追って来たA氏の運転する車とたまたま出くわしたそうですが、
A氏は激しく蛇行しながらおかしな方向へウインカーを出したりワイパーを回したり、とても尋常な精神状態とは思えなかったとの事です。

おそらく、興奮のあまり錯乱した状態で運転していたのでしょう。

その後、私自身も母を抱え、何度もA氏と闘いました。
そしてその度に思ったのです。

『この人、言っている内容がその場その場で全く違う。あまりに矛盾が激しすぎるのでは?』

私の頭がおかしいのか?とさえ思えてくる矛盾した会話


ついさっき私の言葉を激しくなじり否定していたかと思うと、その次の瞬間には、私が言っていた内容が『自分の言葉』としてまるごとコロッと置き換わってしまう。

「だから言っただろう!オレは元々そう言っていたはずだ!」
と得意気に説明するそれは、今しがた自分自身が激しく否定していた『私が話した事柄』そっくりそのままなのです。

そして、私が全く言ってもいない(つまりさっきまでA氏側の主張していた事柄)について「オマエの考えは異常だ!」と責め立てられる。

これでは、私は言いたい事を否定されたり言ってもいない事を否定されたり、主張が完全にすり替えられてしまって、
自分が本当は何を言っていたのかすら分からなくなってきてしまいます。

「ちょっとテープレコーダー回してくれない?もう、こっちの頭がどうにかなりそう!」


一体、私の方が狂っているのか?
もしかしたら私の頭はどこかおかしいのだろうか?
話の筋がメチャクチャに混乱し、二転三転。
ちょっと議論しているだけで発狂しそうになってしまうのです。

これを日々受け続けていた母が精神状態に異常をきたしても、何ら不思議はありません。

「お母さんが自分で選んだんだから」と見え透いた助言をくれる偽善者たち


A氏の状態は、医療の現場でボーダーラインと呼ばれる状態に近いと思いながらも、だからと言ってそのまま見て見ぬふりをする訳にもいきませんでした。

ボーダーライン(境界性パーソナリティ障害)/Wikipedia


その当時はまだ子供も小さく、私の周囲は皆こんな忠告めいた助言をくれました。

「お母さんが自分で選んで再婚したんだから、お母さんの問題でしょ。子供に危害が及ぶのも困るし、ここはお母さん自身に任せて、あまり深く関わらない方がいい」

それは一般常識的に見て、当然と言えば当然の正しい考え方なのかもしれません。でもその背後からは、「こちらに危害を及ぼされるのはごめんだ」という声が聞こえていました。

A氏のストーカー的行為は、母や私だけでなく周囲にも及んでいたのです。



周囲に迷惑をかけるのはとても辛い。
申し訳ない思いでいっぱいになりました。

けれど、ここで一番辛いのは当事者なのだという事を、逃れられずにどうしようもなくもがいているのだという事を、本当に理解してくれる人は誰一人いませんでした。


理解されなくてもそれはそれで構わないとは思っていましたが、善人ぶった先ほどの忠告のようなものには吐き気がしました。

「じゃあ、あなたがもし暴力を振るわれていたとしても、あなたは誰の助けも受けず放置されたいの?
鶏ガラのように痩せこけた心身衰弱状態の中でも、力ずくで相手と渡り合い、自己責任だと言ってひとりで解決出来る自信があるの?」

「もし、あなたの母親が目の前で暴力に怯えていても、あなたはそれを横目に見ながら助けもせず、平気で自分の家庭の平和を築くの?」

投げ付けたいそんな気持ちを抑えるのに精いっぱいでした。

統合失調症の原因の一つとされるダブルバインド


精神的暴力の一部にもなり得る『ダブルバインド』という矛盾するメッセージを受けた時、普通の人ならばおそらく混乱するはずです。

こうしろと命じられた事をすると、怒りを買う。
反対に、その通りにしないと、これまた当然怒りを買う。

なぜ勝手にやるんだと言われ、それならと事前に報告すると、今度は判断力がない事で怒りを買う。
どのみち、何をしても相手の怒りを防ぐ術はないのです。

ダブルバインドとは-一般社団法人日本経営心理士協会


これではどっちを選択すればいいのか、その基準に悩み、混乱するのは目に見えています。
どっちを選べば相手の暴力が防げるのか?――おそらくそんな基準などはなく、まさに相手の気分次第なのでしょう。

