高松仙人

若い人に読んで頂きたくて「人生は味わい深い」を書きました。是非読んで見てください。また…

高松仙人

若い人に読んで頂きたくて「人生は味わい深い」を書きました。是非読んで見てください。また幸田露伴先生の作品もなかなか良いです。逐次投稿していきますので、これも是非読んで見てください。

最近の記事

幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 白磁・音楽」

 唐の人で青瓷を論じた者に陸羽がいる。羽は秘色と云わなかったが、羽もまた越州の青磁を上と見て、邢州の白磁を下と見る。しかしながら、邢州の白磁もまた世に重んじられたことは明らかで、そのため杜甫にたまたま邢磁を賞する詩がある。しかし越磁を詠む詩は無い。ただし青磁や白磁が重んじられた唐の世に在って、惜しげもなく箸でもって越や邢の器を叩いて楽器とした者も在った。唐の段安節の「楽府雑録」に、「武家の朝、郭道源、よく瓯(かめ)を打つ、おおむね邢や越の瓯十二個を用いて、水をその中に加減して

    • 幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・青磁」

      青磁  「源氏物語」末摘花の巻に「ひそく」の語が見え、また「うつぼ物語」藤原の君の巻の絵詞(えことば)に「ひそく」の坏(つき)などのあることで、秘色青磁は我が国の陶器を語る者達がうるさいほどに云い騒ぐことになって、しかもその器(うつわ)に伝来の確かなものが無いことで、終(つい)には「嬉遊笑覧」の撰者のように、「此処には渡らず」と断定する者も出るようになった。「源氏物語」・「うつぼ物語」・「李部王記」などに出ているのに、どうして全く伝来しないことなどがあろうか。このような稀な

      • 幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 月・霜」

         連歌はおもしろいものである。前の句と次の句が連なって、しかも各章は自然に流れて、句意が変わり言葉が変わっても、情景には通じ合うものがあり、彼より此れを生じ、甲より乙に行き、或いは直に行き、或いは横に流れて、転々と遷(うつ)り移って窮まることが無い。   この巻は私の庵の閑な折々に、取り止めない雑談を多少の因縁の糸の牽くに任せて、それこれと記したもので、題して聯話と云う。ただ古人の独吟や百韻のような勝れた味も無く勝れた趣も無いのは老人の戯れ仕事のためで、付けごころも分からない

        • 幸田露伴の随筆「無題」

          無題(無題で出来ました。無題にして置いて下さい。)    〇  むかしは朱引きの内外(うちそと)と云った。今は市部と郡部とを分けて市中と郊外とに区別するが、江戸から東京になり、東京から大東京になって、住民は日々に多く、住居は月々に増えて、朱引きの区分はとっくにその実質を失い、市と郡の境界もすでに名だけのものとなった。昨日の柴垣は今日のなまこ塀に変わり、ハンノキに霞のかかる野原も煙突から黒煙を吐く処(ところ)となり、すべてが活動写真のように目まぐるしく移り変って、市内も郊外も

        幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 白磁・音楽」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草49・50」

          四十九 戦  人間界における戦争は自然界における雷雨のようなものである。陰陽の調和が破れて上昇と下降の吊り合いを失えば必ずこの上もない大雷大雨が起って、そしてその後に初めて天は澄み、地は潤って、草木は佳気をおび鳥獣に喜色の現われるのを見る。利害が相反して情理の通ずるところ無ければ必ず忿戦忿争の一場面があって、そしてその後に、初めて文明の光が布かれて和らぎ親しむ光景の生じるのを見る。自然界に雷雨は無くならず、人間界もまた戦争を無くすことができない。  戦争は水である。その水が人

          幸田露伴の随筆「潮待ち草49・50」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草48」

          四十八 元の時の諺 ◦功名モ紙半張(はんちょう)  功名も結局は虚栄に過ぎないと卑しんで罵倒したのである。まことに偉大な功名と云えども、結局のところ一枚半枚の紙の上にその跡を遺すだけである。鄭徳輝(ていとくき・鄭光祖)の「王燦登楼(おうさんとうろう)」に出てくる。 ◦宝剣ヲ烈士ニ贈リ、紅粉ヲ佳人ニ贈ル。  これもまた「王燦登楼」に出てくる。高則誠(高明)の「琵琶記」の両賢女がめぐり合う場面にも出てくる。物は各々落ち着くところがあるべきなので、この諺はおもしろい。 ◦巧言

          幸田露伴の随筆「潮待ち草48」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草47」

          四十七 支那の諺  支那(中国)の字書と韻書の用語例を照合して諺の字義を考えると、一は民間伝説の意味があり、二は俗論の意味があり、三は我が国の言葉で云ういわゆる諺の意味がある。「諏訪湖の氷は、狐がこれを渡れば、人もこれを渡ることができる」云うような我が国の民間伝説も支那においては諺と認められ、「九尾(きゅうび)の悪狐(あっき)が化けて殺生石となった」と云うような譚(はなし)も諺として認められるようである。一の民間伝説の意味では、酈道元(れきどうげん)が「水経註」で、「鳳林は山

          幸田露伴の随筆「潮待ち草47」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草45」

          四十六 諺  熊代彦太郎と船尾栄太郎の二氏は、俗諺の語句に甚だ短いが意味の深いものが時にあるのを悦んで、私と会うたびに俗諺の話をしないことが無い、未だ嘗(かつ)て私は、好んでこれを聞かなかったことは無い。思うにいわゆる俗諺と云うものは、その言葉は鄙びていて質朴で飾り気がないが、その味わいのある良いものになると、直(ただ)ちにこれは詩である。直ちにこれは詩神の声であり気息であり、その未だ必ずしも味わいある良いもので無くとも、世に伝わって数百年も亡びないものは、皆コレ無名の詩人が

