「体育」の意味を改めて考える

昨年度末で退職し、この4月は次の仕事までのモラトリアムだった。今はもう自分で体育の授業をすることはないが、次の仕事もまったくの無関係ではないので、久しぶりにできたゆったりとした時間にも、体育について考えを巡らせていた。

新年度の体育を考えるオフラインイベントへの参加、体育・スポーツ経営学の研究をしている大学の先生とのディスカッション、為末大氏の著書『ぼくたちには「体育」がこう見える』をはじめとする関連文献の考証など、今までよりも一歩ひいた視点で体育を眺めることができた。

何も体育に未練があるわけではない。実は次の仕事は、スポーツ業界で人々にスポーツへの入口を提供する会社に勤めることが決まっており、私にとってはかなり重なるものが多い転職だと思っている。しかし、かたや「体育」から今度は「スポーツ」への業界移行とされるわけで、では両者の違いとは何なのか?というのが出発点となっている。

さらにいえば、私は体育をもスポーツと呼んでしまっていいのではないかと思っている身であり、スポーツ庁も「スポーツは体育を含む概念」と述べているため、では「体育を体育たらしめているものは何か?」を考えるに至ったのである。以下、この1カ月で私の中でまとめられた部分を備忘録として記していく。

1.「体育」が指す3つのもの

さまざまな方のお話や文章に触れていく中で、ふとそれぞれが述べている「体育」の指している中身がバラバラであることに気がついた。そして、それらを大まかにまとめていくと、その内容は3つに分かれていると考えられた。

(1)運動内容としての「体育」

体育という時間には必ず運動がついてくる(ここでは「保健」は別として考える)。このメインコンテンツである運動にどんな種類のものを用意するかは、すべての体育指導者にとって、さらには体育を受ける子どもにとっても重要な関心事である。

体力づくりと称して、校庭をぐるぐる持久走するのか、それともわいわいおにごっこをするのか。同じ「おにごっこ」にもその種類は無数にある。またサッカーなどの球技を扱う際には、参加する子どもの実態に即した「体育仕様のゲーム」に仕立てられる。体育は「運動の楽しさ」を伝える場であるため、指導者も子どもも「楽しい運動」を求める。したがって、この運動の良しあしが子どもにとっての「体育」を定義してしまうことは見逃せない。

私も拙著やSNSでこの具体的な運動内容に関する情報提供をしてきた。リソースは必ずしも学校現場ではないし、体育授業以外でも実践可能なものばかりである。しかし、奇しくもそれらを「体育ゲーム」と称して公開していることがまさに体育における運動内容の重要性を示しており、現場の教員が「今度の体育何を(=何の運動を)やろうか?」と思案しているのも、またに「運動内容としての体育」である。

(2)学習行為としての「体育」

とある体育に関する研修で「体育」という文字を中心にしたウェビングマップをした際、そのシェアリングの場で興味深いことがあった。「体育」と直接つながる言葉に「遊び」を書いた人と「遊びではない」を書いた人がいたのである。「遊びではない」なら何かと問うた時、その方が返した言葉は「学習」だった。

ここでは、遊びからも学びは生まれるというピアジェ的な発想ではない。結果的な学び(Learn)とは区別し、意図的な学習行為(Study)を指しているため「遊びとは違う」という結論に至っている。さらに、自らの課題に向き合う「探求」も近年の重要なテーマではあるが、学習指導要領やそれを咀嚼した教師によって方向づけられた「授業」というかなり外発的なニュアンスも含まれていたように感じた。

これは裏を返せば、体育はきょううぃvがきちんと掌中でマネジメントしながら「指導」しなければならないものであるという責任感でもある。大部分のイニシアチブを子どもに委譲するのではなく、あくまでもハンドルは教師が握り続けるべきだとする使命感がそこにみてとれる。多少の振れ幅や自由度はあっても、体育は子ども自身が創造する遊びではなく、「教師が意図した活動」をであるべきといいたいのだろう。そのため、単元構成や評価、授業づくりに関する問いは、「体育では子どもにどんなstudyをさせようか?」という学習指導観が基盤となっている。

