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完璧じゃなくたっていいじゃん

筆者はうっすらアダルトチルドレンであることもあり、かなりの完璧主義であることを自認している。
もしかしたら、INFJであるという気質も関係しているかもしれない。

この「完璧」というのは恐ろしいもので、一見「100点満点」の状態を示すように思うが、実際はそうではない。
私にとっての「完璧」とは、「自分が100点満点でないことを認め、80点程度の成果物をすぐに提示し、他人に協力を求めてフィードバックを貰い100点に仕上げていく、なおこの過程で自己嫌悪を抱いたりストレスを感じたりすることは許されず、常に上機嫌で、自他を受容しながら効率よく物事を勧めなければならない」ということである。

・・・こうして言葉にすると、まあ面倒くさい気質であるし、自分に求める水準がめちゃくちゃ高い。
100点満点でない自分は許せる(許さなくてはならない)が、100点満点でないことを不快に思ってはいけない。満点をとれないのであれば、限りなくそれに近付けるよう自分の頭で考えて努力し続けなくてはならない。
毎回すべての物事で100点満点を取り続けるのは不可能だが、理想に向けて努力することは誰にでもできる。
それができないのであれば、それは自分が、愚かで、怠惰で、頭が悪く、無気力な駄目人間だからだ。

と、まあ、そんな感じである。
これはそのまま、幼少期に私が親から求められていたことに他ならないわけだが、今でもそれが呪いとなり私の心の根っこの部分に居ついている。

幼少期から私は「こう」であったため、成績は常にずっと良かったし、悪い点数を取ることがあっても「次で必ず」挽回しなければならなかった。
「悪い点数を取ることにより自分の苦手分野を見つけることができ、それを活かして次回はより良い点数を取る」ことが大前提であったからだ。
成績だけではない。部活も、人間関係も、「できないならできないなりに努力しろ、少しずつでいいから改善していけ」と教えられそれを実行していた私は、あらゆる分野においてそれなりの水準をクリアできていたと思う。

おかげさまで、社会人になって何年か経つ今では、周りからは「仕事がすごくできる」「自己解決能力が高い」「周囲との関係性も良い」「むしろ苦手分野がない」みたいな評価を受けることができている。
そのことについて、「親御さんの育て方が良かったのね、親御さんに感謝だね」と言われることもある。
それはそうだろう、あの「育て」のおかげで、今の私がある。それは間違いない。

問題があるとすれば、そう。
「完璧でない」ことに対して、私は異様な嫌悪感を感じるということだ。
なんでもできるらしい私は、「なんでもできるよう頑張れない私は愚かで、怠惰で、頭が悪く、無気力な駄目人間だ」と言い聞かされて育ってきた。
上手くいかなくて落ち込んでる時も、あまりに理不尽な仕打ちにイライラしたり誰かに八つ当たりしてしまいたくなってしまった時も、許容量を超えた悲しみが生じて動けなくなってなってしまった時も。
それでも、「次に向けて頑張れない私は何の価値もないクズ」なのだ。
だから私は、動くのだ。
泣いて吐いて足の骨が折れても、死ぬまで走り続けるのだ。
だって、そうじゃないと、「だめ」だから。

そして、自分に完璧を求める私は、他人に完璧を求めてはならない。
自分と他人で能力や価値観が異なるのは当然のことだし、自分ができても誰かにできない、誰かにできても自分にはできないことなんて、たくさんあるはずだ。
もしも他人に完璧を求めたくなったら、今の相手を否定することなく、「あなたを教育しています」というティーチングの姿勢を微塵も見せず、影のコーチングで他人を気長に育てていく。
それが、「完璧」だ。親が私によく言ってた、「人として」の部分だ。
「人として大切なこと」「お前は人として終わってる」の部分だ。

でも、正直に、本当に正直に言ってしまうと、私は今までに「誰かにできても自分にはできないこと」に直面した経験が、ほとんどない。
もちろん、「やったことがないから」「その部分の知識が一切ないから」という理由でできないことはあるし、その技術や知識を身に付けるために時間を費やし努力をしてきた人のことは尊敬している。
けれど、それは、私にとっても「時間を費やし努力をすれば」できることであるように感じるのだ。
だって、できるまでやれば、できる。

