小高正行

いつの間にか高齢者になりましてけっこう暇です。

小高正行

いつの間にか高齢者になりましてけっこう暇です。

最近の記事

デジタル化すると情報が順番に流れてくる。紙の本のようにどこからでも簡単に開くのがめんどくさい。どこからでも突っ込こむことができたことがやりにくくなっていくようですね。選挙に期待しましょう。

 通信というのは文書のようなひとつづきの記号をやり取りするという図式で説明される。情報理論という本にはじめに出てくる図式だ。当たり前すぎてこのモデルの図式の印象の与える「狭さ」に気がつかない。こういうのには、ひとが集まってくる様式とは根本的に違っているところがある。整理や管理がしやすいということで、ノイズが分離しやすいわけだから操作するためのパワーを持っているところに情報もカネも集まってくる。いうことなしだよね。ホントに都合のいいことばかりで非対称性はどんどん進んで行く。 

    • 人間にとっての理想とはなにか、どういう人間にあこがれるかということ。これが成立しにくくなっていくこと。でもどこかにあるかも。

       アメリカにはじめての黒人大統領があらわれたときには一瞬ではあるが何かが期待された。あたり前のことだけどその期待は近代的な社会にはそぐはないものだから、黒人の大統領だからといって超能力があるはずもなくカリスマ性があるのでもないのは当たり前なので、すぐにそういう期待はなくなった。政治によくわからないファンタジーのような何かを期待していたのかということが冷や水を浴びせられたように正気に戻れと言われたようだった。数億人もの人がなにかまともに理性的な判断能力を持って政治的問題に関心を

      • 「時間」「空間」の言葉、「機会」「場所」の言葉、それとファンタジーの可能性。間接的なコントロールか直接性の圧力か。なんというのかファッションにも実存にも限界が来るとしたら?エンターテイメントのテーマは?

        ひとの存在は誰でも簡単に考えている。こどものころは誰でも自分の知らない他のこどもたちと出会うからだ。こどものいる場所というところがあるからだ。公園みたいなところとか保育園とか幼稚園とか小学校とかがある。当たり前すぎるけれど、そういう場所でこどもとこどもが出会うにはその機会を作る誰かのいることが必要で、それも含めて、他の人が存在することがわかるには、「場所」「機会」が、「場所」だけでも「機会」だけでもだめでその両方が必要のようだ。    この両方が自然にでなくて片方だけに偏る

        • 『ゴジラ-1.0』が無料で見られるようになったので見てみました。この映画の軽快な面白さを面白がれる面白さが面白い。

           はて、と気がついたのだが、ゴジラ映画は戦争と関係があるようで戦争のシーンはまったくない。あたり前のことだけど実際の太平洋戦争にゴジラはいないからゴジラは戦争とは関係がない。はじめてゴジラがスクリーンに現れた時、戦争の死者たちとゴジラという怪獣を、見る人が勝手に関連付けてしまうだけだった。今回はそういうことはまったくない。戦争やってる日本と匹敵するほどの力をゴジラは持っていて日本の兵隊たちをめちゃくちゃにやっつけるだけである。特攻から逃げだして南の島の海軍基地にもどってしまっ

        デジタル化すると情報が順番に流れてくる。紙の本のようにどこからでも簡単に開くのがめんどくさい。どこからでも突っ込こむことができたことがやりにくくなっていくようですね。選挙に期待しましょう。

        • 人間にとっての理想とはなにか、どういう人間にあこがれるかということ。これが成立しにくくなっていくこと。でもどこかにあるかも。

        • 「時間」「空間」の言葉、「機会」「場所」の言葉、それとファンタジーの可能性。間接的なコントロールか直接性の圧力か。なんというのかファッションにも実存にも限界が来るとしたら?エンターテイメントのテーマは?

        • 『ゴジラ-1.0』が無料で見られるようになったので見てみました。この映画の軽快な面白さを面白がれる面白さが面白い。

          ロマンチックはちっともぜんぜんロマンチックじゃなくなっちゃったのはなぜなんだろうか?世界がひどくなってるから?映画『メッセージ』のメッセージは何か。

           ロマンチックは普通「情熱的な」とか「熱狂的な」ということだと思われている。具体的には人びとの心を動かし鼓舞するということのようである。  壮大な偉大なという大きなスケールなものもあれば、人の声の響きのような小さなものもある。険しい山のようなものもひねもす大洋のようなものもある。歌ってるようなものもある。若さに限らないで中年ぐらいでもいいしものによっては老人だってかっこいいこともある。こどものめでたさでももちろんいい。なんとなくわかるようで結局なんだかわからない。でもロマンチ

          ロマンチックはちっともぜんぜんロマンチックじゃなくなっちゃったのはなぜなんだろうか?世界がひどくなってるから?映画『メッセージ』のメッセージは何か。

          オッペンハイマーはもういいから日本のことはどうだったか。手塚治虫は鉄腕アトムと原子力の関係にうろたえてしまう。戦後の日本の科学は鉄腕アトムがヒーローであった時代の科学であった。アトムのことをちょっと思い出した。

