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~リンパ輸注の不安と『私』~

しばらくリンパ輸注についての記載を続けてきているが、内容には不確かな部分や発言者の見解が異なることも多い。当初記載していた内容が、現在は
覆っているようなケースすらある。

それだけ稀な治療であり、具体的な方向性も見えにくいのであろうが、一般的な解釈でいくと不確かな情報の中に放り込まれると人は不安を感じるのではないかと思う。

家族に都度説明をしている中で前回と違う話がボロボロと出てくれば、なおのことである。

ただ、私個人としては「そんなものだろう」と捉えている。

不安を抑え込んでいるのではないかと「不安にならないことを不安に思う」こともあったが、現在の心境等をきちんと文字に残しておいた方が安心だと感じたので今回はそんなまとめにしようと思う。


▼ 治療の難しさ

なぜ治療方針が定まらず、変更があるのか?

その質問に対する答えは治療の前例が少なく、治療後の効果や副作用がどうなるかを検討している…ということに集約されるのではないかと思う。

現在の大学病院に5年以上勤務している看護師や医師であっても、リンパ輸注の患者は3~4人しか経験していないとのことで、いかにこの治療が稀であるかが分かる。

そのためリンパ輸注の方針を立てていく中で「どの部分に焦点を当てるのか?」によって、方針が変わることは仕方が無いことだと私は認識している。

例えば、以下について考えてみる。

・ 治療の効果

先ずは当然ながら治療の効果を最大化するためには…という視点である。

リンパ輸注という処置を行うことによって、どこまでの効果を求めるかによって内容は変わってくるのであろうが、一応私においては年齢がまだ若い部類にあるということで従前の治療と同様に『寛解』が目的とされている。

皮膚腫瘤の患部の状態を「抗がん剤の使用や放射線によって抑えるのか」といったところも、リンパ輸注によってどこまでの成果を挙げるかどうかによって左右されている様に感じる。

以前服用した「ハイエスタ」という抗がん剤は、あくまでも病気を抑え込む一時的な効果を狙うモノであり、その薬で寛解が目指せるわけではない。放射線治療も単体においては同様である。

そのため治療は複数の選択肢を取捨選択して、最大限に近い効果(この場合では『寛解』)を目指す中で治療方針が変わることは、十分あり得ることだと思っている。

・ 副作用の有無

次に考慮されているのは副作用ではないかと思う。同種移植によって合併症発症し、死の淵を彷徨った現場に入院しているのだからこそ当然と言える。

リスクとリターンのバランスを勘案された上で、リンパ輸注という治療が選択されているのであるが、治療の選択肢には「再移植」も含まれていた。

再移植による寛解の可能性はリンパ輸注よりも高い可能性も示唆されていたが、当然副作用(特に前回引き起こされたVOD)のリスクも前回以上…と言うよりかはケタ違いという状態の中で、現在のリンパ輸注が選択されている。

治療のケースが稀(後述するハプロ移植も含む)であるため、副作用の可能性も十二分に考慮されるべき内容である。場合によっては効果よりも副作用のリスクを重くとることすらあり得る。

副作用の表面化がどこに起こるのか、どの程度なのか、どのタイミングなのか…といった様々な視座で評価をするのであれば、治療方針も当然二転三転することを予想することは難しくないと思う。

・ 治療の方法

今回はリンパ輸注と並行して放射線の部分照射が選択されている。抗がん剤は心臓への副作用リスクがあったので、見送りとなっている。

放射線照射についても回数や強さ等の説明が当初から何度か変更になっている。ざっくり理解しているが、簡単に書くと合計25回照射する予定が12回へと変更になり、照射する量(回数×強さにより算出される)は当初の通りとなっている。