例えば母の場合は、ある日スーパーの特売でサンマを買わなかった事を激しく責められました。
「なぜ、少しでも家計を安く上げようと努力しないんだ!」

そうやって常日頃からお金の事で暴力を振るわれていた母は、次にサンマの安売りを見かけた時には、もちろんちゃんと購入したのです。

そうしたら、相手の言い分はこうでした。
「なぜ、そんなに安いなら10匹くらい買って冷凍しておかないんだ!オマエには家計を預かる資格はない!」

そして、本当に10とはいかないまでもたくさんの魚を買って帰ると、
「こんなに同じものばかりを俺に食わせて、嫌がらせしたいのか!保存すれば鮮度が落ちる事くらい分からんのか!そうか、腐った魚を食わせて俺を殺す気か!」

何をどう対処しても結局は怒りを買う事になる。
とにかく大げさで、地団太を踏む子供のような言い草です。


日常的にそういう状況下に晒されると、精神的に混乱してしまうのも当然だと思います。
DVや虐待などの圧力の元では、通常の感覚を持つ人ならば次第に気力もなくなり、自力で脱出することすらやがては困難になってしまうものです。

闘ったことは間違っていなかった、と今は胸を張って言える


私と妹は孤軍奮闘で、そんな状況で精神的に追い詰められた母を抱えて闘いました。
今となっては、その選択は正しかったと胸を張って言う事が出来ます。

例え裁判沙汰などのゴタゴタで傷を負っても、もしも暴力の矛先が向けられたとしても、目の前に現実に生命の危機に晒されている人がいる。
そしてその状況を、私ならば何とか変えられるかもしれなかったのです。

この出来事を、私たちの上に降って湧いた「不幸」だと周囲の人々が見ていたのは、仕方ない事かもしれません。

でも、本当は無意味な事なんて何もないと思うのです。
人生上の困難は、生まれる前に自分自身で設定してくるのだという話はよく聞くものです。

――ならば、それは何のために?


その答えを探して、誰もが迷い、何度も間違いを繰り返して戸惑うのでしょう。
情けないくらいにグルグルとさまよっても構わないと、私は思っています。

答えは必ず後から現れます。これは実感として言える言葉です。
散々悩んで道を迷った事も、分からなかった真実も、後からちゃんと「ああ、そういう事だったんだ……」と腑に落ちる日がやってきます。

その時、「私の選択は間違っていなかった」と胸を張れる自分でいたい。いつも、私は自分自身にそう言い聞かせています。

人の目から見た真実と、神様から見た真実は違う


「自分は損をしたくない」
「自分だけはそこに加わらずにいたい」
そんな気持ちがどこかに潜んではいないか、シビアに見つめる事は大切でしょう。

ちっぽけな自分の利得を守ろうとしたり、自分だけが特別に抜け駆けしたいと思ったり。
そんなエゴのささやきは日常的に私たちの身の回りにあふれています。


けれど 本当に誰かの、何かのために心から自分を役立てようとする時……

誰も見てくれていない場所でも、例えそれが損害を被ることでさえあったとしても、自分はきっとこうするだろうという確信が持てるなら、
神様(宇宙のリズム)は必ずその人を守るだろうと私は信じています。


人の目で見える真実と、神様から見た真実は違う。
いつか、見えない世界を語る人にそう教わった事があります。

確かに人の世の正しさと魂の世界の正しさは違うのでしょう。
飢えに苦しむ我が子のためにひとかけらのパンを盗む、その行為は果たして神様の世界で『魂の汚点』としてとがめられるだろうか、という事にもちょっぴり似ている気がします。


