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【短編小説】わだかまりの蔦【微睡草紙】

■まえがき

 よく夢をみます。浅い眠りのなかはおそろしいもので、しばしばへんなものをみせられます。そういう夢を簡単に編みなおして短い物語にしました。これを『微睡草紙』とします。
※夢から着想を得た創作です。登場する人物・団体などはすべて架空です。

■わだかまりの蔦(約3000字)

 割れた格子窓から零れる光の粒が、白衣を纏った老人たちの姿を淡く照らしている。彼らはそれぞれ風変わりな楽器を手に、奇っ怪な音楽を奏でていた。楽器は皆、朽ち果てた容器や器具に見える。ゆらゆら音に酔いしれる白く濁った無数の影。煤けた壁には青い蔦が絡み、苔むした木椅子が転がっている。気づけば僕は廃墟のような場所へいた。
 あたりから歓声が沸き起こり、僕はつられて拍手をした。老人たちはそれに応えるように、長い髭眉の下へほほ笑みを湛えて観衆を見渡す。真ん中に立つ背の高い老人がおもむろに口を開いた。
「皆様どうもありがとうございます。先ほどの演奏は『木綿豆腐の曲がり角』でした……ここで、メンバー紹介をさせていただきます。ブリキの一斗缶、白木翔十朗しらきしょうじゅうろう……」
 白木と呼ばれた老人が錆びた三つの一斗缶を赤、青、青、黄の順で軽快に鳴らす。「洗濯板、白柏翠しらかしあきら」恰幅のいい老人がくすんだ木板を籐の布団叩きで擦ると、後ろから指笛が聞こえた。「やかん、神羽百佐かんばももすけ」鳥打帽にスカーフの老人が真鍮とホーローのやかんを交互に吹く。銅を指で弾きながら、蓋を上げ下げして音程を取っている。これには僕も気分がたかまり、おもわず感嘆の声を漏らした。「黒電話、烏羽狛治うばこまじ」烏羽の周りを囲む五台の電話が一斉に鳴りひびく。もしも……もし……も、し、もしもーーし、彼がリズミカルに受話器を取れば、廃墟は笑いに包まれた。「そして……お待ちかね」青、緑、黄のプロペラを携えた扇風機の前で、老人がにこやかに両腕を広げる。
「私が安楽扇寿朗あんらくせんじゅろうです」
 安楽がうやうやしくおじぎすると、われんばかりの喝采が起こった。朽ちた天井が落ちるのではと振り仰げば、すでにそれはなく生い茂る樹木と青い空が覗いていた。
「……米粒は見えにくい。だから迷うのです。米粒が大きかったら迷わない。しかしながら……米粒は小さいから旨いのだと私は思います。小さくていっぱいあるから旨い。いっぱい迷いましょう。そしてまたここで、逢いましょう。聴いてください。『黒山羊のおしりに生えた白い羽』」
 黒電話のベルが曲のはじまりを知らせる。神羽の鉄瓶が厳かに鳴るのを聞きながら、僕は彼らの名前に必ず〈白〉と〈羽〉が入っているのに気がついた。白、翔、柏、翠、羽、百、狛、楽、扇――それらの文字が羽虫のように視界を旋回し、あたたかな薄もやが僕を包み込んだ。僕はそこへとっぷり身を沈め、甘やかな気分で何かを待っていた。閉じた瞼の向こうで、プロペラの回る音が遠くなっていく。