(3)機能としての「体育」

体育を研究していたり、自らは特に体育に直接携わっていない大人は、しばしば「体育はもっとこうだったらいいのに」とコメントする。これは単なる愚痴ではなく、ある種の提言のような形で「体育にはもっと〇〇な効果・役割を期待したい」という論説も非常に多くある。

『体育哲学ープロトレプティコスー』では、「スポーツが実体概念であるのに対し、体育は機能概念である」と述べられていた。別のもので例えると、「氷」が実体概念で「冷却」が機能概念、「肥料」が実体概念で「成長」が機能概念となる。つまり、機能概念とは、対象に何らかの変化を意図的に起こすことを指しており、意図していない偶発的な変化(=影響)とは区別されている。

運動を通じて、身体的・運動的・知的・情緒的とあらゆる面に何らかのベネフィット(よい効果)をもたらすことこそが体育だという。これは先の体育現場の”外”の人々の願いと同じ視点であり、「体育では何を獲得できるのか?」という問いがそこにはある。

しかし、意図的であるとはいえ、機能とは結果をもってみなされるものである。①ねらって獲得させる (機能)もちろん最高だが、それ以外にも②ねらったのに獲得されない(機能不全)、③ねらっていないのに獲得できた(影響)という結果もコインの裏表である。

こうして3つの「体育」の意味について整理してきたが、これでは不完全なことは否めない。機能としての体育を論じることは、体育そのものの存在論を問う重要なテーマだが、もし機能概念であるならばその機能をもたらした運動内容そのもの(実体概念)を「体育」とよぶことはできなくなる。また、機能させるために意図的な学習行為を仕組んだとしても、それが機能不全で終わるリスクも孕んでいるため、教師側の意図的な指導行為だけを「体育」とよぶこともできない。つまり、これら3つの「体育」は同時に成立しないのである。このパラドクスが「体育」という語句の使用を曖昧にさせ、意味がかみ合わないまま議論のまな板にあげられてしまうのかもしれない。

2.統一的な定義を試みる

このまま体育を曖昧なものとして片づけるわけにもいかないので、私なりに統合することを試みたい。これまで検討してきた3つの意味がそれぞれ中核に据えている価値をみると、

(1)運動内容としての「体育」 → Fun(楽しさ)
(2)学習行為としての「体育」 → Study(意図的な学習行為)
(3)機能としての「体育」 → Develop(結果的な発達や成長)

であるため、これらがすべて同時に成立した状態=体育とできるのではないだろうか。これをイメージ化したのが下図である。

体育のイメージ図

結果的に機能した後のすがたをイメージし、それを達成できる確率を高くするための意図的な指導計画を立てる。さらにそこには子どものモチベーションという重大な変数もあるため、魅力的な運動を用意する。このような逆算思考の直線的な関係性がこの3つにはある。したがって、3つの価値すべてが重なる中心を「体育」とすることができるが、同時にいずれかが欠損したものも想定されうる。

まずは「Fun」が欠けた状態である。知的な理解、身体的な発達や向上を目指し、そこに的確なアプローチがとられているが、当の本人にはまったく面白みのない【真面目な訓練】というケースはまだまだある。もちろん上達志向のフェーズに入っている子どもにはうれしい環境である可能性もあるが、必ずしもそれを歓迎しない子どももいるはずである。

日本を含む東洋は古来「心を鎮める」ことが人格形成や教育と密接にかかわってきたため、現在の教育現場にも過度に興奮させない・盛り上げないことが通奏低音のように流れている。一方で「気晴らし・余暇」として身体活動をしてきたスポーツを題材とするのであれば、一定の娯楽性は必要だとする意見が現在は高まりつつあるように感じる。今後は体育に「楽しさ」を期待する声が益々高まっていくだろう。

つぎに「Study」が欠けた状態である。子どもたちは楽しく運動しており、それによる多様な発達や向上が結果的に観察できるというのは、主に幼児教育や保育の文脈で語られる「遊び play」そのものである。基本的に保育者(大人)はそれを見守り、子どもたちの世界観には立ち入らない。このような【教師不在の遊び】の中で子どもたちはたくさんのことを経験的に学んでいくという姿勢である。