死の際に振り返り、自分の生き様を見せられた時、これまで偉そうに人に振りかざしていた偽善やエゴが一体どれくらいあるのだろうか……。

過去の自分を思うと苦しくなるのですが、それに気付いて変えて行こうとする所から、魂の浄化も始まって行くのだと思いたいです。

chapter4:天からのお試し


A氏とのやりとりは、かなりの困難を極めました。

毎日毎日、何度も繰り返し留守電に入っているメッセージ。
(記録上の理由で着信拒否をしていなかったため、着信の番号を見て電話に出る事にして、A氏からの電話は徹底してスルーしました。)

大げさに騒ぎ立てるA氏に振り回される日々


「そんな事が法律的に許されると思っているのか!お前たちのやっている事は、家庭放棄と監禁だ!」
まくしたてるような、上から押さえつけるような怒りの感情。

そして、「妻が誘拐された。あいつは精神病で、妄想で暴力を受けたと思い込んでるんだ。早く連れ戻さないと」
親類縁者にも片っ端から、同じような私を糾弾する内容の電話をかけていました。

自宅でも職場でも、どこにいても電話がかかって来るといった感じだったようです。私は、そうした事を聞かされた人達への対応にも日々追われなければなりませんでした。

そうかと思えば、急に弱々しい声で
「オマエがいなきゃもう生きていても仕方がない。今から死にに行くよ」
「もう糖尿で目が見えなくて、死にそうなんだ……帰って来てくれ」
日々コロコロと変わる態度に背筋が寒くなる事がしばしばでした。


母には、私が仕事に行っている間、決して電話に出ないようにと念を押してありました。
そして根気強くA氏に働きかけ、母は離婚を望んでいてもう戻るつもりはない事を伝え続けました。

私は周囲でも有名なお騒がせな人物となってしまい、現実に起きる日々のA氏とのゴタゴタのみでなく、精神的なストレスも相当な状態でした。

神様からの抜き打ちテスト――本気かどうか試された母


そんな時、まさかの、突然のどんでん返しがやってきました。あれほど念を押し、気を付けて出ないようにしていたA氏の電話に、母がうっかり出てしまったのです。 

帰ってみると、母からすまなそうにこう言われました。
「今日に限ってなぜか電話を取っちゃって……もう、家に戻る事にする」

――戻るってどういう事?ふざけないでよ。それじゃあ、今までの日々は何だったの?

本当に戻りたいと思ってるの?戻ってどうなるの? なら、なぜ今まで自分で交渉しなかったの?その程度の恐怖だったの?

これまで、周りの人に散々迷惑をかけながら……ズタズタになって怯えている母を守るために、私と妹は必死になって闘って来たんじゃなかったのか?
そう思った時、これまでこらえて押しとどめてきた、私の怒りが爆発しました。

「ここでひるがえしてどうするの!?今までやって来た事の意味をよく考えてよ!もしどうしても帰るって言うんなら、もう親でも子でもない、二度とここへ来ないで!――もう顔も見たくない、戻るなら早く出てって!!」


後にも先にも、そんなに怒った事はないと思います。
手当たり次第に、目の前にあったスリッパやティッシュの箱などを床や壁にバンバン投げつけ、大声でわめきました。

カルマの鎖を断ち切ろうとする時、お試しはやってくる


母は「依存からの自立」が持って生まれた人生の課題ではなかったか?と、今振り返ってみてそう思うのです。

課題が今まさに達成されようとする、カルマの鎖を断ち切る寸前という瀬戸際に、こうした「お試し」――天からのテストがやって来る事が良くあります。

それは “本当にその決心が本物かどうか”を尋ねられる、神様の世界のとても厳しい判定基準なのだと思います。

「魔が差した」という言葉があるように、こうしたギリギリの国境線を超えるほんの一歩手前では、時々信じられないような揺れ戻しが起こるものなのかもしれません。

過去世を生きた時から持ち越して来た宿題は、その時の人生では成し終えられなかったくらいですから、やっぱりこの人生においてもクリアするのはとても難しいものなのでしょう。

