いまさらながら観光は人のさがで成り立つ遺産

人類の持つ遺伝子には、闘いが組込まれているのであろうか?昨今のウクライナ情勢を含めて、地球上にて紛争がない時代、地域は見当たらない事に改めて気付かされた。
今日の有名な観光地の多くもかつての戦場であり、きっと多くの血が流された地が、その遺恨や景観に歴史という厚みを持たせる人間の闘争の物語が、訪れた者を魅了する要素となっている。
しかし、冷静に往時に自分自身をその場に置いて考えて見ると、恐ろしい地に立っている事に気づく。
時間を経て、初めて私たちは観光地として、愉しみや想いに耽るという行為に達することが可能となっているが、そのココロの根底には、闘いに対する本質的な肯定感が内在しているのではないだろうか?
もし、本質的にすべての争いを嫌悪する遺伝子とその感情により行動する生き物であれば、いくら時代を経ても多くの血が染み込んだ土地に観光をする気力、精神力が湧かないのではないだろうか?

この人間のさがをどのようにコントロールして、歴史をカタチづくるのか?

そのヒントにバーチャル空間があるのではないかという気がする。
バーチャル空間での殺戮は、リアル社会での悲劇を産み出さないで、人間のさがを満足させる世界を創造しているのではないだろうか?

バーチャルでの残虐行為により、リアルには負の行為が減少するスキームが、確立される未来が早く来ることを祈りたい。

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