日本橋-飛矢静止論

ゼノンのパラドックス
paradox of Zenon

古代ギリシア,エレアの哲学者ゼノンが唱えた連続性に関するパラドックス。代表的なものに以下の二つがある。
(1) アキレウスカメ (中略)
(2) 飛矢静止論(ゼノンの矢) 飛んでいる矢は各瞬間において一定位置を占め,その位置で静止している。ゆえに矢は運動することはできない。

連休、都心から離れてふと我に返る。自分の生きている時間軸の歪さ、その根底にある強迫めいた焦燥から。生きる時間の速度は環境に規定される、なんて言葉、少し前からスローライフだとか丁寧な生活、だとかを標榜する識者が常々口にしているのを耳にしたことは誰しもあるだろう。だが、往々にして自分自身がどの時間速度で生きているかは見落としてしまうのが常だ。

残念ながら、いまの社会構造は停滞を怠慢と容易く置き換える。変化する社会構造、台頭するテクノロジー、グローバル化。そのすべては我々に対して不断の努力と変化、適応を強要するのだ。だからこそ、自分の生きる時間速度を早めることこそが至上命題だと疑わずにはいられなくなる。誰もがそこで藻掻いているのだと。

その錯覚に駆り立てられ、僕らは時間を無限小へと微分し始める。一年を一月に、一月を一日に。そうしてその日の晩に一日を振り返るも、観測可能な微小変化、あるいは成長なんかが生じている筈もなく、愚かにも自らが静止していると錯覚し始めるのだ。まるでゼノンのパラドックスかのように。

東京の日本橋にいるとなおさらその強迫観念は悪化する。目に映る全てが市場原理で構成されていて、この世界に存在する全ての人間が終わりないシャトルランへと見を投じているに違いないと。だが、世界はそうではない。自然を対象に生業とする人々は四季の移ろいのなかで悠久の時間を相手取る。そこにおいて、緩やかな波を微分することに一体何の価値があると言えるのだろうか。

人生もまた同様だろう。無限地獄のシャトルランを凌ぎ続ける先に一体何を求めているというのだろうか。ただ束の間の灯火、這いずる影だとマクベスにあったように。単なる電気信号的な応答から高度に発達しすぎた知性は、こうやってその本質を見失い、手段に固執する。

だからこそ、自分の足で立つ訓練を続けて行かねばならないのだろう。"第三の誕生"を迎えてしまった幼子として。

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