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【短編小説】そえものたち

■あらすじ

 とある路地裏の雑居ビルで男女が話している。あやふやなままとりあえず生きている。そういう取るに足りないものたちの、とりとめのない黄昏時の物語。

■そえものたち(約2300字)

 大きな鴉が電柱の変圧器にとまった。ここは昭和の趣が残る古びた雑居ビル。老舗飲食店が並ぶ通りの仄暗い路地裏、窮屈そうに佇んでいる。3階にある休憩所は5畳ほどしかなく、なげやりな空気が居座っていた。
「用が済んだらそれでポイよ、いい気なものね」
 薄く開いた唇から柑橘の煙がただよう。淡い黄色のジャンプスーツに、同系色のカチューシャとスリッポン。腰かけた臙脂のソファは小柄な女には大きく、まるで小さな子どものように見えた。
「用があるだけマシさ。僕なんか見向きもされないよ」
 深い緑のケースから電子タバコを取り出し、くせ毛の男が自嘲気味に笑う。男が座るにはその丸椅子は小さく、ひょろ長い脚がはみ出していた。
「たまにいるじゃない。アンタをものすごく好きなひと」
 外巻きの毛先を弄びながら、女は渋い顔で窓の外を見ている。視線の先には変圧器の上で獲物を啄む鴉がいた。
「ああ、それかい。ただの変わり者アピールに利用されているだけさ」
「それで言ったらアタシも気が利くアピールに使われたりするわよ」
 しばし休憩所に時計の秒針の音がひびく。そこにはいつからあるのかわからない日に焼けた振り子時計があった。「驚いた。あの時計40分も進んでいる」ポケットから取り出したスマートフォンを見て、男が言った。女は左腕を優雅に返し、金の華奢な腕時計をたしかめる。「あら、だとしたらアタシのは10分も遅れてる」
「でも君はいいよな、僕よりずっと華があって。見た目もいいし、香りも……」はっと言い淀み、顔を赤らめて俯いた。
 女はまったく意に介しないようすで、ばかでかい水筒に口を付けた。男は長い脚を不器用に組み替え、陰鬱な陰をまとった路地裏に目を移す。今にも雨が降りそうな天気だった。
「見た目だけっていうのも、さびしいものよ。ほとんどお飾りだもの、アタシ」
 女はバッグへ水筒を押し込み、ソファからするりと立ち上がった。そして数歩進んで男を振り向き、「アンタも歯磨き、忘れないでね。アタシたちにだいじなのは爽やかさなんだから」そうさばさば言い残して軋む扉を閉めた。
「爽やかさ……か」
 メンソールのスティックを抜き、赤いスモーキングスタンドへ捨てる。男は放置されていた消臭スプレーを手に取り、身体へ吹き付けた。終わりかけだったらしく、うまく噴射されずに深い緑のセットアップへまだらな染みを作る。舌打ちをした瞬間ポケットでスマートフォンが震え、見ると旧友から数年ぶりにメッセージが届いていた。「今日女の子とのむんだけどあいてる」既読をつけないようにたしかめ、苛苛とアプリを滑らせて消した。

 青いタイル張りの男子便所で歯を磨いていると、外から仲間たちの話す声が聞こえてきた。
「まいるよな、泣かれちまうとさ」
「わかるよ。俺もきらわれないように甘くしたら、逆効果だっての」
 ため息交じりの声に鏡の中の顔が緩む。手洗場のボウルへ泡を吐き出し、両手で水を掬って口を濯いだ。うがいをしようとして天井を仰いだとき、「でもさ、アイツらよりはマシだよな」すぐそこで声がした。「ああ、檸檬とパセリね」彼らがにやにや便所へ入って来たのは、パセリがうっかり水道水を飲み込んだのとほぼ同時だった。ほうれん草と人参。連れ立って歩くふたりと鏡越しに目が合い、その表情がにわかに凍りつくのがわかった。
「やあ、君たち。調子はどう」
 パセリは濡れた口元をタオルで拭い、できるだけ爽やかにほほ笑んだ。「あ、ああ、まあ、おかげさまで……」彼らは引き攣った顔を見合わせ、そそくさと個室へ入って鍵を閉めた。「仲良く大きいほうかい、ごゆっくり」パセリは個室へ向かって朗らかに言った。
 すがすがしい表情で便所を後にし、パセリは外階段へ出た。さっきまでのおもくるしい天気が嘘のように、路地裏を黄金色の夕陽が満たしている。砂埃で汚れた螺旋階段をゆっくり昇っていたら、5階の踊り場へゆたかにかがやく影を見つけた。まるで世界中の光を一身に集めたようなそのすがたに、パセリは思わず足を止めた。
「あら、いたの」檸檬がパセリへ視線を落とす。
「雨降らなくてよかった」
「降ってもよかったわ」
 檸檬はまぶしそうに目を細め、遠く西の空を見つめる。どこかで鴉の鳴く声がした。パセリは残りの数段を上り、檸檬の隣へ並んだ。透きとおった甘い香りが、冷たい風をみずみずしくうるおす。
「ねえ、アンタ」大きな目を見張り、檸檬がパセリの頭を指した。「花、咲いてる」
 パセリはそっとくせ毛に触れる。中指の腹に柔らかな花びらが触れた。
「ほんとうだ。そしたら僕はもうここにはいられないや」
 思いがけずはればれとした声がこぼれ、パセリは少し戸惑い、そして小さく笑った。いてもいなくてもいいやつから、いらないやつになるのに、どうして平気でいられるのか自分でも不思議だった。
「アンタにもあったじゃない、花」
 檸檬がふんと鼻を鳴らした。「黄色い花なのね」呟いた声はどこかうれしそうで、パセリは「そうさ」と胸を張った。いつの間にか空は藍に染まり、ビル際から紅い光が淡く滲んでいる。パセリはくせ毛の先に咲いた花を摘み、檸檬に差し出した。
「なんのつもり?」小さな黄色い花を一瞥し、檸檬が訝しげにパセリを見上げる。
「取るに足らないものさ」
「そうね、ほんと、取るに足らない」
 檸檬はぞんざいにそう言って、小さな花を持っていた本にそっと挟んだ。表紙にある『檸檬』の文字をパセリは見逃さなかった。「それでも僕は君が羨ましいよ」背の高いパセリの掠れた声が、小さな檸檬に届いたかどうかわからない。檸檬はひとつ身震いをして、「寒いわ。もう戻りましょう」とパセリに背を向けてしまった。階段を下りて行くその黄色い背中は、なんだかとてもさびしそうに見えた。

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