しかし、学習指導要領で定められた義務教育の中でこんな「ノープラン」なものが許されるはずもない。これがきちんと「体育」として成立するためには、教師によるコーディネートが不可欠である。これをどの程度整えるかはそれぞれの意見があるが、ある意味ここのさじ加減が体育指導力とよばれるものになるのだろう。

最後に「Develop」が欠けた状態である。一見すると教師が上手にコーディネートした中で楽しい運動をしているようだが、そこから何もうまれていない【見せかけの指導】といわれると、どんな場面を想像するだろうか。これはまさに、先ほど述べた「意図しても結果が伴わない機能不全の状態」である。

例えばSNSで見つけた面白そうな運動をそのまま真似してみたけど、ただその場を盛り上げただけで指導者としてその意義を見出せなかったり、仲間が応援しながら必死の思いで逆上がりができた子に盛大な拍手を送っても、本人には苦痛とみじめさしか残らなかったりという場面がこれにあたるだろう。

この【見せかけの指導】のゾーンは、【真面目な練習】【教師不在の遊び】とは違って「意図せずに陥ってしまった」というケースが非常に多くなる。楽しい運動を用意したり、よかれと思う指導を試みたりすることは教師自身の裁量だが、そこに機能が伴うかは結果論でもある。端的にいえば、お笑いでいうところの「スベった」実践が位置付けられるのがこのゾーンである。

3.まだ残る課題

こうして3つの価値をすべてそろえた状態を「体育」とよぶと整理してきた。このような整理ができたことは一定の成果になると感じているが、まだ詰め切れていない部分がある。それは次の2つである。

(1)「体育」の中身には触れていない

本稿の議論は「体育」と「体育になりきれていないもの」の区別が中心であった。しかし、中央の「体育」の中をさらに拡大しても、そこには多様なものがあるだろう。本稿の議論の延長で言えば、「Fun」「Study」「Develop」のバランスである。かなり「Fun」が強めの教師もいるだろうし、逆に「Study」重視の教師もいてしかるべきである。この中を詳細に記述することはできていないが、皆さんにとって3つの価値がどんなバランスになっているのかをぜひ省みていただきたい。

(2)学校以外の「体育」は存在するのか

上述した体育の定義でいくと、必ずしも学校における授業でなくても「体育」が成立することになる。例えば、地域のスポーツクラブが大会に向けた練習をする中でも人格形成を目指したプログラムが組まれている場合や、学童などの放課後サービス事業が自前の運動指導プログラムを持っている場合などである。さらにいえば、休日にレジャー施設に出かけ、そこのアスレチックで遊び方のマナーを教えているのであれば「家族による体育」とだってよんでいいはずである。

ところが、学校の教員以外で、自分が体育を行っていると自認している人は極めて少ないのではないだろうか。実際にスポーツクラブとして子どもたちと関わっている事業者は、体育ではなく「スポーツ教育」とよぶだろうし、日本体育協会から「日本スポーツ協会」へ、国民体育大会から「国民スポーツ大会」へと名称変更したことからも、「学校の外にあるものはまとめてスポーツとよぼう」という流れを強く感じる。

しかし、一方の日本体育学会は、人格形成や健康寿命向上のためのスポーツや運動の活用をすべて「広義の体育」とよんでおり、学校体育以外にも体育はある、さらにいえば「自分で自分に行う体育」があるとさえ述べている。

スポーツ庁スポーツ審議会資料より
日本体育学会,2016

児童期・青年期のスポーツ指導は、必ずしも競技力向上が第一義ではなく、人間的な成長を促すためのものであるという考えは現在の日本にも広く浸透している。スペインのバルセロナやビジャレアル、ドイツのバイエルンなど、制度として「第二の学校」のような教育機能を備えたクラブでも、彼らがしていることは果たして「Physical Education」なのだろうか(バルサ財団の関係者に先日メールで問い合わせたが、まだ返事がもらえていない)。

私は「新たにスポーツを楽しむ人を増やしたい」という思いで転職したが、新しい就職先でやろうとしていることは、スポーツ庁の定義によれば「スポーツ」となるし、日本体育学会の定義によれば「広義の体育」になる。「体育」と「スポーツ」の違いはまだまだ明確ではない(明確にはならないかもしれない)が、この曖昧な領域で生きていく以上、今後も検討を続けていかねばならないと思っている。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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