「どんなに頑張ったって絶対にできない」と私が感じることはおおよそこの世にはないし、だからこそ、誰かに対して「努力すればあなただってできるはず」と思ってしまう。
他人が努力しないことを悪だとは思わないが、「でもそれは努力しないからできないのであって、努力すれば本当はできるよね?」と思ってしまう。
他人の努力の全貌なんてわからないのに、だ。

そんなわけで、私は能力面では優秀なのかもしれないが、自分に対しても他人に対しても、恐ろしく不寛容だ。人格に問題があると言っても過言ではない。
もちろん、いい大人なので、その不寛容さを態度や言葉に出さないようには細心の注意を払っている。そういうものを隠せることも含めて、「完璧」なのだから。
でも、心の内では、ひどく不寛容なのだ。すべての物事に対して。不寛容ということは、不満を感じるということだ。どうしてできないの、どうしてこういうふうになってないの。世界に対して、人生に対して、「どうして完璧ではないの」と怒り、悲しんでいるのだ。
おそらく、自身の親と、同じように。

そのことは一応、自覚できている。
ので、治そう、緩和させようとは思っているのだ。

社会人になってまもなくの頃、こんな出来事があった。
友人を家に招いたはいいが、転居直後ということでまだ家が整っておらず、お洒落な料理を乗せるための適切なお皿がなかった。
そもそも整っていないなら人を呼ぶな、呼ぶならどんなに忙しくて大変でも事前に整えろ。少し考えればわかるのに、どうしてそんなこともできないの?
自分の声が自分の頭の中でこだまする。
でも、今からお皿を買いに出かけるわけにもいかない。仕方がないので、私は不自然に大きい不格好なお皿の真ん中に、少量だけ料理を盛りつけた。

「ごめんね、大きいお皿しかなかった・・・」そういってお皿をテーブルに乗せた私に、友人はこう言ったのだ。
「いいじゃん。余白の美を楽しもう」

ああ、私に必要なのはこの精神だ、と思った。
もう5年近く前の話であるが、今でもはっきりと覚えている。
完璧でない部分、まだ埋められていない空白の部分には、「余白の美」があるのだ。
そして、それは憎むものでも恨むものでもなく、「美を楽しもう」なのだ。
それはひどく優しく、穏やかで、気の抜けた平和であった。

本当はわかっている。
「どんなに頑張ってもできないこと」はある。私にも、他人にも。
私が無知で、それを知らないだけだ。
完璧なんて求めなくていい。できないこともあるし、そういうときだってある。しんどいときは休めばいい。

でも、今まではそれを、「そう思わなくてはいけない」と思って、自分に言い聞かせていた。
「完璧じゃなくたっていいって言いながらほどほどに休むこと」まで含めて完璧だし、無知の知を理解してこその完璧だ。だから、そうあるべきだ。そうでなければ許されない。赦されない。一体、誰に?

そうではなかった。
「するべき」「しなければならない」ことなんて、本当は存在しない。
私の人生は私が決めるし、他人の人生は他人が決める。
したいことをしたいようにするだけでよかったし、したくないことを避けるのも、全く悪ではなかった。全然、愚かで、怠惰で、頭が悪く、無気力な駄目人間ではないし、人として終わってるなんてこともなかった。

私は、気楽に楽しめばよかったのだ。
完璧を愛し、完璧でないことを楽しめばよかった。

そう気付いてからは、生きづらさ、息苦しさみたいなものはかなり軽減されたように思う。
元々自己肯定感が高かったこともあり、今ではふざけて「できない私も可愛いでしょ?」「駄目な私も愛してくれよ~」などと宣うこともできる。
けれど、心の奥底の「完璧」が完全に消えてゼロになったわけではないし、ゼロになる日がくることもないだろう。
多分、消す必要もない。
それは、「理想」であり、きっと胸に抱いていていいものだと、思う。

完璧主義の治療法について、「肩の力を抜く」だなんてことを言われたこともあるが、力なんて抜こうと思って意識すればするほど力が入ってしまう。
「力を抜くのが正しい」と、必死で頑張ってリラックスしようとするのだ。
だから、こう言い換えて理解したい。
「もっと楽しみなよ」と。

完璧を求めてしまう完璧でない私を楽しんで、自分も他人も軽やかな気持ちで見つめて生きていきたいなと思う。

今回はそういうお話でした。
ではでは、今回はこのへんで。


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