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【短編小説】塩をいただけませんか

■はじめに

 十五年程前に書いた小説を加筆修正いたしました。原文は今よりもっと拙劣でした。しかし物語は気に入っていたので、大筋は変えずにそのまま使いました。歳を重ねても根っこはなかなか変わりません。予てより人ならざるものに惹かれます。
 ヤマタカボウとトレンチコートが黄昏の路地裏を歩いています。しおからい雨が降っているとヤマタカボウは大きすぎる傘を差しますが、トレンチコートはどこか訝しく思っています。即かず離れず同じ場所へ帰って行く、彼らの物語です。

■塩をいただけませんか(約1400字)

「今日の雨はしおからい」
 ヤマタカボウが黒い蝙蝠傘を勢いよく開く。乾いた音が黄昏の路地裏へ不気味にこだました。冬の足跡が残る旧市街の土壁を、薄橙のひかりがおぼろに染める。
「雨など降っていないけれど」
 トレンチコートは独り言ちた。友をちらと盗み見れば、鍔を上げて澄まし顔で歩いている。ヤマタカボウには聞こえていないようだと、胸を撫で下ろした。
 心淋しい路地裏へ衣擦れの音だけがひびく。トレンチコートは落ち着かないような気持ちで、そわそわと襟を立てたりベルトを結んでみたりした。街灯に浮かび上がるヤマタカボウの丸い影は、雨が降っていないのに大きすぎる傘を差していた。
「雨はしおからくなるものなのか」ヤマタカボウが虚空を振り仰ぐ。
 答えを求めているわけではないのを、トレンチコートは知っていた。
 猫が彼らを見上げ、はたと歩を止めた。野良猫らしいのによく肥えている。きっとすぐそこの古い飲食店街に住む猫に違いない。トレンチコートが袖を伸ばしたら、たちまち建物の隙間へ姿を消してしまった。
「海から蒸発する折、塩分を海に返し忘れたのだろうか」ヤマタカボウは生真面目に言った。
 トレンチコートは適当に相槌を打つ。そして「雨が強くなってきたみたいだ」とだけ返した。
「そうだな、君も傘に入らないか」
 ヤマタカボウは大きすぎる傘をトレンチコートの方へ傾ける。トレンチコートは先刻の猫を小さな神社の石鳥居の下に見つけていた。「なんだそこへいたのか」その声へ応えるように、猫は思いのほか可愛らしい声で鳴いた。「黒猫か」ヤマタカボウが帯布を緩ませ、トレンチコートは「ああ、三毛猫だ」と返した。
「それに……」
 それは雨じゃなくて涙だ。そう続けようとして止めた。
「なんだ」
 通沿いの民家から幾つかの笑い声が弾け、彼らは揃ってそちらを振り返る。にわかに生温い小風が吹き、可憐な花が香った。その中へ甘辛い煮魚の匂いをしっかり嗅ぎ分けた。
「今日の夕飯は何だと思う」
 曇り硝子へ揺れるあたたかなひかりを横目に、トレンチコートは友に訊ねた。――そうだな。――ヤマタカボウは鍔を下げた。恰もそれが社会を動かす重大な問題であるかの如、深刻なようすで。
「香ばしく揚がったビーフカツレツに、艶やかな飴色のオニオンスープ」
――あとはミルクに溺れた珈琲ゼリーがあれば最高だ。――ヤマタカボウはうっとり言って、傘の下で軽やかにまわる。すでにその味を愉しんでいるかのようだった。
「やれやれ夢みたいな話だな。厚揚げの煮物に茄子の味噌汁がいいところさ」トレンチコートが大袈裟に肩を落とした。
 酩酊したハイヒールが彼らの間を千鳥足で通り過ぎて行く。香水と酒の混じった鋭い匂いが染みないよう、トレンチコートは身を翻した。
「寮母さんの味付けは少し薄すぎる」
――そうは思わないか?――ヤマタカボウが珍しく同意を求めてきたので、トレンチコートは大きく何度も頷いた。
「Would you pass me the salt, please?」トレンチコートは口内でそっと呟く。
 幼い頃に覚えたての英文を得意になって何回も唱えた。そして用事のない塩を家族に回させたものだ。涙から塩辛さをもらったら、少しは軽くなるのだろうか。
 ヤマタカボウは相変わらず澄まし顔で歩いている。トレンチコートは襟を正し、ヤマタカボウに然りげなく寄り添った。
「雨止んだみたいだな」トレンチコートはヤマタカボウに言ってみる。
「ああ、そうらしい。見ろ、月が飴色だ」
 すでに西陽は建物の向こうへ沈み、薄橙のひかりが濃紺の夜へ溶けはじめている。彼らは割烹着の作る夕食へ思いを馳せながら、古い社員寮への帰路を急ぐ。ばかに大きな傘を差すヤマタカボウを被ったコートの影が、石畳へ青く伸びていた。

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