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【第44回】「世界をセルフビルド化する」

第一線で活躍しているクリエイターをゲストに迎え、クリエイティブのヒントを探るトークセミナーシリーズ「CREATORS FILE」。


第44回 クリエイティブナイト
ゲスト:藤原徹平氏(フジワラボ主宰/建築家)
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新しい農業法人の在り方を模索する「木更津の農場プロジェクト」や新しい家族の拠点を考えた「稲村の森の家」など、能動的に生きるための拠点づくりを提案する藤原氏。現代社会と未来を見据え、世代を超えて価値を共有する場を生み出す「セルフビルド」の発想法について深く掘り下げます。


工業区域で育った幼少時代

西澤:今日のテーマは「世界をセルフビルド化する」です。藤原さん、よろしくお願いします。

藤原:みなさん、こんにちは。僕は横浜の本牧で生まれ育ちました。横浜にはおしゃれなイメージもありますが、昔は工場が立ち並ぶ工業区域でした。通っていた公立小学校には「海岸グラウンド」があり、全国で唯一、水族館を持っている小学校でした。戦争前は全国に統一されたルールがなかったので、各地にユニークな小学校があったのです。僕は「水族館係」としてカブトガニの飼育などを担当していましたが、ある時から「なぜ水族館があるのだろう?」と疑問を持つようになりました。

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西澤:ほう。

藤原:調べていくと、本牧は漁村だったことがわかりました。1859年に開港して明治時代に入ってから「横浜」という都市を作り、第二次世界大戦後に埋め立てを進めたのです。当時日本はセメント王国で、「麻生セメント」「浅野セメント」の二社が、政界と経済界を牛耳っていました。1970年代は、埋め立てれば埋め立てるほど工業用地として売れるという仕組みで、生産高が上がることで税金が増え、経済を回す巨大なエンジンとなっていました。教科書で「太平洋ベルト地帯」を見て「これか!」と思ったのを覚えています。当時、校庭の向こう側には、石油タンクがずらりと並んでいました。子どもたちから海岸を奪って「工業ベルト」を作ることで経済が進むというからくりがあったのです。僕はそこに、良い意味でも悪い意味でも、すごく興味を持ちました。東京湾全体で、生態系が残っている木更津エリア以外は、ほぼ全部埋め立て地です。それは強烈な事実でした。京都の方からすれば、琵琶湖を全部埋め立てたというイメージです。

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西澤:滋賀県民として、それはゆるせないですね。

藤原:江戸時代の埋め立てとは違うスケールで戦後の経済成長を迎えるわけですが、都市のつくりかたがあまりに下手だと思いませんか。さらに、その上に高速道路を建設するという話を聞いて、本当にやめてほしいと実感しました。「この現実を変えることができたら」と考えるなかで「都市計画」というものがあることを知ったのです。都市計画について学べることを何かの本で目にしたので、建築学科に入ることにしました。


「場をつくる」楽しさを知り、建築家を志す

藤原:先生方は建築家を育てたい。でも、僕は都市計画を学びたかっただけで、建築家になるつもりはまったくない。そのギャップがあって、大学1年の頃から学校をさぼっていました。僕の先生は、北山恒さんというかっこいい建築家でした。北山さんは、いわゆる「建築家」を育てようと思っていなかったので、いろいろなことを教えてくれたのです。当時僕が夢中になっていたのは、今日のタイトルでもある「セルフビルド建築」(※)です。入学した横浜国立大学のキャンパスは保土ヶ谷の山の上にあり、広大な敷地を有していました。4年生の頃、1~4年生の学部生延べ200人で、1人1万円ずつ出資して仮設の劇場を作りました。工事用の単管パイプを使用し、外壁は発泡スチロールにビニールを貼っただけです。2カ月かけて作りましたが、その間授業はさぼってばかりでした。収益性のあるプログラムで利益が出たら、その分が返ってくる仕組みです。クラブカルチャーが根付いてきた時期だったので、クラブナイトなどを開いていました。

※「セルフビルド建築」……住宅や建物を自分たちの手で建築する手法のこと。

西澤:へえ! 楽しそう!

藤原:大学院生の時には、上野のお祭りや大学祭実行委員会など外部からも建築の依頼を受けるようになりました。建築事務所のようなことを、勝手に自分で手掛けていたのです。こうした経験を通じて、「場をつくる」ことを楽しく感じるようになりました。建築家にはなりたくないけど、場をつくることは楽しい。だから、建築家になるしかなかったのです。


都市と建築

藤原:就職活動をきっかけに、場をつくる仲間たちが徐々に減っていきました。そんななか、修士論文のテーマについて迷っていたら、北山先生から「シチュアシオニスト・インターナショナル」について調べてはどうかとアドバイスをいただいたのです。これは、1950~60年代に活躍した思想家とアーティスト、社会学者で構成された集団で、ギー・ドゥボールというフランス人がリーダーでした。彼の著作『スペクタクルの社会』は世界中で翻訳され、学生運動をしていた世代にとってバイブル的な本でした。簡単に言うと、「メディアと結びついた高度資本主義は危険だ」という内容です。高度資本主義で都市が変わってしまうことに対して有識者らが集まって、実験的な社会活動を実践する。僕はこの「シチュアシオニスト・インターナショナル」と、これからの建築、都市とをつなげられないかと研究を進めました。

西澤:なるほど。

藤原:これは、「工業絵画」と呼ばれる市場に流通する絵画です。クリエイティブなものや人間的なものが、工業的とどうハイブリッドしていくかを考えるためのものでした。「シチュアシオニスト・インターナショナル」のメンバーでもあったコンスタントという建築家は、都市を迷宮に変えようと考えました。模型を作りながら、装置の集合として都市を考え直す手法です。彼らは「統一的都市計画」を強いマニフェストとして、都市は「建築物の集合」ではなく「状況」である、つまり、都市とは「活動」「人間」「場所」だと定義しました。これらの集合として、都市をもう一度組み立てなおすべきだと考えていたのです。


「統一的都市計画」を志し、隈事務所に就職

藤原:僕は「統一的都市計画」に大変な希望を感じました。こういうことをやりたいなと素直に思って、それに関した修士論文を書きました。「都市をどうにかしたい」と思って建築学科に入りましたが、いわゆる既存の建物という集合で、それが少しうまくいったとしてもどうしようもないことは痛感していました。どうやって、活動と一緒に都市を組み立てられるかが、僕にとっての大きなテーマになったのです。いろいろな建築事務所の選択肢がある中で、隈事務所(隈研吾事務所)がいいかなと思い、就職しました。

西澤:大手のゼネコンではなく、「アトリエ建築家」と言われる隈事務所に就職したのですね。

藤原:隈さんは、規模に関係なくプロジェクトを進めていました。「統一的都市計画」は、物理的なものの集合体で捉えないため、規模は関係ありません。どんな規模でも状況は変わるかもしれない、ということです。「状況」はインフルエンスがあるので、活動が連鎖することがあり得ます。物理的に環境を変えるには、街のファサードをすべて変えないといけないのですが、通りで起こる活動も変わります。たとえば、このクリエイティブナイトのように「レクチャーでビールを飲む」ことがどんどん広がって、あらゆるレクチャーでビールを飲むことが一般的になるかもしれませんよね。

西澤:あはは。

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ピンクのジャケット作戦!?


\ 引き続き、セルフビルド発想法に迫ります /
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