ひづみ

わたしとあなたがちゃんと出会うってなんだろな〜と考えつつ、ボーっとしたりハッとしたりし…

ひづみ

わたしとあなたがちゃんと出会うってなんだろな〜と考えつつ、ボーっとしたりハッとしたりしています。 関心:精神医学、東洋哲学、現象学、オープンダイアローグ等の対話実践、文化人類学、絵、散歩

最近の記事

「あなた」と「わたし」が「しどろもどろ」で出会うということ

私はよく、しどろもどろになっている。 「こんなんじゃない」ことを懸命に説明することによって、かえっていっそう「ほんとう」とのギャップが深まってしまい、そのうち自分が話していることも、「こんなんじゃない」の権化のようになり、自分で自分がいたたまれなくなる。 そのうち、「ほんとう」が何だったのか、そんなものは果たしてあったのか、そもそも何を言いたかったのかもよくわからなくなり、気づいたら謎の疲労感だけを残して、嵐が去ったあとのように、事が終わっている。 しどろもどろの程度はさ

    • 否定の効能

      人や物事を悪くいうのは簡単なようでむずかしい。手放しに批判することはできても、本心から切実に「否」と述べることは、肯定するよりも、ずっと覚悟や決意を伴う。 したがって私は、周囲で何かを悪く言っている人の、語気の淀みなさやそこに一切の迷いが感じられないことに、しみじみおどろく。内容はさておき、挙動の真っ直ぐさには、天真爛漫であるとすら感じる。 どこからが惰性で、どこからが本心からの否定なのかわからないけど、息を吸って吐くように、見るものすべてにケチを付ける人というのは、いる。多

      • レヴィナスにみる 「まとまり」と「ばらばら」

        レヴィナスの「語り直し」の努力というのは、ことばや思いやまなざしや、そして「わたし」が全体性に回収されてしまうことへのレジスタンスであり、さらには、我々が全体性的な主体をもってして、世界もろとも等しく調和の取れた全体性に回収してゆくという、「全自動型〈さまざまなあわい〉刈り取りコンバイン」みたいになる(というかすでにそうなっている)のを諭しつつ打破する営為と見ることができる。 「全体性の暴力」とは、コンバインの例えで言えば、小さな野の花や草の芽やよくわからない根っこが生い茂

        • 「とうめいなすがた」

           レヴィナスに取り憑かれながら、レヴィナスに取り憑く試みをしてみる。  私は、「わたし」の「私」の部分だけをめりめりと、おまつりの「カタヌキ」みたいに引き剥いで、余分な汚れを洗い落として軽くなりたい。そうすればきっと重力はそのまま浮力に変わって、「とうめいなすがた」で飛べるのだと思う。そこではなまえもせいべつもみてくれもかこもみらいもうちゅうのはてもうみのそこもすべてかんけいが ない。 しかし、私が「私であるということ」は影のようにぴったりと貼り付いていて、いくら足掻いて

        「あなた」と「わたし」が「しどろもどろ」で出会うということ

          雑感 『連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学』

          飯盛元章さんの「連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学」を読んだ。 本書が面白いのは、表題の通り、ホワイトヘッド哲学の中心的なテーマとなる「連続性」の中にあえて「断絶」を見出して、くまなく張り巡らされた生成のネットワークを無理くり破ろうとするところである。 まず、あとがきで、「もともと筆者は、ホワイトヘッド形而上学において、存在者どうしが密接につながりあい、それらが宇宙規模の全体性をなしている点に対して、ある種の嫌悪感を抱いていた」と仰られている。 この感覚は、すごく共感できる

          雑感 『連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学』

          存在すること の つかれ

          存在することで、同時に存在を引き受けてしまった存在者は、その癒着に辟易し、全身に気怠さを覚える。レヴィナスがそう言うのは比喩でもなんでもなくて、本当に自分の身体が鉛玉のように、熱をはらみ、ずーんとなっているのを最も的確に表そうとした結果の言葉えらびなのではないか。そのように思う。 好むと好まざるとに関わらず、気づいたときには存在に糊付けされている。「自分であること」の過剰さ、無理さ。嫌さ、窮屈さ、ひ弱さ、悔しさ。 先日、存在の生きられ方がどうであるか、要は存在の引き受け、

          存在すること の つかれ

          メモ。入不二基義さんの「現実性の問題」がおもしろい。井筒とレヴィナス(身代わり)がビビビと繋がるようです。「現にわたしである」→「わたし-または-わたしではない」→「わたしではない」→「誰でもある」→「わたし−かつ−わたしではない」→「現にわたしである」。。

