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記憶のゆらぎ

 長く生きていると、記憶というものが頼りになるものかどうかわからなくなる。

若い時の友達とのエピソードも、自分が実際にその場にいたのか、友達から聞いた話を自分の体験として取り込んでしまったのか。例えば、駅で待ち合わせていた友達が来ないから変だと思っていたところ、人だかりがしているので、見てみると、なんとその友達が卒倒して地面に倒れていて、顔に土がついていた。助け起こそうとして「お願いしまーす」と言っても誰も助けてくれず、一人のおばあさんが肩を貸してくれた。それから駅長室まで運んで、救急車を呼んだ。友達は救急車の中で意識を取り戻し、「私のバッグは?」と言った。さらに「健康保険...」とまで言った。そして、友達はもうすぐ海外で働くというのに栄養失調で、よくこんな体で働いていましたね、と医師に言われたという。

しかし、よく考えて見ると、その倒れた人Aさんは同級生ではあったが、二人きりで待ち合わせするほど親しいわけではなかった。Aさんは私の親しい友達Bさんと仲が良かった。またBさんは話の面白い人で、私は笑わせられてビールが気管に入り、死ぬ思いをしたこともあった。これはBさんの体験を聞いて、あまりに臨場感のある語り口に、自分もその現実に登場者として引き込まれてしまったのかもしれない。しかしそれなら登場人物は3人になるはずだ。それなのに、Bさんは語り手として認識されており、私はBさんに成り代わってセリフを言っているのだった。

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