母はここで、「ゴールか、ふり出しか」という、人生で最も難しい選択を突き付けられたのです。

戻る事は、例え暴力を受けようと、これまで慣れ親しんできた環境には違いありません。相手に依存する(ように仕向けられる)ため、金銭的なものに苦しむ事はありません。

一方、離婚は自立を促されるという、大きなリスクを伴います。
母は暴力のストレスによる消耗で自活困難であり、収入を自分で得る事は到底考えられない状況でした。

その課題を持たない人からは大した問題ではなく見えるけれど……


ここでちょっと考えて頂きたいのは、持っている課題は、人それぞれみな違うという事です。
母の「依存を断ち切り自立する」というテーマは、その課題を持っていない人から見ると、大した問題ではなく見えるのです。

「あの人はなぜ、いつまでたってもそんな事ばかりしているんだろう?いい加減、目を覚ませばいいのに」
傍目からはそんな風に、大した事でもないものにいつまでも囚われているように見えるのです。


だから、なぜいつまでも解決出来ないのか疑問すら覚えますが、当の本人はそれを“一生かけて克服する”という目的で生まれてきているのです。

つまり、課題をクリアするのはそれほど難しいのだという事です。
相手の状況を自分と置き換えて過剰に共感する必要はありませんが、逆に批判する必要もないと私は思います。

枝に積もった雪


母は貧乏のどん底で育ちました。
今では考えられないかもしれませんが、生活のために、女性が男性の性の奴隷になる事もそう珍しくはない時代の貧しい暮らしだったのです。

その母が金銭的な不安のない暮らしを強く求めるのは、むしろ当然の事だと思います。


私の父も生活力のない人で、事業の失敗による倒産と一家離散という憂き目に遭っていました。
私も子供の頃は、ヤクザまがいの取り立てに怯え、電話口で泣いた事も何度となくありました。

家は差し押さえの紙がそこかしこに貼られ、私たちは立ち退きを余儀なくされました。
今日食べるものは納豆一パックと魚肉ソーセージ一本だけ。そんな日も珍しくありませんでした。

母は男性に依存する限り、苦しい人生からは抜けられなかったのです。
けれど不安感から経済的に依存してしまう……悪循環でした。

天からのお試しには「助っ人」も用意されている


母の、この天から試された抜き打ちテストには、トラップと同時に重要な助っ人も仕掛けられていたと思います。
その助っ人こそが、私だったのではないかと思うのです。

私の怒りの爆発を目にして、母は戻る事を取り止めました。
そしてそれが、もう二度と引き返せない、ゴール手前の大きな分岐点の方向を決定する事になったのです。

母はどうやらテストに合格したようでした。
ここから一気に、カルマの鎖の解消に向かって運命は流れて行く事になります。

タンポポの綿毛



どうか、自分自身がいつもこだわってしまう悪い癖、何度も繰り返してしまう同じ出来事、
そういうものに気付いたら真摯に向き合うようにしてください。

それを克服するために、私たちは生まれてきています。
とても難しいけれど、クリアした暁には必ずご褒美がもたらされるのだと私は信じています。

ご褒美と言っては誤解を招くかも知れませんが、それは「課題を成し遂げたからこそ手に入る喜び、使命を感じるような生きがい」のようなものだと思います。

そしてそのご褒美は、きっと今までこだわってきたにふさわしいその場所からもたらされるのでしょう。
かつての非行少年は、その非行少年を導く人生カウンセラーへ。子どもの不登校と家庭内暴力に苦しんだ人は、そうした親子をサポートするグループのスタッフとして、など……

そんな人生の着地点を見聞きした事もあるのではないでしょうか。

苦しみ抜いたからこそ、同じ苦しみを持つ人の心に深く寄り添う事が出来る。
自分の生きてきた軌跡が誰かの役に立つのなら、人としてこんなに幸せな事はありません。

使い尽くされた言葉だけど、人生に起きる事に決して無駄はない、と思うのです。


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【体験記】本当に母が死ぬ日③~「奇跡」必然の偶然


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