放射線照射の回数は減ったが、1回あたりの強さは強くなったということである。

その結果起こるリスクや変更した理由も説明を受けたが、それほど大きな理由ではなかったので割愛をしようと思う。

まぁ退院の予定が放射線によって左右されないため、というのが大きかったように感じる。25回照射すると3月末日まで掛かるが、12回だと3月上旬に終了出来るのである。

このあたりの理由を聞いた時に、雰囲気で押し切らないで論理的に説明してもらえるのは本当にありがたい。

極論であるが、内容がウソであってもこちらが納得すればそれでいいぐらいに私は思っているので、むしろ強引に押し切ろうとすることだけはやめて頂きたい。

さて、リンパ輸注そのものについては、弟からリンパ球を採取した際に100回分程度を採取した…と聞いているが、当然そんな回数輸注するわけではない。

先ずは採取当日に輸注の標準量と定めた1/10を輸注して、様子を見た上で標準量を投与するという流れであった。

1/10の投与で何か想定外のことが起これば投与の量や回数、投与のタイミングなどが変更される旨は何度も説明を受けている。

…まぁ当たり前のことだと思う。仮に標準量を投与して何かが起これば、その後の予定も変更されるであろう。

先が見通し難い治療であるからこそ状況に応じたベターな選択が取られるとと思っているし、例えば投与日が〇日想定が▲日になった…となれば、変更せざるを得ない何かが起きたのであろう。

・ 臍帯血移植のリンパ輸注

私は、臍帯血移植については次の様な解釈をしてる。

成人男性の大部分は可能であれば臍帯血移植ではなく、造血幹細胞移植の方が望ましい。

理由は幾つかあるが、

・ 私の体格ですら、臍帯血では不足する可能性がある
・ リンパ輸注という治療の選択が出来ない

もちろんドナーの関係や、臍帯血移植のメリットもある程度把握した上での発言である。今後私が臍帯血移植をする可能性すら否定出来ないことも知った上で…である。

臍帯血移植についてのデメリットは生着率が、ドナーからの造血幹細胞移植よりやや低いことがデータとしてある。その理由が造血幹細胞の絶対数の少なさにあると、過去から散々説明をされてきた。

説明を受けた当初(173㎝ 55~60キロ)の私の体格で望ましくない(サイズが大き過ぎる)と言われれば、世の成人男性の大半は同様の説明を受けるのではないかと思う。

そのため、私の中では小柄な人や女性が選択する治療…というイメージ下にある。

もちろん説明を受けたのは過去の話なので、時代の流れによってそれが否定されることは医学の進歩として望ましいのではあろうが、私の認識はその様にある。

さらに言うと、リンパ輸注は過去に造血幹細胞の提供を受けたドナーからリンパ球の提供を受けるという特性上、臍帯血移植ではリンパ輸注は出来ないということになる。

そもそも、ドナーが存在しないのだからである。

ただ、海外では別人のリンパ球を投与しているとか、余った臍帯血を冷凍保存してリンパ輸注に活用(基本的に臍帯血は余らないはずだけれども…)などのいろいろな話が出てきたので、自分としても多少混乱している節がある。

医学の進歩によって、昨日まで治療出来なかったことが今日出来ることは望ましいと言えるし、そのあたりは専門家にお任せしようと思う。

私に出来ることは、あくまでも情報集めた上で抽象化して言葉にする…とここではしておきたい。

・ ハプロ移植者のリンパ輸注

ハプロ移植(半合致の移植)の当事者としては、まさに医学の進歩を肌で感じている。前述した通り、過去に否定されていた治療を私は選択出来ていることになる。

…その分、前例が少ないのではあろうが。

リンパ輸注の治療は、過去のデータとしてはフルマッチ(完全合致)によるものが大半であったと聞いている。単刀直入に言えば、時代によっては私はこの治療を選択出来なかったわけである。