           「手塚さん、鉄腕アトムが胸に原子炉を入れて空を飛ぶというのは危なくないんですか」って聞いたら手塚さん顔面蒼白になって黙っちゃったんです。中沢新一の対談集にはそう書いてあった。  手塚治虫にとって、医学や科学やテクノロジーの問題は、よくわからないままだった。彼がどう考えていたのか。  それで「あっ、まずいこと言った」と思って、後で手塚さんに「場所柄もわきまえずすみませんでした」と平謝りしたら、「いや、それはね、僕も考えていることでね」って、しんみりしちゃいました。」。  この

          オッペンハイマーはもういいから日本のことはどうだったか。手塚治虫は鉄腕アトムと原子力の関係にうろたえてしまう。戦後の日本の科学は鉄腕アトムがヒーローであった時代の科学であった。アトムのことをちょっと思い出した。

          なにごとにも終わりが来る?戦後の終わりは来たんだろうか。むかしの人の講演の文を眺めて思ったこと。九鬼周造『日本的性格について』

           不景気や経済的な停滞がずっと続いている。それがほとんど当たり前になってもそれが不満にもならない。統治者がどんなことしててもどうでもいいと感じてる。それは自然のいとなみみたいなんだとだれもが感じているのかもしれない。よくある物語の展開にしても、日本のものでは、登場人物の深い動機は読者にはわからない。物事の定めのなさ、命のはかなさへの感情が重視されている。諦めなのか、すんなりすべてを受け入れてしまう。美学なのかそれが日本の人の性格なのか。ちょっと他の先進国では見られないような日

          なにごとにも終わりが来る?戦後の終わりは来たんだろうか。むかしの人の講演の文を眺めて思ったこと。九鬼周造『日本的性格について』

          荒唐無稽な望みにいまだ基づいているように見えること。ひとの記憶は当てにならない。今回の補選は面白かったか?

           当てにならないと頼りにならない。これは似てるようでちがうというが、「当てにする⇒頼りにする」、「頼りにならない⇒当てにならない」、なんて感じだが、距離を取ってみたら、こういうことなんか考えるのも、荒唐無稽なのだった。  何を言いたいのかというと、今回の補選の感想なのであった。当事者たちにとっては、「ひとの記憶は当てにならない」であったようだ。とはいえ、本人にとってはどうだったんだろうね。このことに違いがあると思い知った人もいたようでしたね。ところが、はじめからこれを見越して

          荒唐無稽な望みにいまだ基づいているように見えること。ひとの記憶は当てにならない。今回の補選は面白かったか?

          クドカン話題のテレビドラマ『不適切にもほどがある!』「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど!」だけど面白いです。

           ちょっと遅れてるけれど『不適切にもほどがある!』を見ていて思ったことを書いてみます。過去の話と現在の話なので、思いっきり過去に飛んでみました。  先史時代の洞窟の壁画はよく知られています。ラスコー洞窟壁画はかなり人気があります。レプリカがつくられてそれの展覧会が科学博物館でみられました。たくさんのファンの皆さんが駆け付けたようです。  それを見て古臭くてつまんないって思う人はまず誰もいない。誰もが魅せられてしばしたたずんでしまう。  人気があるからといって、その理由を、そ

          クドカン話題のテレビドラマ『不適切にもほどがある!』「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど!」だけど面白いです。

           統治のおはなし。それは力の支配とは違うらしい。投資のおはなし。隠れた秘密の愛があるらしい。サルの社会や猫の社会で遺伝子を調べたら意外だったこと。

           人は社会というような大きなまとまりでいる。そのなかにはまた部分的なまとまりがある。これらの集団の関係がどうなるのかということと支配することの関係はどうなっているのか。  人のまとまりを問題なくマネジメントするには政治的な制度をつくって統治する。君主制、貴族政、共和制、民主制、など。制度はその社会が求めていることとほぼイコールなのでそうなってる。まるで芸術作品のように、形式と内容は一致する。王様のいる社会は王様がいるみたいな物語のように生活習慣が形作られている。内容が形式を創

           統治のおはなし。それは力の支配とは違うらしい。投資のおはなし。隠れた秘密の愛があるらしい。サルの社会や猫の社会で遺伝子を調べたら意外だったこと。

          水に流すか、水が流すか。雨が降ること、それの効果があやふやになってきたのか、雨の場面が見れなくなった気がする。

           もともとこの世には穢れというものが生じてきてにっちもさっちもいかなくなってきたときに雨が降ってきてそれをどうにかしてくれる。生きることが限界に近づいてきてもう自分の力でぬけだせなくなったときに天のたすけのようにかあるいは場面全体が雨でいっぱいになるようにしてそれが消える、というような終わりがあった。事件であれ戦争であれ物語の主人公の問題になるときには雨の場面があった。再生というか季節の転換というかそういう大きな巡り合わせがあってその中に紛れ込むようにして個人的な小さな問題に

