名刺を落として危険な目にあった話


その日、私は全身タイツの格好でカウンター席で酒を飲んでいた。

自分の名刺を探していると私の隣にオヤジが乱入し、近くにいた女性に連絡先を訊き始めた。
その瞬間、私の手から名刺が滑り落ち、スライド移動した後にオヤジのコップの下に挟まった。

汚いキャッツアイのようになってしまった。
美女の連絡先を得ようとした結果、不審な全身タイツから連絡先を強制的に渡されるという恐ろしい事態となった。

この時、オヤジがこちらを見た際に右目に何かが入り、図らずともウィンクのようになってしまった。
オヤジは私のウィンクが直撃し、この世の終わりのような顔をした。
オヤジは喋らなくなった。

しかし、面識のないオヤジに名刺を渡すのは危険だと思い、私は返却を求める事にした。

オヤジに近づき、ふとオヤジに飛んでいった名刺に視線を向けると
「オポポイ 幸福を届ける男」
と、書かれていた。
私の名刺ではなかった。
友人から貰った名刺であった。

「オポポイ」の部分も謎であるが、非常に胡散臭い名刺であった。
この辺りで奥からアルバイトの者がカウンターに戻ってきたが、先程と打って変わってカウンターに座る者達が全員下を向き通夜のようになっていた為、狼狽えていた。

「私はオポポイではない」と、すぐさま訂正したが、焦りすぎて途中で言葉が詰まり
「私、オポポイ…」
と、私の意思とは裏腹に自己紹介と化した。
アルバイトの者がカウンターの下へ沈んだのが、視界の端に入った。

現在地を示しながら徐々に家の前まで距離を詰めてきそうな雰囲気が出てしまった。
都市伝説「オポポイさん」が産声を上げた瞬間であった。

しかし、まだ挽回する事は可能である。
必死に誤解だと伝えようとしたが、喉にオポポイが詰まり言葉が進まず
「…オポポォ…ッ!!」
という謎の鳴き声となった。
もはや当店一番の不審者である。
しかも、つかえを取るため胸を叩いた為、新手のドラミングのようになった。

挽回は絶望的となった。
オヤジからすれば、一方的に自己紹介された後に、ドラミングまで披露された事となる。
野生のオポポイが縄張りを主張しているのだろうか。

恐らくオヤジは、目の前の全身タイツが人間のルールとは異なるコミュニケーションの中に生きていると思っている。
もはや何から弁解したら良いか分からぬ。
どう切り出したものかと、とりあえずオヤジの左背後に佇んでいると、カウンターに沈んだ店員が戻ってきた。

カウンターに突っ伏し震えている女性と、怯えた目をしたオヤジのその横に無言で佇んでいる私を見て、店員は
「ごめんなさい…まだ無理でした……」
と、弱々しく声を漏らし再びカウンターの下へ沈んだ。

店員が瀕死である。
オヤジは、沈んだ店員に
「お会計頼むよ…ねえ…なるべく早く」
と、静かに語りかけていた。

【追記はこちら】
何故この佇まいであったのかの理由と、その後についての【追記】あります。


この記事が参加している募集

休日のすごし方

みんなでつくる春アルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?