同時にハプロ移植とフルマッチ移植のメリット、デメリットも存在しており、それは同様のカタチでリンパ輸注に引き継がれる可能性が高い様に感じている。

GVHDのリスクはやはり私は高いことが予想されるので、どの様なことが起きるのかはフタを開けてみないと分からないだろう。

だからこそ方針の調整や変更が起こり得ると理解しているし、自分自身の思考も柔軟に対応していきたいと考えている。

▼ 自分は正直「どれでもいい」

こんなことを言ったら元も子もないのであるが、この「どれでもいい」という感覚が今の正直な気持ちである。

…別に投げやりになっている訳ではない。

未来を放棄することは、過去に積み上げてきた自分を否定することになるし、そんなことは絶対にしたくない。

ただ、何度かNoteにも書いている不変の事実がある。

人は、いずれ死ぬ。

このことを考えれば、どの選択をしても行き着く先は一緒なのである。

そうなれば「どの選択肢を選んでも一緒なのだから…」とも思ってしまいがちであるが、選択肢が出来上がるまでのプロセスを考えればそんな失礼なことは出来ない。

例えば

・ リンパ輸注の回数が2回の予定が、3回になったとする。
・ 1度に輸注する量が、当初の半分になったとする。
・ 放射線を照射する回数が、再び変更されたとする。

…正直状況は何でもいいのであるが、仮にどの状況になったとしても私が思うのは「どれでもいい」である。

その背景には『医師の矜持として絞り出した選択肢に価値の差はない』と考えているからに他ならない。

少なくとも、私の治療に携わって頂いた医師の方には感謝してもし尽くせない恩がある。病気になって治療が出来るということも、多くの人に支えられていて決して『当たり前』ではない。

もちろん私の性格上、選択肢としての検討についてのプロセスの理解は欲しい(ここは重要になる)のであるが、それに納得出来ればあとはそれに向けて私の出来うることをするだけである。

わけの分からない漢方やら、水やら、気功やらについて私は全く興味が無い。

医学という一つの学問分野において積み重ねられた過去の歴史を冒涜、侮辱する様なことはしたくない。

結局は自分が信じることを信じれば良いのであって、何を信じてもいいと思う。結果として私が信じるのが医学であり、不変の事実としてあるのが人は必ず死ぬということでしかない。

多少余談になるが、前例が少ないハプロ移植者のリンパ輸注と言うことで論文になるのか…なんて半分冗談で医師に聞いてみたが、残念ながら論文にはならないだろうとの見解であった。

もちろん治療の1つの例としてデータは残るそうなので、未来の誰かのためにはなることにはなる。医学に少しでも貢献出来るのであれば、それは喜ばしいことである。

ただ、代わりに言われたのが「前回の同種移植時に発症したVODからの生還に関しては論文になる…いや、論文にする」という言葉である。

それだけの奇跡に近しいことが自分には起きているわけであって、その論文が未来の誰かの希望になるのであれば、とても喜ばしい。

私が長く生きれば、私が車イスではなく自分の足で歩けるのであれば、私が点滴ではなく食事を摂取出来るのであれば…きっとそれを希望としてくれる人がいることだろう。

未来の…誰かのために。

▼ さいごに

未来のどこかの誰かのためになるなら…なんてカッコイイことを書いたが、治療はそれ以上に身近な人のためにしている…というのが正直なところ本音なのだろうと思う。

治療に際して大学病院への聞き取りに両親が付いてきてくれたが、移動費に宿泊費に食事代まで何もかも面倒を見てもらった。

いい歳した大人が恥ずかしいのであるが、払おうとすると「自分の生活に使え」「治療費が掛かるから」と首を縦に振られることはなかった。

ただ、その中で感染を考慮してホテルで惣菜を食べていた時に、冷めた出来合いの焼き鳥を「美味しい」と食べる母がふと印象に残った。

焼き鳥は温かい方が、いやどんな料理でも温かい方が美味しいだろう。

子供を持ってから思うが、親の立場で自分の食事は二の次で温かい食事を摂れることはほとんど外食に限られてくる。ただでさえ母は専業主婦なのでその機会も多くはないし、「焼きたての焼き鳥なんて食べたことあるのだろうか?」と感じてしまった。

そこで実際の入院のための移動時、付き添いは母だけだったので「入院前の最後の晩御飯は好きなものが食べたい」とかこつけて焼き鳥を食べに行った。別に特別な店ではない、自分が普通に何度か食べていた焼き鳥屋である。

母はとても美味しそうに「焼きたてなんて滅多に食べれない。すごく美味しいね。」と言っていた。

それがたまらず嬉しかった。

…そして親にこんなことすら出来ていなかったんだと少し情けなくなった。

治療はもちろん自分の命を紡ぐためにおこなっている。ただ、自分「だけ」のための治療ではないことも同時に噛みしめている。

・ 元気であること
・ 親より先に死なないこと
・ エンディングノートをまとめること
・ ありがとうの気持ちを伝えること
・ 受けた恩を忘れないこと

入院中の自分に話しかけて、こんなごくごく当たり前のことをちゃんとしたいと感じている。

人生は何でも出来るけど、全てを成し遂げるには短すぎる

だからこそ、自分が本当にやりたいことをしたい。治療はゴールではなく、やりたいことをするための『手段』でしかない。

…早く、元気にならないと。

ろくさん


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