          水に流すか、水が流すか。雨が降ること、それの効果があやふやになってきたのか、雨の場面が見れなくなった気がする。

          鉄道文化のナゾ。中央線と東横線、総武線と西武線、東武線と京成線、生活の文化と再生産。新たな対立構造?風景のおわり?テレビドラマで知れること。

           どこの先進国でも経済的離陸を体験している国でも、成人になる期間が長くずれ込んでいるという。結婚してこどもをつくる時期が遅くなっていて長い青年期を送るようになった。それぞれの地域の文化はそこに生まれたこどもたちの「躾け」を家族内で地域内の人々や学校によって行われることで持続すると考えられている。  地方から東京へやって来るたくさんの人がいた。彼らが自分の故郷へは戻らずに東京に定着して東京の人口は増加して新しい街が様々なところにできた。そうして、東京には鉄道路線図に重なるよう

          鉄道文化のナゾ。中央線と東横線、総武線と西武線、東武線と京成線、生活の文化と再生産。新たな対立構造?風景のおわり?テレビドラマで知れること。

           無関心の本質は、平静さにとどまれること、であると思う。

           無関心は今は普通あまり良いことだと思われてはいない。しかしそういうのが実は大切なことであるという場合もある。  民主主義の社会では無関心は困ったことだと考えられている。政治に無関心はダメですよ。  ところが、無関心が美徳でありうることもある。無関心でいられるなら物事を平静に考えることができるからである。  何か特定のことを信じることがよくわからなくて、そういうのは自分には絶対にないと思っている、精神性みたいなものにはまったく無頓着でおみくじぐらいはたまには買ってみたりしても

           無関心の本質は、平静さにとどまれること、であると思う。

          ノーランの『オッペンハイマー』はちょっと見た限りでは日本ではあまり評判がよくないのはなぜ?

           ハイゼンベルグの部厚い伝記によると原子爆弾の問題は彼自身の個人的な動機の問題にかなり左右されていたように書かれている。ナチスの中での自分の位置をどうやって有利に出来るかということ。戦争モードが近づいていると愛国心のようなものが目立ってくる。しかし、このようなものは半分くらいはまわりが気になる偽善みたいなものだ。ナチスの中での科学者の問題は戦争でナチスにとどめが刺された跡では失われた記録などが多くてはっきりしたことはわからないようである。科学的好奇心、または名誉心、功利的な動

          ノーランの『オッペンハイマー』はちょっと見た限りでは日本ではあまり評判がよくないのはなぜ?

          未来を可能にする技術を想像してみる。社会が自分自身の問題をまったく何も気にしないようになっていくことがあってもぜんぜん何も問題ないように、技術はかまわず進むことの凄さに人間たちは驚いてしまうだろう。さらにその先を行くこと。たぶんこれがAIのもつ根本的な優位さだと思う。より良き未来とはこんな感じか。

           人間は見かけにとてもこだわる。見かけの良さは他の性質においても優位な可能性を持っているのだろうか。見かけの良さを保ち続けるにはそれなりのコストがかかる。それを支払ってさらに見かけの良さにまで到達できるのは優れた性質を持っている証拠になるのだろうか。キレイさ見かけのすばらしさかわいさ強く見えることなど。こういうことにとてもこだわるのに自分自身の見掛けや小綺麗な身だしなみにはまったくどうでもいいような人たちもいる。オタクな人たちである。オタクな人はこだわる人である。  ところが

          未来を可能にする技術を想像してみる。社会が自分自身の問題をまったく何も気にしないようになっていくことがあってもぜんぜん何も問題ないように、技術はかまわず進むことの凄さに人間たちは驚いてしまうだろう。さらにその先を行くこと。たぶんこれがAIのもつ根本的な優位さだと思う。より良き未来とはこんな感じか。

          富岡多恵子が紹介する土方巽の話。美と想像の話。この続きを考えてみればどうなるか。

           「昔貧乏人の子がサーカスに売られて、両脚を水平に開いて頭を地べたにつけろといわれても頭はつかない。しかし、それをやらないとその日の晩めしがもらえないとわかると股が裂けても頭は地べたにつく。一方、バレエを習っている金持ちの娘は、一日一日と合理的に開脚の訓練をしてきているから頭は地べたにつく。ただし、その日はじめて綱を渡れといわれたらこわくてすぐに綱から落ちる。股を裂いた子ははじめから綱を渡る、というハナシである」。  自分の感情、恐怖心や嫉妬みたいな、金持ちの娘の抱くであろ

          富岡多恵子が紹介する土方巽の話。美と想像の話。この続きを考えてみればどうなるか。