          幸田露伴の随筆「潮待ち草45」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草45」

          四十五 文芸の評  江戸の近くに在るので、飛鳥山や道灌山も山の名をもって呼ばれ、京都の中に在るので音羽の滝も滝を名乗る。しかし奥深い田舎の地に在っては、飛鳥山や道灌山を十倍・二十倍にしたほどの山も、呼ばれる名も無く、山とも云われずに年月を経、また音羽の滝を三十倍・四十倍にしたほどの滝も、人のうわさにも上らずに、勿体なくも水だけを絶え間なく流れ落としているのが常である。これと同じように文学の上でも、それほど持て囃すことも無い作品が、幸運にも凄まじく持て囃されることがあり、また褒

          幸田露伴の随筆「潮待ち草45」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草44」

          四十四 たけくらべ  一葉女子の晩年の作には何れも愚作は無いが、特にこの作品は筆も美しく趣も深くて、少しは出どころの分かる文句や、古くさい書きようなども無くはないが、全体のすばらしさは私等の眼をくらませ心を酔わせ、次から次へと展開する筋に対応するのに精一杯で、無論欠点などを挙げようなどと少しも思わせない。近頃は世の中の好みなのか、批評家の好みなのか、作者の好みなのか、不思議な小説が流行しているが、作品を読むたびに私等は眉をひそめて、「コレは趣向を新しくして効果を上げようとして

          幸田露伴の随筆「潮待ち草44」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草43」

          四十三 芸術と勉強  勉強と云えば誰もがこれを善い事だと認め、不勉強と云えば誰もが直ちにこれを宜しくない事だと認める。勉強と云う一語もしくは不勉強と云う一語に対して、今の世の大概の人は皆このような感を抱いているようだ。  勉強は努力と云うことである。努力が未だ善でないのであれば、努力はなお未だ悪でないようにすべきである。努力する動機が善である後に初めて努力は善のようになる。勉強は勉強の対象と動機が善であると確定した後に、初めて善であり是であるようになる。ソウ、そのようになるの

          幸田露伴の随筆「潮待ち草43」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草42」

            四十二 魚   鯉  鯉は美しい魚である。第一にその姿が正しく、第二にその色が麗しい。形もいろいろある。まるくてスラリと長いのがあり、平らで幅が広く頭が小さいエビス鯉と云うのがある。何れも曲線の輪郭は見る眼もやさしく愛らしい。色は墨汁の中に金粉をまぜたようなものがあり、銀のように白みを佩びたものがあり、浅葱鯉と云って浅葱桜のように青みに見えるものがあり、紫鯉と云って黒の中に紫の艶がさす見事なものがあり、また緋鯉あり更紗鯉ありで、皆人を心地よくさせる。それなので、西洋の人

          幸田露伴の随筆「潮待ち草42」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草40・41」

          四十 銭範  詩を作るのに、起句は正にこのようにあるべき、承句は正にこのようにあるべき、転句は正にこのようにあるべきと云い、抒情詩は正にこのように作るべき、叙事詩は正にこのように作るべき、劇の詩は正にこのように作るべきと云って、自分が予(あらかじ)め想っている通りに詩を作るようなことは古人の為さないところであった。今の人はともすれば詩を作るのに銭を鋳(い)るようにする。胸中にマズ一ツの範型を用意して、その範型に随おうとする。起承転結の句法は必ずこのようであるべき、抒情詩や叙事

          幸田露伴の随筆「潮待ち草40・41」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草38・39」

          三十八 選択  人はその親を選んで生まれる権利は無い、又その子供を選んで生む権利は無い。ただ僅かにその妻を選んで娶(めと)る権利があるようであるが、これも見たところ、自分の望むような女性を娶ることができている者は十人に二三人である。その七八人までは自分の望むような女性を娶れてはいないようである。人は誰でも、妻を娶るなら花のような妻を娶りたいと思うであろう、しかしながら花のような妻を有する者は甚だ少なくて、芋のような、唐茄子(とうなす)のような、青瓢箪(あおびょうたん)のような

          幸田露伴の随筆「潮待ち草38・39」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草36・37」

          三十六 雑草  雑草と云うものはおもしろい。百坪の庭には百坪の雑草が生え、千坪の庭には千坪の雑草が生える。世がもし穀物だけで、雑草と云うものが無いのであれば、富貴な者は永久に誇り、貧窮の者は食を失う。雑草と云うものが生えるために、庭園の驕りにも限界が有るのである。そうでなければ百万坪二百万坪の庭園を造って、無駄に自分の驕りのために国土を塞ぐ者が一代に三人四人は必ずあるであろう。雑草は人間の驕りに課す税ではないかと思うとおもしろい。  また雑草と云うものは恐ろしい。これを踏みに

          幸田露伴の随筆「潮待ち草36・37」

          盛山大臣を即時更迭して、自らが兼任して統一教会問題に当る。 と云えば支持率も上がるのだが、 岸田さんには緊急対応力が不足しているようだ。 ・・・ 岸田さんの答弁はアベちゃんのように揶揄することなく、 スガちゃんのように素っ気なく無く 誠実で宜しいのだが、 首相がグズではいけない。

          盛山大臣を即時更迭して、自らが兼任して統一教会問題に当る。 と云えば支持率も上がるのだが、 岸田さんには緊急対応力が不足しているようだ。 ・・・ 岸田さんの答弁はアベちゃんのように揶揄することなく、 スガちゃんのように素っ気なく無く 誠実で宜しいのだが、 首相がグズではいけない。