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愛の1/fゆらぎ

1/fゆらぎ、というものを皆さまはご存じだろうか。
かれこれ10年以上も前から、私はそれを求めていると言い続けていたのだけれど、最近は「鬼滅の刃」という漫画でこの言葉が少しだけメジャーになったように感じる。

1/fゆらぎ。
それは、簡単に言うと、「人がとても心地よいと感じる間隔での揺らぎ」のことで、具体的には心拍の間隔や、ろうそくの炎の揺らぎ、電車の揺れなどがこれに該当する。
見たり、聞いたり、感じたりしていると心が安らいで、なんとなくリラックスできるような揺らぎは、大抵この1/fゆらぎというものにあたるらしい。

まあ、それは一旦置いておくとして。

随分長い間、「愛の話がしたい」と言い続けていたような気がする。
私にとって、「愛」は人生のサビの部分であり、おおよそ人生そのものであるので、1つの記事にまとめるのが大変難しく、そもそも言葉にしてしまった途端にそれは陳腐なものになり下がるのでは?という不安もあったため、長らく手つかずであった。
今回は、重い腰を上げてようやく、愛の話をしたいと思う。

愛、と聞いて、皆さまは何を思い浮かべるだろうか?
見返りを求めない、無償の、尊いものであるところの、愛だろうか。それは家族愛であったり、あるいは友愛であるかもしれない。
もしくは、咄嗟に恋愛を思い浮かべるだろうか。欲しいと希う気持ちであり、与えたり、求めたりしながら2人が繋がっていく様を想像するだろうか。
もしかしたら、神の愛を想像する人もいるかもしれない。日が沈んだら、必ずまた昇ること。止まない雨も、降らない雨もないということ。風が光り、花が咲うこと。それもまた、愛だろうか。

愛、というのは、感情を指すのだろうか?行動を指すのだろうか?
感情だったら、それは幸福だろうか。嬉しさや喜びだろうか。あるいは、ままならない怒りや、どうしようもない喪失感、絶望も愛の形であり、愛の抜け殻であるだろうか。
行動だったら、それはどんなものを指すだろう?
楽しさを分かち合うこと、喜びや安心を与えることだろうか。自分を見てほしくて、心の中に常に置いてほしくて、憎まれるよう仕向けることも愛だろうか。もしくは、忘れてもらおうと身を引くことも、愛だろうか。

私にとっての愛は、「揺らぎ」そのものである。
私にとっての愛は、家族愛であり、友愛であり、恋愛であり、神の愛であり、喜びや幸福であり、悲しみや絶望であり、優しさであり、包容であり、それと同時にナイフでもある。
決して決まった1つの形を持たず、常に揺らいで、温かくも冷たくもなり、丸い時もあれば尖ることもあるし、上っていったり、下りてきたりすることもある。

具体的な話をしよう。
今この瞬間、ここに愛があり、その愛を捧げたい人がいるとする。
私はその人をとても大切にしたくて、その人の幸福を願い、その人の夢が何もかも全て叶えばいいと思うし、けれど何一つ夢がかなわず、世界の全部がその人の敵になったとしても、変わらずその人を愛していたいとする。
その人の悲しみや苦しみ、その人に害意を向けるあらゆるものを私が取り除いて、幸福を、温かい毛布やスープを私が与えてあげたいとする。

けれど、その愛は、未来永劫続く、変わらぬ永遠の愛だろうか?
24時間365日、その気持ちをずうっと胸に抱き、いっときもその想いを失わず、愛は1ミリも目減りせず、ただただ無条件に、無償で、愛を持ち続け、捧げ続けることができるだろうか?

答えは、否だ。
私が人間である以上、それはできない。
愛の温度が下がることもあれば、愛の質量が減っていくこともあるだろう。いっそ愛が消え失せて、相手を憎々しく思い、愛していた事実さえ忘れてしまいたくなる日がくるかもしれない。
ましてや、人間はいつか死ぬ。いつか死んで、いなくなってしまうくせに、永遠の愛だなんてちゃんちゃら可笑しい話ではないだろうか?

愛は、変わりゆく。
「ああもう、ほんとうに大好き!」と思う瞬間もあれば、「むかつく!もう、あっちにいってよ!」という瞬間も、きっとある。
そして、変わりゆく以上、「大好き!」が永遠に続かないのと同じように、「むかつく!」も永遠に続きはしない。
それが愛であるならば、それは形を変え、温度を変え、質量を変え、それでもただ、ここに在り続ける。消えてしまったと思っても、再び芽生えない保証がどこにあるだろうか?

私はこの、愛の移ろいを、揺らぎを、「1/fゆらぎ」としたいのだ。
愛の温度の、上がり下がりを。
愛の質量の、増減を。
愛の形の、丸とトゲトゲの変動を。
その揺らぎすらを、「心地よい」と感じることができる、そんな愛が欲しい。それを、本当の愛と、呼びたい。

今日喧嘩して、大っ嫌い!って思っても、明日仲直りして、昨日よりももっと大好きになるかもしれない。
そんなのおかしいよ!って腹が立って、悔しくて涙が出ても、ゆっくり話し合えばすれ違いが解けて、お互いの理解がより深まるかもしれない。
そういう変動を、揺らぎを、全部ひっくるめて、「まあこんなものね」って愛していたいのだ。
変わりゆく私と、変わりゆくあなたと、変わりゆくわたしたちの関係性を、その間に流れる時間と、温度と、形を、全部抱きしめて、愛していたいのだ。

それが私の、愛である。

そしてこの愛こそが、私の人生のテーマである。
家族に対して?友人に対して?恋人に対して?すべてそうだ。
人に対してだけではない。それは動物であったり、花や草木のような自然であったり、そういうこの世界に存在する遍くものに対して、私は愛を抱いていたい。
この胸に愛を抱きしめて、世界を見ていたい。
目に映るもの、肌に感じるもの、聞こえてくるものすべてを、全身で愛していたい。
それが私にとっての人生であり、私のすべてだ。

願わくば。
人生の終わりが、愛の終わりが、揺らいで揺らいで、ふっと穏やかに消えるものであればいい。揺らめいて、静かに、決して劇的ではないように。
心地よい揺らぎのまま、満足したままで、すうっと終わりゆくように、私は祈っている。

心はね。
丸くて温かくあることを望んでいるのだけれど。
だって、丸いものは折れないし、温かいものは強いから。

でも、愛は、丸くてもそうじゃなくても、温かくてもそうじゃなくても、その揺らぎが、愛おしいんだよって。
ようやくそういうふうに言えるようになったので、これからも揺らぎながら、終わりのその時まで、続いていきたいなと思っている。

今回は、そんな話でした。
ではでは、今回はこのへんで。


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