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【南無三・日記】こぼしたすいか、キノコ傘

暑い。春は終わりとしてよいか。(春は始まりと終わりを自分で決めていい季節だと思っているのです。始めるときに意識がいきがちだけど)
茶道のお稽古の日だった。例によって行くのが少し億劫で布団から出られなかったが、ヨガ10年選手の母から「好きなら続けな」とラインが来て、布団の中では好きなのかもよくわからなかったけれども、助言を素直に受け取る日にしたかったので最低限人の形になり(身支度をし)、車に乗った。歌いながら信号に引っかかりながら先生の家に向かった。駐車場で姉弟子に会い一緒に歩いた。

いつも、先生の家の玄関を開け「お早うございまあす」と声を張り上げるのが緊張する。先生の家ではおはようはお早うになる気がする。それ先生出てきた。白い靴下に履き替えて稽古着を着る。
姉弟子が次々参上する。皆、手早く支度して茶室にすわり、扇子を前に置く。

一緒に来た姉弟子が最初にお点前をした。ぴんとのびた背筋の人である。海の波が描かれたお茶碗を使っていた。長い指に扱われ、茶碗が無駄なくくるりとまわり、波の模様がこちらを向くと、視界がはなやぎ、気持ちが明るくなる。
お点前中、茶室は基本、空気が張り詰めて静かだ。お点前する人の所作と、釜の中でお湯がわく音と、庭の葉が揺れる音がたまにするくらい。だが私はよく粗相により、いらん音をたてる。今日は茶碗を口元に持ってきたとき、歯がぶつかってカンと音が鳴った。やべ〜。だが気にしないが吉、恥はかきすてである。ズズズと音をたてて(ここは音を立てていいらしい)お茶を飲みほし、茶碗をしげしげ眺める。朝食をとらずに来たせいで今度はお腹が鳴る。空っぽの胃に抹茶が到達する音だろう。間のびしたカラスの声がして、かき消されて安心する。そうこうしている間も姉弟子の動きはよどみなく進む。道具がきよめられ、柄杓が美しくかまえられ、所定の位置に戻される。釜と、水さし(水が入っている入れ物。両手でかかえて持つ、ふたつきの壺)にそれぞれ、蓋がされる。ここで客の私は道具の拝見を所望するため、決まった台詞を言う必要がある。静寂を破らねばならないので、いつも緊張するのだが、

「どうぞ、お棗、お茶杓の拝見を」

というと、姉弟子がにっこりして軽く礼をし、道具を飾る準備を始める。

今に限り、かもしれないが、体に不要な力が入っていない自分に気づく。ここに来ると力んでいるのが当然だったのに。

茶道を習い始めて今年で4年になる。とはいえ、私は長く幽霊弟子だった。ほぼ毎週お稽古があるが、平日の仕事に疲れて起き上がれなかったり、体調を崩したり、他の予定を入れて被ったりで、月に2回も行ければいいほうだった。それが今年1月、はじめて、一度もお稽古を休まず通えて、4月までなんとか皆勤を連続している。

朝の自分に告ぐ。茶室に座るとはっきりわかる。私はこの世界が好きで、この世界にいるから行けるところの限界まで行きたいと。
こんなに自分の気持ちが疑いようもなくわかることは貴重だ。
この世界を進むのは一生かかる。一生、とは甘やかな響きだが、簡単ではない。気が変わった自分や、この気持ちを忘れてしまった自分、どうしても続けられなかった自分も想像できる。世界線が分岐するのが見える。だが今日の私は、続ける世界を迷いなく選ぶ。

2年半ほど前、緊急事態宣言の合間にぽつぽつとお稽古に通っていたころ、帰り道に思った。

ちょっとわかることは、これから長きにわたって先生のもとに参上しつづけ、手もとの湯気に見とれていたいということ。

このとき先生は、「経験も徳も段違いにみえ、違う星の人のよう」で、いつも薄絹のむこうにいるように感じられた。
2年半たった今は、もう少しわかった。繊細で気にしやすくて、でもやることは隅々まできちんとやらないと気がすまない人だということ。仕事を頼まれるままに引き受けて、全てきちんと心を尽くしてやる。若いころ、小さい子どもをおんぶしながらでも茶道を教えていた。そういうことが、先生をこの高みまでつれてきたのかなあと思うが、なぜ先生の切実な思いがお茶に向けられたのか、は、まだ知る機会がない。遠い昔の人のような、目にするとここがどこかわからなくなるような、胸をつく美しい所作でお茶を飲む。たてたお茶を差し出し、「はい500円よ」など冗談もいう。意外とメールで絵文字を使う。何も無理強いはせず、じっと高みで待っている。

全員の稽古が終わったあと、先生が特別にすいかを出してくださった。茶室に歓声があがる。だが私は食べ方がわからない。種や種や、汝を如何せん。縁側で種を吹き出して食べるのならいいが、茶室ではそうもいかず、皿に口から出すのも稽古中なら絶対許されないだろうから同じ空間でやるのは気が引ける。横目で姉弟子をチラ見すると、もう食べ終わっていて皿には皮しかない。見渡すとみんなそう。音も立てずに。マジックかな。
「た、たねはどうしたのですか」
「飲んじゃった」
「ええっ」
動揺して皿を傾けてしまい、果汁が稽古着にこぼれて畳にもちょっとついた。お稽古の際必ず懐に入れる「懐紙」で必死に吸い取った。そういえばこういう、人が粗相をしたとき、先生も姉弟子たちも、まったく自然にこちらを見ず、気にしないというか気づいてすらいないように振る舞ってくれる。お茶の世界がそうなのか、この方々がそうなのか。しかし先生が「だいじょうぶ?」と最後に尋ねてきたので、ばれていたかとがっくりした。そりゃそうだ。

春が終わる。ごうごうと音を立て、自分が変化したがっているのを感じる。直視できないような美しさもできるだけ見据えて記録したい。伝えたい。忘れたくない。ただ、それによって見落としているものがないか点検も、したい。
就職した年、ただでさえ最悪な事務所に台風のなか最悪な気分で出勤しながら、キノコ寸前のビニール傘をさして、水位が増した氾濫寸前の河川敷でノイズキャンセルイヤホンをつけたときの、急な静寂と無音の雨粒と、降り注ぐピアノの低音とかを思い出す。泣きそうな気持ちが降り注ぐ。畳にこぼした果汁さながら(先生ごめんなさい)。
あ、すいかの種は半分くらい飲んだ。明日、頭からすいかが生えてきたらどうしよう。


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