          メモ。入不二基義さんの「現実性の問題」がおもしろい。井筒とレヴィナス(身代わり)がビビビと繋がるようです。「現にわたしである」→「わたし-または-わたしではない」→「わたしではない」→「誰でもある」→「わたし−かつ−わたしではない」→「現にわたしである」。。

          aikoにおけるデカルト的主体から西田的主体への転向解釈のすすめ

          とうとう深刻に意味がわからないタイトルになってしまった。。 私はaikoを好んで聴いている。好きな曲色々あって全然選べないけど、「夏にマフラー」「二時頃」などが特にいいです。 aikoの歌詞では、一人称は「私」ではなく「あたし」である。不特定多数の「私」に言葉が霧散してしまうのを、「あ」の一文字で食い止めつつ、逆に「あたし」が語り手になることによって、歌詞世界が「すべての『あたしの』私小説」になっている。 ところでaikoの歌詞における、「あたし」はどのような立場から位置

          aikoにおけるデカルト的主体から西田的主体への転向解釈のすすめ

          「差延」において脱臼する自己とは

          先日、木村敏の著書『自己・あいだ・時間』に基づいて、「ノエシス的自己」と「ノエマ的自己」の不一致と時間の生成に関する考察を述べた。 その時使ったのが以下の図1だが、見直してみるとこれでは、ひたすら遡行するばかりで時間的推進要素が折り込めておらず、不十分であった。 なので今回、より適切な説明ないし図式を考えてみた。 念頭にあるのはデリダの「差延」である。「差延」自体、対象との合致に失敗し続け、堂々巡りを繰り返すようなものなのではないか。「あるある言いたいけど言えない」みたい

          「差延」において脱臼する自己とは

          存在論的差異をやっていく・ダサくある

          存在論的差異とは要は「生きるってめちゃくちゃダサい」というそのことを切実に苦しんでいる思想のような気がする。しかしそうであってこそ(皮肉なことに)、生き生きとした生というものがある。そういう難儀さを煎じた燃えカスのような主体。 木村敏「自己・あいだ・時間」における、ノエシス的自己とノエマ的自己の差異の議論も、その言わんとすることは「自己の現出において猛烈なダサさは逃れ難い」ということではないか。一般的にどうであるかはさておき、個人的な理解を優先すると、そのようになる。非常に

          存在論的差異をやっていく・ダサくある

          「私」なんてものは、

          時間の感覚がブワーーっとわからなくなることがあり、得体のしれない不安感におそわれる。 自分が本当にこれだけの歳月を生きたのか不確かになり、その分の実感が欠けているにもかかわらず、事実上はそれだけ生きていて、時間の空洞部分に放られたようでこわくなる。何に対してかわからないけど、何かにしがみつきたくなる。 記憶はもちろんある。 あるのだが、それは言葉によるキャプション+静止画で保存されたスナップのようなものだ。それらは時系列に整理されているわけではなく、大きな記憶の箱の中にゴ

          「私」なんてものは、

          「顔」の無意味、ならびに無限意味について

          斉藤環さんの初期の著書「文脈病」を読んだ。 同書の序章によれば、「顔」には意味はなく、あるのは固有性のコンテクストだけであるという。 「顔」に意味がないとはどういうことか。私の顔や、家族の顔は、現に今そこにあるではないか。むしろ、「顔」はその存在を露呈することによって、私や家族の固有性を開示しているように思える。 しかし、あまりにも当たり前すぎて通常意識されないが、「顔」は「顔」である以前に感覚器官を覆う肉の一部にすぎない。その意味で「顔」は生体の僅かな変化を絶え間なく反映

          「顔」の無意味、ならびに無限意味について

          抽象概念を考えるということ

          「愛」だとか「善」だとか、抽象的な概念をその抽象度を維持したまま議論しようとしても、そこにはどうしても「私が考えるところの…」という前提条件が覆いかぶさってしまう。純粋な抽象世界の言語化を試みたとしても、いつの間にか個々人の経験や記憶に染色された対象のやりとりになってしまうのだ。 さらに、たいてい発話の当事者はそのことに気づかない。我々は、ニュートラルで潔白な、あくまでそれ自体を第三者的な立場から語っているつもりで、自分でも意識できないプライベートな秘密を言葉の端々に、じわ

          抽象概念を考えるということ

          かれらのしんどさは青白く光る

          レヴィナスはなぜこうもしんどいのか。 このしんどさはまるで、自分がボロボロの古布となり、身体を雑巾みたいに乱暴に絞られる苦痛。しかも、雑巾であることに完全に屈して、身を引き裂かれるのを、善とするということ。 これは、つらいとか、苦しいとかいう表現よりも、「しんどい」という言葉が合っている。外に自己を主張するための言葉ではなくて、「しんどい」は瀕死の内臓が漏らす、音以上言葉以下の鬱血したなにかである。 宮沢賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と

          かれらのしんどさは青白く光る

          「ドーナツがないがある」ということ

          以前私はレヴィナスの〈ある〉について語るとき「ドーナツの穴」という例えを出したことがある(https://note.com/83180141/n/nbab1e7f41f8b)。 その時、ドーナツの穴は「ドーナツがあるがない」というハイデガー的なあるべきものの不足の衝撃(私の有限性)ではなくて、「ドーナツがないがある」という虚無の充溢として現前したことが、底しれぬデジャヴ(「私はこれ(「ある」)を知っている」)のように切々と脅迫してくるといった。また、それが他でもない、「死の

          「ドーナツがないがある」ということ

          雑感「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」

          内田樹の「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」を読んだ。かなり前に読んだはずだが内容はほぼ忘れていた。 初読時はラカン側の関心があった気がするので、今度はレヴィナス側の布陣に立つつもりで、読み直してみたら、なるほど前よりよくわかる。 「無限」ないし「ある」の兆候としての「痕跡」や「傷跡」(いつどこでできたか自覚がない、ギョッとする痕跡)というイメージであったり、「ある」が言葉の、つまり象徴界の文脈連関が切断された「そのものそれ自体」のグロテスクさを呈するであろうことなど、レ

          雑感「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」