「七階……ちょっとあなた……七階を押していただけないかしら」
 きつめの語気で呼び起された。声のしたほうを振り向けば、釣鐘型の帽子を被った女が腕組みをして僕を睨みつけている。ウエスト位置の低いフリルのワンピースが可愛らしい。「七階」苛苛とため息を吐かれ、僕の横へ数字の書かれたボタンが並んでいるのに気づいた。「あ、す……すすすみません……」わかりやすく取り乱し、ころんと丸いボタンを押す。
 どうやら今度はエレベーターの中らしい。蛇腹扉を持つ古いエレベーターがロープを軋ませながら、ものものしく上昇していく。エレベーター内には女と僕のふたりきり。エレベーターといえども狭い物置のようで、僕らはうずたかく積み上げられた古道具に囲まれていた。アール・ヌーヴォー様式の椅子、そこへ座る剥げたテディベア、天使のテーブルランプ、僕らの姿を映すマホガニーの三面鏡……そして多種多様な植物や花が隙間なく繁茂している。彼女が数字の書かれたボタンを押せず、気をもんでいたのも頷ける。そのボタンですら、今にも淡黄の木香茨に覆いつくされてしまいそうなのだから。
 大きな揺れと共に花びらが宙を舞い、エレベーターが止まった。なかなか開かない扉の前でまごつく僕に、女が冷ややかな視線を投げる。「三階よ。あなたここで降りるんでしょう」確かにそうだったような気がして、手動の蛇腹扉を開けて表へ出た。大儀そうに上昇しはじめたエレベーターを眺めながら、七階には何があるのか聞いておけばよかったと思った。
 三階は礼拝堂だった。エレベーターの扉から真っ直ぐ、赤い天鵞絨の絨毯が祭壇へと続いている。祭壇の奥には見事なステンドグラスのアーチ窓があり、三羽の鳩と白百合、そして薔薇が描かれていた。側壁にはそれぞれ花咲く草原の羊、波間を泳ぐ魚のステンドグラスがある。そこから淡い陽光が射し込み、天井を色とりどりのひかりが踊っていた。宗教を持たない僕だったが、眼球の奥が熱くなるのを感じた。
 やがてふっくらとしたオルガンの音に合わせて、透きとおった歌声が礼拝堂へひびいた。いつの間にか祭壇の前へ白いワンピースを纏った髪の長い女がいる。彼女は胸の前で手を組み、直立不動でうたっていた。長い前髪が白い頬へ垂れているため、表情はよくわからない。ただ、なぜかとてもかなしげに見えた。
 女の不安定で美しい歌声が白煙となり、僕の右耳から立ち昇る。しゅるしゅる渦を描き、ふたたび僕は薄もやへ包まれた。前よりもわずかに温度が低く、僕は心細い気分で何かを待った。

 僕は板張りの回廊へ立っていた。枯れた蔦の隙間から漏れる仄明かりを頼りに、軋む床を歩く。頭頂を何かが掠めた気がして視線を上げると、天井へ無数のバイオリンが生っていた。まるで隊列を組んで僕の頭の上を、ざっざと行進しているようだった。
 そのうちのひとつへ手を伸ばし、弾いてみようとしたが構えがわからない。十年間バイオリンを弾いていたのだから、わからないはずがない。構えようとしたら、バイオリンがぐにゃりと歪んでかたちがわからなくなる。
 にわかに全身から汗が吹き出し、バイオリンの首を掴む手が滑った。何度やっても思うように音が出ない時の焦燥が蘇り、僕の鼓動は早くなる。しかし意地になるほど、バイオリンは原型を失っていく。ともすれば僕との攻防を楽しんでいるかに思えた。昆布のようになったバイオリンを丸め、回廊へどっかと腰を下ろす。昆布、もといバイオリンから手を離したら、すぐに元のかたちへ戻った。僕はいまいましい気持ちで舌打ちをした。
 仄昏い回廊の床は冷たく、急に寒くなった。バイオリンの群れへの驚異が、重く背中へ伸し掛かっている。弾いてもいないのに研ぎ澄まされた音が鼓膜を震わせた気がして、大きく身震いをした。
 ふいに一筋のひかりが射し、壁際の小さな本棚を照らす。バイオリンに気を取られ、本棚があるのに気がつかなかった。三段の棚へまばらに子どもから読めそうな本が並んでいる。僕は床へ手をつき、二段目から本を一冊引っ張り出した。
 それは一匹の黒山羊が出てくる絵本だった。その黒山羊の尻には小さな白い羽が生えている。何気なく頁を捲っていたら、青い蔦に飲み込まれる黒山羊の絵が描かれていた。逃れようともがくが、黒山羊が逆らうほど蔦は絡まる。飛び立とうにも、尻に生えた羽は小さすぎて役に立たない。黒山羊は通りすがりの老人へ助けを求める。すると老人が言う。わだかまりの蔦を解きたければ…………そこまで読んだところで、黒電話のベルがけたたましく僕を揺り起こした。
 そういえばアラーム音を黒電話にしたんだっけ。スマートフォンの画面をタップしてアラームを止める。薄ぼんやりとした意識の中、〈わだかまりの蔦〉という文字が網膜へこびりついていた。大きな欠伸をひとつしてメモアプリを開き、〈わだかまりの蔦〉と打った。いったい老人は何と言ったのだろう。わだかまりの蔦を解いて山羊を救う方法を、僕はまだ知らない。

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